再会
衣装棚の扉を左右に開いたまま、トールは自分の心臓が危険なほど脈打っているのを感じとった。
喉の奥からは、今にも叫び声が溢れ出しそうである。
少女の顔を見つめたまま、トールは鼻からゆっくり息を吸い込み、しばし止めた。
次に同じ間隔で口から息を吐き出し、またしばらく止める。
これを数回繰り返す。
トールの呼吸と脈拍は、たちまち落ち着きを取り戻した。
誰に教えられたわけでもなく、経験から学んだ自己制御法である。
「……そうだな。まずはレベルを上げてみないとな」
呟いたトールは衣装棚から離れ、再びベッドに腰掛けた。
目を閉じて、意識を内側に集中させる。
ぼんやりと脳裏に浮かび上がる黒い影のような樹のイメージ。
それに同じく浮かび上がった水瓶の中身を、ありったけ注ぎ込んでいく。
滴り落ちる水が、樹の根へ音もなく吸い込まれる。
すべてのポイントを費やしたその瞬間、大樹から伸びる枝の先の蕾がゆっくりと開いた。
大きな花弁の奥から力が溢れ出し、トールの内部を埋め尽くす。
目を開くと、<復元>のレベルは10に到達していた。
考えた瞬間、急にその説明文が脳内に浮かび上がる。
<復元>――戦闘に関わった対象を、過去の状態に戻す。
レベル:10/使用可能回数:一時間十回/発動:瞬/効果:任意/範囲:接触
初めての現象に戸惑いながら、トールはその内容に目を見張った。
回数は一気に増え、効果時間の制限がなくなっている。
さらに対象物ではなく、対象へ変化していた。
現れた結果に、トールは固く右こぶしを握りしめた。
やはり老人の言葉は正しかったのだ。
「よし、一つずつ確かめていくか」
無意識に声を漏らしながら、トールは自分の左手首の傷に触れた。
触れたとたん、腕全体におかしな感覚が走る。
例えるならそれは、手が同じ場所に何重にも折り重なって存在するようなイメージだった。
「これは、過去の記録が見れるのか……」
バラバラと本のページがめくれるように、トールの左腕の過去が次々と浮かび上がってくる。
どうやらこの経歴は、初めてモンスターに触れた十五歳まで遡れるようだ。
そのまま集中を続けると、感覚は全身へ広がりだした。
体中が幾重にも分かれながら、いっせいに外に向かって開かれる。
まるで花が咲くように。
自分の体に起きた約二十五年分の変化を感じ取りながら、トールはゆっくりと手首から右手を離した。
集中を途切れさせた瞬間、ページがパタパタと閉じていく。
立ち上がったトールは、壁にかけてあった革手袋を手に取った。
手袋をはめた状態で再び左手首に触れると、まず変化が起きたのは革手袋のほうであった。
初めて身につけてモンスターと立ち向かった時の記録までが、瞬く間に引き出される。
次いでまたも、左腕全体の過去がめくられ始める。
これまで通り直に接触しなくても、触っているという認識があれば対象に選べるようだ。
体全体にこの状態が広がり出す前に、意識を手の先だけに集中させてみる。
すると腕全体の過去が一気に閉じて、手首より上の部分だけに絞れるようになった。
「うーむ、まだ小さくできるようだな」
やろうと思えば、髪の毛一本からでも<復元>できるようだ。
ふと思いついたトールは、腕をだらんとさせたまま自分に意識を集中させた。
ごく当たり前に、ズボンや全身の経歴のページが次々と開かれる。
自分の体や身に付けている物なら、手で触るという行為がなくてもスキルの対象にするのは可能らしい。
ただしベッドや床には反応がない。
これはモンスターと、これまで全く関わりがなかったからであろう。
「次は実践だな。まずは――」
ベッドの端にかけてあった木剣を手に取る。
小鬼の森で採れる樫の木が原料で、非常に堅く重さも手頃な得物だ。
だがトールの場合、角モグラ一匹倒すのにも数十回振るう必要があり、一年ももたない消耗品であった。
手にとって、<復元>をさっそく試してみる。
あっさりと木剣から細かい傷が消え、新品同然に変わった。
おろしたてだと手に馴染んでいないので、少し使い込んだ時期に戻したのだが、狙い通りに時間を調整できたようだ。
物は上手くいったので、次は人である。
左腕全体を、一気に十年前に戻してみた。
ゆっくりと指を開いてから、静かに閉じてこぶしを作る。
――握力が戻っていた。
声にならない感情を喉元で冷静に押し留めながら、トールは新たな確認に移る。
次は足元の長靴をひっくり返しながら、自分の全身の経歴を開いてみた。
選んだのは先ほど夕食を終えて、ベッドに寝そべった時点だ。
意識した瞬間、全身まるごとの<復元>は完了していた。
技能樹をイメージしてみると、<復元>はレベル10のまま変化はない。
長靴を逆立ちさせた理由もしっかりと覚えていたが、左手の握力も残念ながら元通りになっている。
ただ使用可能回数は、きっちり減っていた。
これまでに分かったことは、<復元>できる対象は人でも物でも可能。
戻せる時間は、初めてモンスターと関わった瞬間までを好きに選べる。
対象に触れなければ発動できないが、直接ふれる必要はない。
それとトールの体や身につけている品は、意識するだけで大丈夫と。
ただし、触ったほうが対象が絞りやすいので、時間の節約にはなるようだ。
重要なのは全身をひとまとめに<復元>しても、技能樹に変化がなかった点だ。
魂と肉体は別物ということだろうが、これで体全体を過去に戻しても<復元>はレベル10を保持できることが判明した。
次に記憶の巻き戻しがなかった点。
これも体と記憶は別扱いと捉えるべきなのだろうか。
ただうっかりスキルの存在がバレてしまっても、ごまかせないのはやや厳しい。
それと魔力。
<復元>はかなり魔力を消費するはずであるが、三度連続で使用したのに喪失感がまったくなかった。
おそらくであるが全身を戻すと、体力や魔力までその時の状態に復するようだ。
魔力は使いすぎると喪失感から重度の不安へ、さらにすべてを使い切ると恐慌状態に陥ってしまう。
時間が経てばゆっくりと回復するのだが、そういった手間や心配がなくなるのは大きな利点と言えよう。
あともう一つ、とても興味深い発見があった。
技能樹の状態を確認しようとした瞬間、いきなりトールの脳内にくっきりとある景色が浮かび上がったのだ。
渦巻くようにねじ曲がった黒々とした幹から、ポツンと一本だけ突き出た枝。
さらに枝に焦点をあわせると、先ほど見た<復元>の説明文がまたも脳内に流れた。
トールが知る技能樹というのは、いつもはもっと曖昧なイメージのはずだった。
スキルも名前とザックリした効果が伝わってくるだけで、細かい部分などは実際に使って確かめる必要があった。
それが今や枝の名前から長さまで、鮮やかに把握できるのだ。
その先端にぶら下がる不思議な黒い果実まで。
果実に意識を集中したとたん、新たな説明が浮かんできた。
<時列知覚>――対象の時列を詳細に把握する。
発動:自動/効果:大/範囲:接触
「そうか、こんな特性までついてきたのか」
"特性"とは、技能樹を育てることで付与される特殊な能力をさす。
何かのスキルを上限まで育て上げることで枝先に実る枝果特性と、特殊なモンスターを倒すことで授かる幹果特性の二種類がある。
それ以外に生まれつき技能樹の根本に生える根源特性を持つ人間もおり、特恵者と呼ばれている。
トールが急に技能樹の本来の姿が見えるようになったり、<復元>対象の過去が事細かに確認できるのは、この新しく獲得した特性のおかげのようだ。
一通りの確認を済ませたトールは、左腕の握力を再び<復元>してから衣装棚に近づく。
まだ一番重要な確認が残っていた。
開けっぱなしの扉の奥へ手を伸ばしたトールは、少女の彫像を無視して、その足元の小さな壺を持ち上げた。
ベッドに戻り蓋を開く。
中に入っていたのは、真っ白な灰であった。
老人の遺灰だ。
瘴地と接するこの街では、死人は埋葬ではなく火葬となる。
肉体が残っていると、瘴気を帯びて魂なき死者として蘇ってくるせいだ。
祈るような気持ちを込めて、トールは灰に触れる。
しばらくそのまま動きを止めていたが、やがて詰めていた息を吐くと無言で肩を落とした。
「…………爺さん、すまんな」
分かってはいたが、やはり失われた魂までは創世神の加護も及ばないようだ。
骨壷を元の位置に戻したトールは、改めて幼馴染の少女と向かい合った。
時が止まったままの少女は、相変わらず儚げで美しかった。
やや目尻の下がった大きな黒い瞳。
ツンと盛り上がった鼻に、健康的なピンクの柔らかそうな唇。
フワッとした癖の強い黒髪は、変わらぬ艷やかな輝きを放っている。
通りを歩けば、ほとんどの男が目を向けるだろう。
ただし今の少女の姿では、すべての男が目を背けるに違いない。
その細い首は無残にも真横に切り裂かれ、大量の血液が今にも流れ出しそうな状態で留まっていた。
トールは腕を伸ばし、少女の血まみれの首にそっと触れた。
開かれた本のように、次々と経歴が浮かび上がる。
ページの中の少女の姿には、全く変化が見られなかった。
一気に時をとばしたトールは、少女が重傷を負う寸前のページを選び取る。
――<復元>。
不意に、少女の口から吐息が溢れ出た。
その喉元から、痛ましい傷は完全に消え失せている。
真っ白で綺麗な肌に戻った少女は、静かにまばたきをした。
ゆっくりと瞳の焦点が、目の前の人物に定まっていく。
それは、およそ二十五年ぶりの再会であった。