その4
同じ日の戌の正刻を過ぎた頃、陽は黒川春之助が住む屋敷の屋根裏で密かに偵察を行っている。その標的は、春之助本人と彼が匿う3人の侍である。
屋根裏から耳を当てると、傍若無人に振る舞う3人の言葉が入ってきた。
「ちっ、とんだ邪魔が入りやがって」
「まだ今日のことを根に持っているのか」
「ここで声を荒げれば、春之助殿に聞こえるだろうが」
晴之丞の荒げた一言に、霧左衛門と仁蔵の2人は春之助の耳に入ることを恐れている。
「じゃあ、霧左衛門や仁蔵はすぐに刀で斬らなかったんだ。約束が違うだろ」
「約束って……。おれたちがやっていることを他人に見られたらまずいと思って……」
この様子は、屋根裏にいる陽の耳にも次々と入ってきた。
「町人殺しを行ったのは、あの3人なのか……。3人の中で中心となるのが晴之丞という男だな」
3人の会話では殺しの言葉こそ出なかったが、少なくとも町人へ斬りつけたという認識は持っているようである。
屋根裏から情報を得ようと、陽は改めて耳を当てた。
真下から聞こえる声は、先ほどの荒げた様子とは明らかに異なっていた。それは、3人の声質の違いですぐ分かる。
「春之助様がこちらへやってくるぞ」
「ここはおとなしくしておいたほうがよさそうだ」
侍たちの耳に足音が入ると、出入口の障子に向いては正座をしている。そこへやってきたのは、黒川家の当主である。
そこで春之助が口にしたのは、3人にとって思いもしないことである。
「最近、雨が激しく降っているのに外出しているようだが」
その一言に、3人の武士は何か言い訳することができるかを個々で考えている。
「南茅場町の道場にて剣術の稽古を行うので、雨中でも外へ出ないといけなくて……」
晴之丞が口にしたその内容は、もちろん嘘である。しかし、春之助には彼らが稽古に励んでいることに感心しているようである。
「ふう、危なかった……」
晴之丞がホッと一息をついていると、春之助が3人に対して再び口を開いた。
「まあ、くれぐれもわしの顔に泥を塗るようなことはしないことだな」
春之助がその場で発する言葉の数々に、3人の侍は黙って耳を傾けていた。
「あの3人、何か弱みを握られているような……。黒川春之助がどういう経緯で厄介者の侍たちを預かったのか、探りを入れる必要があるな」
屋敷の屋根に出た陽は、開き門から外出しようとする春之助の姿が目に入った。
「これから旗本衆のところへ参りますので」
「夜中ですので、くれぐれも気をつけてくださいませ」
春之助は門番に伝えると、火を灯した提灯を持って真夜中の路地を歩き始めた。
「こんな真夜中にどこへ行くつもりだ」
屋根伝いに飛び移りながら春之助を追う陽の姿は、まるで暗闇に紛れ込むような動きを見せている。陽は屋根に潜めながら、春之助が移動する様子を注意深く追っている。
「あれは、奥山佐渡守の屋敷か。春之助とどういう関係なのか」
門番の許しを得て大きな屋敷の入口に踏み入れた春之助の前には、口髭を生やした強面の男が現れた。
「夜分に失礼します。こちらへやってきたのは、例の件でお話があるからです」
「そうか。それなら、わしが座敷へ案内いたしましょう」
相手の男は武士らしい豪快な外見とは異なり、その口ぶりは冷静そのものである。春之助は、手慣れた様子で長い廊下を歩いている。
座敷の前で小者が障子を開けると、2人はその中へ足を入れた。春之助は相手の男と向かい合うように正座すると、開口一番にある言葉を発した。
「小左衛門殿、駿府町奉行へのご就任、大変喜ばしい限りです」
「わざわざご挨拶をしにやってくるとは、こちらとしても有難いものだ」
低姿勢で相手に気遣う春之助の様子に、奥山家当主・奥山小左衛門は柔和な表情で言葉を返した。
そんな小左衛門は、春之助にあることを言おうとさらに言葉を続けた。
「ところで、霧左衛門の様子はどうなんだ」
「彼を含めた侍3人の面々は、部屋の見回りを朝晩2回行っていますが……」
春之助が首を傾げるような表情に、小左衛門は再び口を開いた。
「まあ、杞憂であればいいのだが」
「どうかされましたか?」
「最近、江戸市中で町人たちが旗本らしき男たちに殺されてなあ」
小左衛門は、さらに言葉を続けた。
「どういうわけか、雨が激しく降ったときに限って町人たちが殺されているわけで」
その言葉に、春之助は晴之丞が口にした一言を思い出した。
「まさか、あいつが嘘を……」
「どうかなさいましたか?」
「いえ、別に……」
そもそも、晴之丞をはじめとする侍たちを春之助が引き受けたのは、非道の限りを尽くす彼らを勘当した親から要請を受けたからである。
「お前さんには、あんな厄介者を押しつける形になって本当に申し訳ない」
「わ、わしの前で頭を下げなくても……」
同じ旗本でも、春之助よりも小左衛門のほうが石高において格上である。そんな格上の立場にある旗本が頭を下げるわけだから、春之助が驚くのも無理はない。
「わしも、条件なしで厄介者の息子を預けているわけではない。お前さんも、膳奉行を長年務めていることだし……」
春之助は、先代家治公の元で小納戸御膳番の毒味役を長年勤め上げた。膳奉行の任に就いたのも、春之助の仕事ぶりに対して若年寄の京極高久からの推挙を受けてのものである。
それ故に、春之助は早朝から江戸城に登城しては御膳番の立ち会いを臨むことから、自分の屋敷には不在であることが多い。
傍若無人ぶりを見せる3人の侍は、春之助にとって頭痛の種である。
「何をしでかすか分からない……」
春之助が小声でつぶやいた一言は、3人の侍が口にする言葉を最初から信用していないことを意味するものである。
そんな春之助に、小左衛門が何かを言おうと口を開いた。
「わしは思うんだ……。あの霧左衛門に対して親子の縁を切ったことが果たして正しかったのか」
小左衛門が発した苦悩に、座敷の中は重苦しい雰囲気に包まれた。春之助は腕組みをしながら、小左衛門の思いを自分に置き換えて考え込んでいる。
「あの3人、住むところもなく放り出されたら何をするのか分からない。だからこそ、このわしが引き受けたわけだが……。仮に、町人殺しにあの連中が関わっているならば……」
厄介者を勘当する者、それを引き受ける者……。2人は、心労が積み重なってため息をつくばかりである。
この様子に、天井裏で聞いていた陽も驚きを隠せない。
「春之助には、何か裏があると読んでいたが……。早いうちに、3人組の侍が町人たちを殺めた証拠を見つける必要があるな」