その6
暗闇に月光がかすかに照らす亥の正刻、黒川春之助の屋敷ではいつもと異なる不穏な空気に包まれていた。
屋敷の一角にある部屋からはは、春之助の怒号が響いている。
「いててててっ……。いきなり平手打ちをしやがって」
晴之丞は、春之助から頬を叩かれて強い怒りをにじませている。そんな彼の態度に、春之助は憤りを隠せない様子である。
「どういうことだ!」
「だから、おれたちはやってないって!」
「この期に及んで、わしに平気で嘘をつくとは……」
春之助の激しい怒りに、霧左衛門と仁蔵を含めた3人は声を出すことができない。
「江戸市中での町人殺し……。わしはお前たちがこんなことに関わっていないだろうと信じていたつもりだった」
一旦は冷静な口ぶりを見せた春之助だったが、三人の侍に対する憤慨は一向に収まる気配を見せない。
「南傳馬町2丁目で、無残に殺された町人の男が発見された。その男と結婚を約束した女が、同心に何と言ったか分かるか」
語気を強める春之助だが、若い侍たちは相変わらず沈黙を保ったままである。
「その女は、自分と結婚を約束した町人の男を殺したのは3人組の侍と同心の前ではっきり口にしているんだ」
強い口調で続ける春之助の怒りに満ちた面持ちとは裏腹に、若い侍たちは悪びれる様子を見せない。
「3人組って他にもいるだろ、何でおれたちばかり疑うんだよ」
「おれの名前が出ていないのに、いきなり平手で叩きやがって!」
声高にののしる侍連中を前に、春之助は新たな事実を突きつけようと口を開いた。
「その女が同心の前で口にしたことがもう1つある。それは、3人組のうち晴之丞と霧左衛門の名前をはっきりと言っていることだ」
3人の武士は、思わず耳を疑う言葉を発した春之助を直視しながら沈黙している。なぜなら、それは自分たちの手で人を殺めたという受け入れ難い事実だからである。
素直に罪を受け入れようとしない3人は、すぐさま反論するべく次々と口を開いた。
「同心とか何とか言ってるけど、ここは武家地だぜ」
「武家地はだな、町奉行の担当区域じゃねえだろ」
汚い口調でまくし立てる3人の侍だが、これを聞いた春之助のほうもすぐに反応した。
「武家地に逃げ込めば何をやってもいいというのは、お前たちの勝手な思い込みだ」
「勝手な思い込みだと?」
「おれたちの前で言いたいことばかり言いやがって……」
春之助が言うたびに、鬱陶しそうな口調の3人の若い侍は相変わらず言い訳するばかりである。
「言い訳ばかり繰り返せば済むと思ったら大間違いだ。今回の件が目付に知れたら、この屋敷で身辺調査が行われるのは間違いないだろう」
3人の侍に警鐘を鳴らすために発した春之助の言葉は、同時に自らを律するための言葉でもある。町人殺しで3人組が徒目付に捕まって評定所で裁きを受ければ、春之助も監督不行き届きで切腹を命じられる可能性が高い。
自らの命を捨てるという覚悟で望んだ春之助の発言であるが、その訴えが通用しないのが屋敷預かりの身である3人の侍である。
「身辺調査って、おれたちの何を調べるつもりだ」
「さっきから何度も言っているだろ……。お前たちが町人殺しに大きく関わっているって」
春之助は、他人の言葉に耳を傾けない3人の侍に自分たちが行った罪を認めるように求めた。傍若無人かつ横暴な振る舞いで知られる若い侍といえども、事の重大さは分かっているはずと春之助は考えていた。
しかし、3人組は町人を殺めた罪を認めないばかりか、さらに凶行を重ねようと左腰から刀に手をつけた。
それに気づかない春之助は、3人に自分の罪と向き合うよう再び呼びかけた。
「どうした? ずっと黙り込んでいるけど……。うぐっ!」
仁蔵が後ろから春之助の背中をバッサリと斬ると、これを見通したように晴之丞と霧左衛門の2人は正面から縦横無尽に斬っていった。
「お前たち……。何のために……わしを……」
途切れそうになりながらも何とか言葉にして出そうとした春之助だったが、最後まで言うことなく息絶えることとなった。
「はあっ、はあっ……。これで目の上のたんこぶがいなくなったぜ」
晴之丞は息遣いをしながら、自らの手で斬り殺した春之助の屍を平然とした顔つきで眺めている。問題は、この死体をどのように処理するかである。
「これからどうするんだ……。いつまでも死体を放置するわけにはいかないだろうし」
「屋敷にいる他の人間に気づかれたら本当にまずい」
門番がいる表門から出るのはまず不可能だが、裏のほうは堀に面しているのでむしろ好都合である。
「よし、今のうちだ」
晴之丞たちは闇夜に包まれているのを見計らうと、春之助の死体を深い堀の中に放り込むことにした。
翌日、箱崎町2丁目の永久橋付近には、変わり果てた春之助の遺体が浮かんでいた。あまりの無残な殺され方に、雨が降る中で集まった町人衆は騒然となった。
清蔵が春之助の死を知ったのは、権三郎が住む長屋を再び訪れたときのことである。
日が暮れて黄昏時を迎えた頃、清蔵が長屋に足を入れると畳職人の仕事を終えた権三郎の姿があった。
「権三郎、包帯で巻いた刀傷のほうはどうか」
「刀傷のところはまだ痛むけど、早く治して1人前の畳師になれるよう精進したいです」
権三郎の大ケガの状況が気になって話す清蔵に、権三郎は親方に畳の張替えを依頼した人間に関して口を開いた。
「吐血で畳を汚してしまったから替えたいと、ある武家屋敷から畳の張替えをしたいということだけど……」
「おれの長屋は板張りだから、畳の張替えがどんなものか疎いんだが」
「畳敷きでなかったら分からないかな……。それはさておき、その畳が汚れた部分だが、どうも吐血ではないみたいだ」
首を傾げるしぐさを見せた権三郎は、清蔵の前でさらに言葉を続けた。
「よく見ると、畳についているのは、刀で何度も斬られたときのおびただしい血だ」
「刀で斬られただと……。その屋敷の持ち主は?」
「確か、黒川豊後守春之助で間違いなさそうだ」
清蔵は、権三郎の口から出てきた春之助の名前に驚きを隠せない。
「それと、これは今日もらってきた読み売りだ。黒川春之助の遺体が永久橋の近くで見つかったそうで……」
権三郎から受け取った読み売りに目を通すと、清蔵の顔つきが急に険しくなった。
「数箇所にも及ぶ刀傷があったということか……」
清蔵は、春之助の死の真相を探るべくあの屋敷へ向かうことを即断した。




