その1
相変わらずの雨で出歩く人もあまりいない京橋桶町の裏通り。その一角にある小さな長屋では、今日もツボ師の木兵衛による治療が行われている。
「い、いてててててててっ!」
「かなり痛いと思うけど、しばらくの辛抱ですぞ」
うつ伏せの状態で治療を受けているこの男は、南鍛冶町に住む鍛冶職人である。あまりの激しい腰痛で仕事するのが困難なので、風の噂で知った木兵衛によるツボ押しをお願いすることになった。
木兵衛の元には、激しい腰の痛みに耐えかねて訪れる人が多い。鍛冶職人のように体を使う仕事では、腰を痛めることで大きな支障が生じるからである。
木兵衛は鍛冶職人の腰を見ながら、腎兪の外側にある左右の心室を親指で強く押し続けている。強く押されるツボ押しに、歯を食いしばる職人の男の姿は痛々しそうである。
「施術した腰のほうはどうですか?」
「おっ! さっきまで死ぬほど痛かった腰が、いつの間にか痛みがなくなるとは!」
鍛冶職人は木兵衛の呼びかけに応じて腰を動かしても、全然痛くないことに嬉しさを隠せない。施術にやってきたときの表情とは全く正反対である。
「お代は24文ということですが、ちゃんとありますかな」
「え~と……。確かに24文ありますね」
その男はお代を支払うと、木兵衛に何か自慢しようと口を開いた。
「へへへっ、恋川春町っていう名前は知っているか?」
「恋川春町か……。う~ん、初耳だなあ」
「江戸っ子だったら、恋川春町の名前ぐらい知っておかないといけないな。あの『金々先生栄華夢』を著した大先生だぞ」
春町の作品の魅力を熱心に語る鍛冶職人に対して、木兵衛のほうは初めて聞く名前に戸惑うばかりである。
ツボ師としての施術を全て終えると、長屋を出て表通りのほうへ向かうことにした。雨が上がった裏通りの路地に立った木兵衛は、黄昏時を迎えて紫色に覆われつつある空を眺めている。
「恋川春町はどんなのを書いている人だろうか」
忍術書や東洋医学書など、木兵衛が表裏の仕事で参考にするために目を通すことはある。けれども、恋川春町という作家がどういう人なのかは、木兵衛にとって未知の領域に他ならない。
「鍛冶職人があの本を手に入れたのはここらしいな」
南傳馬町3丁目の通りを歩く木兵衛の目に入ったのは、『鶴鱗堂』という店頭の先にある箱看板である。本屋の中へ入ると、そこには本を選んで買っている町人衆の姿がある。
ろうそくに照らされた屋内で、木兵衛は何冊も重なった『金々先生栄華夢』から上にある冊子を手にした。
木兵衛は番頭に8文を支払うと、闇夜に包まれようとする表通りに出てきた。そんな時、路地を歩いていた清蔵と偶然出会うこととなった。
「木兵衛もこういう本を見るとは珍しいな」
「ま、まあ……。施術を受けたお客さんがこの本を愛読しているもので」
「恋川春町なのか……」
「清蔵、どうしたんだ」
「ちょっと気になってなあ」
清蔵は、作者名のことがどうしても気になって仕方がない。
「ここだと町人たちが出歩いているし、いつもの長屋へ行ったほうが」
清蔵が小声で木兵衛の耳元に伝えると、2人は町人衆をかき分けるように路地を急ぎ足で走り駆けた。
主なき長屋の地下部屋へ入った2人の忍。ろうそくに照らされる中、影はその場で春町に関する事柄について口を開いた。
「その恋川春町のことだが、最近病気かなんかで隠居したみたいで……」
「隠居? それはどういう理由なのか」
「実は、3ヶ月ぐらい前のことだが……」
影は、陽の顔を見ながら言葉を続けた。
「おれが武家町のある屋敷へ鞘を納品した時、奥の部屋から聞こえたある言葉が耳に入ったんだ」
「その言葉とは?」
「定信からの呼び出しを受けたにもかかわらず、病に臥せているという理由で春町が出頭しなかったことへのいら立ちということさ」
影が耳にした春町の新たな情報に、陽はすぐに言葉を返した。
「あの定信か……。何か妙な話だな。何の意図もなく春町を呼び出そうとはしないからな」
「例えば?」
「春町が著した書物が定信の逆鱗に触れたとか。意次と違って、定信は堅物という噂があるし」
陽は『金々先生』を手にしながら、定信の狙いがどこにあるのか考えを巡らせている。
そんな2人の前に現れたのは、端正でやや老いた顔立ちの元締である。
「さっきから2人で話しているようだが、何か気になることでもあるのか」
元締の言葉を聞いた2人の忍は、これまでのことを改めて伝えた。
「そういうことか。定信が関わっているとなれば、何か裏がありそうだ」
元締が発する言葉の端々に、忍たちはうなずくように聞き入っている。
「とりあえず、定信と春町の周辺を探るところから始める必要があるなあ」
陽がすぐに返答すると、元締は再び口を開いた。
「お前らがどう行動するかはとやかく言わない。くれぐれも、忍の掟を破るようなことをしてはならんぞ」
元締の最後の一言に、陽と影は忍としての厳しさを改めて感じることとなった。




