その1
鞘師が多く住む長屋が立ち並ぶ京橋南鞘町。長屋が向かう意合う裏通りは、今日も梅雨空に覆われて雨がしとしと降り続いている。
そんな中、清蔵は小さい長屋で鞘に漆を塗る作業に勤しんでいる。この梅雨時こそが、江戸の漆塗りに最も適した季節に他ならない。なぜなら、漆が硬く固まるのが空気の湿ったこの時期だからである。
「外は雨で鬱陶しいけど、この時期は漆塗りにとって有り難い季節ということか」
時節柄、長雨が続くのは仕方のないことである。清蔵は鞘師の仕事がしやすいこの季節を前向きに捉えている。
「これだけ塗れば、拵として必要な数が揃うな」
ひとまず休息を取ろうと、清蔵は引戸を開けて外へ出ることにした。庇の下は、雨除けに最適の場所である。
「少し休んだら、残りの仕事を……」
清蔵が一息つこうとしたら、町人の男が路地に血まみれで倒れていることに気づいた。すぐに駆け寄ると、男は自分の言葉で必死に伝えようとした。
「い、いきなり……旗本の男に……」
途切れ途切れに言葉を発していた町人の男は、それを言ったきり息を引き取った。
「あまりにも酷すぎる……。何の恨みもない人がこんな斬られ方で命を落とすとは」
裏通りに横たわる死体を前に、清蔵はやるせない思いに包まれている。雨が降り続く中、水たまりには屍からにじみ出た血が混ざり合っていた。清蔵が表通りへ通ずる左角まで行く間も、血の跡がほぼ一定の間隔で連なっている。
「もしかしたら、あの町人が斬られたのは表通りでは……」
清蔵は、町人の男の残忍な斬られ方が脳裏に残っている。そして、自らの目で見た町人の死はこれに留まらなかった。
「大変だ! 大工仲間が表通りで斬られて……」
曲がり角から聞こえてきた男の声に、清蔵は菅笠を被って雨の中を駆け出した。表通りに足を踏み入れると、そこには路地に倒れた男に寄り添う若い女の姿が見えた。
「あなた、あなた……。いきなり旗本連中に斬られるなんて……。う、うううううっ……」
屍になった大工職人の男の横で何度も嗚咽を上げる若い女。男が身に着けていた血まみれの法被には、刀で斬られた跡が何か所もある。
雨が降り続いて人もまばらな表通りだが、大工職人の殺された姿を目にした町人衆が10人ほど集まってきた。
「一体誰がこんなことを……」
清蔵は、雨中で2人の男を斬ったとされる旗本が誰なのか気になって仕方がない。
その日の戌の正刻、主のいない長屋の地下にある隠し部屋では、陽と影がろうそくで照らされた中で互いに面と向かい合っている。
雨中で町人2人が殺害されたことは、その場で影から陽に伝えられた。これを聞いた陽は、すぐに口を開いた。
「実は、ツボ師の仕事を終えてここへ向かう途中で、何か所も斬られた町人らしき屍が表通りに転がっていたのを目にしたんだ」
「京橋界隈で1日に3人も路地で殺されるとは……。やり切れないものだ」
影は、似たような殺め方で犠牲となった町人たちを思い浮かべながらため息をついた。この様子に、陽は再び口を開いた。
「ここ最近耳にした話だと、江戸市中で若い旗本の連中が徒党を組んで粗暴な振る舞いを行っているとか」
そんな2人の会話に口を挟んできたのは、忍たちの元締である。
「もうとっくの昔に滅んだと思っていたのだが……」
その言葉に、2人の忍は元締の前で面と向かった。元締は、自ら発した言葉の真意について再び口を開いた。
「100年ほど前に姿を消したはずの旗本奴が、よもやこの時代に再び現れるとは……」
元締が口にした3文字の言葉だが、その種の言葉を忍たちが聞いたことは一度もない。
「元締だって、100年前はまだ生まれる前だろ。どうして旗本奴という言葉を知っているんだ」
「わしも、最初からそういう言葉を知っているわけではない。表の仕事で店先に出て、客同士の会話を耳にしたときに旗本奴という言葉が出てきたということだ」
材木問屋を表の仕事として営む元締は、来客者のささいな一言であっても聞き逃さない。それは、忍たちによる殺しの端緒に繋がるからである。
「しかし、旗本連中が傍若無人の振る舞いをしているとなると、幕府のほうも黙っていないのでは……」
「確かに、大多数で闊歩していたらな。だけど、3人ぐらいで行動するなら……」
「どういうことなんだ」
「江戸市中で殺しを行っても、幕府と繋がりのある人物の屋敷へ逃げれば……」
旗本奴が復活したかどうかはともかく、江戸の町を我が物顔で振る舞う旗本連中に2人の忍は大きな関心を寄せている。