その3
その日の戌の刻、装束に身を包んだ忍たちは表通りの屋根を疾走していた。その目的がどんな内容かは、改めて言うことではない。
「まずは、富札の買い占めと横流しに関与している者が誰かということだな」
「そのためには、富札の興行が行われる玉岡寺に探りを入れる必要があるな」
陽と影は確認し合いながら、闇に浮かぶ江戸市中を密かに走り駆けている。
「ここが玉岡寺か」
2人の忍は、玉岡寺の出入口に当たる表門の屋根に立っている。昼間は近隣の町人たちの参拝で賑わうこの寺だが、夜になると不気味なくらいに静まり返っている。
「本堂のほうはいないようだ」
「隣の寺務所のほうも確かめないといけないな」
忍たちは、寺の建物に飛び移っては屋根沿いを駆けている。本堂から寺務所へ移った2人は、屋根裏から潜入して偵察することにした。
音を立てずに梁を伝っていくと、かすかに声が屋根裏に漏れていることに気づいた。
「どうやら、あの下で会話しているようだな」
その頃、寺務所では玉岡寺の住職が端正な顔つきの商人らしき男と対面している。
円熟した雰囲気の漂うその男は、住職に紙に包んだ小判をその場で渡した。
「これは、この度の興行を私どもが請け負うことに対するお礼です」
「こ、これは500両!」
これだけあれば、寺の修繕費用として申し分ない。住職としては上納金を受け取る代わりに、富札の興行を有力者に全て任せることに決めた。
「六左衛門は砂糖を幕府へ献上していることだし、いろいろと顔が利くのでは」
「江戸市中には札屋が数多くありますし、富札の完売なら私にお任せください」
「よろしくお願いしますよ」
住職は、砂糖問屋で財を成した六左衛門の手腕が富札を売るには不可欠と感じているそうである。そんな六左衛門は、物腰の柔らかさを持つ表の顔とは別の顔もあるが、それを住職の前で出すことはない。
「六左衛門か……。江戸で砂糖を扱う場所って初耳だぞ。大坂なら砂糖問屋なるものがいくつかあるけどな」
「まあ、上方から出てきて問屋を移したということも考えられるだろうし」
屋根裏越しに会話を聞いていた2人の忍は、六左衛門の扱う品目に関心を寄せている。すると、陽は少し気になる事柄を口にした。
「砂糖を幕府へ献上って言っても、実際に将軍様に謁見できるのは旗本よりも上の者に限られて……」
自ら語る途中で何かを思い出したのか、陽は更に話を進めることにした。
「仮の話として、砂糖を旗本に渡すとすれば、そこを経由して将軍様に献上することは十分に可能となるのでは」
「そこからの繋がりがあれば、今回の富札の件で旗本に便宜を図るということも考えられるな」
影の推測に陽がうなずくと、2人は六左衛門の後を追うべく屋根裏から暗闇に包まれた屋外へ出てきた。境内を見ると、提灯に火を灯して歩く男の姿があった。
「あの男が六左衛門だな」
「見失わないように後をついて行くぞ」
忍たちは、屋根伝いに走り駆けながら、六左衛門の行き先を密かに追っている。
「亀島町川岸通りを歩いているのか」
「どこまで歩くつもりだ」
陽と影は息を潜めながらも、六左衛門の動きに神経をとがらせている。相手に自らの存在に気づかれずに行動すること、それこそが忍の役割である。
すると、湊橋の手前で六左衛門の足が止まった。
「あの先は、大名や旗本の屋敷が集まっているところだが」
「やけに周りを警戒しているようだぞ」
再び歩き出した男を見逃すまいと、2人組の忍は建物の上を疾風のように走り続けた。それに気づかない六左衛門は、松島町に足を踏み入れて少し進むと、ある屋敷の表門の前で止まった。
開き門を構えるその屋敷の前には、門番が目を光らせている。
「夜分に失礼いたします。福見屋六左衛門と申します。これから河原林利孝殿にお目にかかりたいのですが、よろしいでしょうか?」
「六左衛門様ですか、どうぞお入りください」
門番から入ることを許されると、六左衛門は表門から玄関のほうへ向かって足を進めた。玄関に一礼して入ると、そこで迎えてくれたのが河原林である。
「こんな遅い時間にわざわざきてくださるとは。さあさあ、奥のほうへどうぞ」
「一介の商人に過ぎないこのわしに、河原林殿からこんな計らいをしてくださって本当に有難いです」
河原林の案内に従って長い廊下を渡ると、奥にある座敷の手前で一旦止まった。
「お待たせしました。こちらからどうぞ」
小者が障子を開けると、河原林と六左衛門の2人は座敷の中へ足を入れた。
お互いに面と向き合って座ると、六左衛門のほうから口を開いた。
「西国産の砂糖を将軍様に献上してくださって、誠にありがとうございます」
「将軍様も、その砂糖を大変気に入っていたようです。幕府も砂糖の生産を奨励していることだし、そちらもますますのご盛況を期待していますぞ」
若き将軍の家斉から絶賛されたことに、2人は談笑しながら話を続けた。
「江戸に砂糖問屋を繁盛させるためにも、河原林殿の力はこれからも必要かと存じます」
「わしも、目付で満足するわけではないからなあ。ぜひとも、長崎奉行の職を得て一儲けしたいところだな」
「それでしたら、例のものを用意しておきますので」
「例のものって、まさか……」
「そのまさかさ」
河原林と六左衛門はお互いの利害が一致したのか、思わず笑い声が座敷内に響き渡った。
屋根裏では、忍たちが座敷にいる2人の会話を耳を当てて密かに聞いている。
すると、渋い顔つきの影が小声で吐き捨てた。
「こいつらが頭で考えることは、甘い汁のことばかりだな」
「例のものって、買い占めした富札の横流しなのか」
「さすがに富札などとは言わないわな。事前に計画が漏れないように注意を払っているし」
2人の忍は、仕入れた情報を改めて確認し合っている。その全貌はおぼろげであるが、河原崎と六左衛門の親密ぶりが浮き彫りになった事実は大きい。