その3
「この部屋から話し声が聞こえてきたけど、何を話していたんだ」
「いや、別に……」
「単なる身内話なんだから、そのくらいのことで気にしなくても」
侍たちは、春之助の前で緊張しながらも何とか取り繕うように口を開いている。彼らの様子に、春之助はある言葉を残して部屋から出ることにした。
「晴之丞、霧左衛門、仁蔵……。いいか、親から勘当されたお前たちをわしが預かっているということ、決して忘れるんじゃないぞ」
春之助が障子を閉めて廊下に出ると、3人組は足音が小さくなるにつれてホッと一息をついた。
「ふう、危なかったな」
「これが露見されたら、ただでは済まないかも……」
「なあに、表通りの状況と判断次第さ」
この侍たちの会話は、屋根裏にいる2人の忍にも伝わることとなった。
「今まで偵察した中で、これだけどうしようもない輩というのは初めてだ」
「わしは、あの3人を預かる黒川春之助の存在が気になるけど……」
「春之助って、あの3人組を預かる身である旗本のことか?」
「あれだけの厄介者を進んで引き受けているみたいだけど……。これは何か裏がありそうだ」
3人組の侍と春之助が深い関係にあるかどうか、それは忍たちもまだ分からない。2人の忍は、侍たちの連中と黒川豊後守の動きを注視することを互いに確認した。
その翌日、清蔵は自分の長屋から出ると、雨が降り続く南鞘町の裏通りを庇の下から眺めている。
「町人たちが無残に殺されたのは、いずれも表通りだな」
清蔵がふと疑問に浮かんだのは、殺しに都合のいい裏通りではなくて、あえて人通りの多い表通りで殺されたのかということである。
「激しい雨が降る中、ほとんど出歩かない状況で殺しを素早く行うなら話は別だが……」
菅笠を被った清蔵は、水たまりに気をつけながら裏通りの路地を歩いている。少し先にある右角を曲がって進むと、そこは商家や問屋が立ち並ぶ南傳馬町である。
「さっきよりも、やけに雨が激しくなってきたぞ」
表通りに足を踏み入れた辺りから、路地に打ちつける強い雨の音が清蔵の耳に入ってきた。普段は町人衆で賑わうこの界隈も、灰色の雲から降り続く雨に通りを歩く人はほとんどいない。
それでも、雨中を急ぎ足で走り駆ける姿は何人も清蔵の目に入った。清蔵は南傳馬町を歩きながら周りを見回していると、悲鳴らしき声が通りの先から聞こえてきた。
「あの悲鳴、まさか……」
その声に反応した清蔵は、激しい雨の中を急いで駆け抜けて行った。清蔵の目にかすかに入ってきたのは、腰を抜かした男とその前にいる3人組の姿である。
誰かの気配に気づいたのか、侍らしき男たちはすぐさま逃げるように去った。清蔵がその直後に足を止めた路地には、仰向けに倒れている町人の姿があった。
「お、おい! しっかりしろ!」
「大丈夫だ……。い、いてててててててっ……」
職人姿の男は、刀で右腕を斬られたときの激痛で顔をゆがめている。斬られた右腕から出血している町人の様子に、清蔵は即座に手を差し出した。
「無理したらダメだ。さあ、おれのところまでいっしょに行こう」
「い、いいんですか……」
「そんなこと気にしなくても大丈夫だ。困っている人には黙っていられない性分なんで」
誰にも群れることのない一匹狼の清蔵であるが、町人の刀傷を手当てしようと裏通りにある自らの長屋へ連れて行くことにした。
「い、いてててててっ……」
「包帯を巻いてるから痛いと思うけど、もう少しの辛抱だ」
清蔵の仕事場である九尺二間の長屋では、上半身裸の職人が右腕に包帯を巻かれながら痛みをこらえている。
部屋の中には、びしょ濡れになった清蔵の着物が干されている。清蔵は、ふんどし一丁の姿で町人の男が負った刀傷の手当てをしている。
「よし、これだけ包帯を巻いたから。あとはゆっくり養生することだ」
「見ず知らずの者にここまでしてくれるとは……。本当にありがとうございます」
雨中の表通りで斬られた町人にとって、清蔵は命の恩人である。それが初対面の人であっても、相手に感謝の気持ちを伝える律儀さを持っている。
「申し遅れましたが、わしは権三郎という者です」
「権三郎という名前か。おれの名前は清蔵だ。こちらこそよろしくな」
権三郎は妻子がいる身であることから、本来なら自らの住処へ戻りたいところである。けれども、入口の障子越しに音が聞こえるほどの激しい雨は止む気配がない。
女房を呼びに行くにしても、その間に権三郎が襲われることだってあり得ない話ではない。
「雨の降りが治まるまで、ここで休んでおいたほうがいいぞ。布団の用意もしておくから」
清蔵は布団を敷くと、自分が身につける着物を権三郎の上半身に着せている。
「清蔵さん、自分の着る物は?」
「ああ、おれは着るのがなくたって平気だ。あんたこそ、自分の体を治すことが先決じゃないか」
清蔵は口が悪くてぶっきらぼうな男であるが、言葉の端々に込められているのは相手への優しさである。その思いは、権三郎の柔和な表情にも表れている。
2人の願いが通じたのか、激しく降り続いた雨の音が耳に入らなくなった。清蔵がふんどし姿のままで外へ出ると、さっきまで雨が降ったのが嘘のようにすっかり上がっていた。
「もしかして、雨が止んだのか?」
権三郎の声に、部屋へ戻った清蔵はその場で首を縦に振った。
「右腕は包帯を巻いたばかりだし、無理は禁物だぞ」
「いっしょについて行くのはいいけど、そんな格好では……」
「このくらいの格好ぐらい、おれは気にすることはないさ」
ふんどし姿で出歩くことが他人から奇異と思われても、清蔵は意に介しない。これも、伊賀で厳しい修行を積んだ忍の悲しい性と言えよう。
「さあ、いっしょに行こうか」
清蔵は権三郎を連れだすと、ぬかるんだ路地を踏みしめながら妻子の待つ家へ向かって歩いている。