逃げた男のその後の話
こちらの時系列は一章最後から五章終わり辺りです。
期待はいつだって外れるものだ。
だから、そうなる前に逃げるしかない。
鉄格子の隙間の空を見上げながら、リカンはふと昔のことを思い出していた。
一番初めに必死に逃げたのは、十六歳の時だ。
そのころのリカンには、親友と呼べる少年が居た。
カルサは一つ年下で、どこへ行くのも何かやるのもいつも一緒だった。
「こんな小さな村、早く出ていきてえな……」
「ああ、境界街へ行って冒険者になろうぜ!」
退屈しかなく、他愛もないことを語り合うだけの日々。
風精樹を持ち、モンスターの生態に詳しい斥候向けのカルサ。
体はそう大きくはないが、すでに地護樹の下枝スキル<石身>を使えるリカン。
互いを良き仲間と認め合う二人の少年は、冒険への憧れに胸を膨らませていった。
そしてその期待は、意外な形でもたらされた。
村が大量のモンスターに襲われたのだ。
怒号と悲鳴が響き渡る中、着の身着のままで家を飛び出した二人は、夜の山道をひたすら駆け抜ける。
だが無情にも、背後からは無数の羽音が迫ってきていた。
「くそ! どこまでも追いかけてきやがるぞ」
「匂いを消しても駄目か……。そうか、あいつら火に……!」
「いいから早く逃げようぜ!」
松明を手に考え込むカルサに、リカンは苛立った声を上げた。
もはや二人がモンスターの群れに捕食されるのは、時間の問題であった。
必死に急かすリカンに、何かを決めたようにカルサが立ち上がる。
「……じゃあな、リカン」
不意に耳元でささやかれた言葉に、返事をする間もなくリカンの体が宙に浮いた。
背中を蹴飛ばされたのだと気付いたのは、藪の中に転げ落ちてからであった。
慌てて顔を上げると、松明の火が遠ざかっていくのが目に飛び込んでくる。
追いかけようにも、凄まじい羽音の合唱はすぐ間近に迫っていた。
――囮にされたのだ。
絶望と恐怖に歯の根を震わせながら、リカンは体を石のように丸め縮こまる。
何秒、何分、何時間――。
どれほどの時、そうしていたかは定かではない。
気がつくと夜が明けていた。
怪物たちの姿はすでになく、親友だと思っていた少年の姿もなかった。
その後一年の間、リカンはあちこちをさまよった。
そしてできたばかりで数合わせの募集をしていたダダンの境界街で、ようやく冒険者の職にありつく。
もっとも身寄りのない少年に、誰も進んで手を差し伸べるわけがない。
リカンは小鬼の森で、ひたすら一人で逃げ回りながらスキルポイントを溜めた。
転機が来たのが、冒険者生活二年目の時だ。
盾士を募集していたパーティに、小鬼の洞窟の制覇に誘われたのだ。
勢い勇んで参加したリカンだが、またも期待は裏切られる。
入ったパーティは正規の盾役がすでに居り、リカンの役割は長以外のホブゴブリンを引きつけることだった。
なんの支援もなく四匹のホブゴブリンの前に押し出されたリカンは、人生で二番目と言えるほどに必死に逃げてなんとか時間を稼ぐ。
迷宮の主さえ倒せば、すぐに助けに来てくれると信じて。
しかしパーティの連中は、もとよりリカンを見捨てる気だったのだ。
成功報酬をけちったのか、それとも悪評が立つのを恐れたのか。
彼らがホブゴブリンどもに剣を構えたのは、リカンが倒れ伏し動かなくなったのを確認してからであった。
ボロ雑巾にように転がった囮役の少年を放置して、連中はさっさと引き上げる。
それを見届けたリカンは、懸命に立ち上がって出口を目指した。
最後の方は<石身>を使い、ひそかに倒れたふりで耐えていたのだ。
辛うじて生き延びたリカンは、その足で冒険者局に駆け込み、連中の悪事は明るみとなった。
この一件から、リカンは頼るべきなのは権力だと深く理解する。
ランクが上がり血流しの川へ来たリカンだが、ここで待っていたのはやはり逃げ回る仕事であった。
もっとも小柄な盾士には、囮になるような役目しか求められないのも仕方がない。
この頃からリカンは、何かに期待することは止めるようになっていた。
三年間、川辺で過ごした後、リカンは自分に見切りをつけ冒険者局の衛士隊に志願した。
その後の十年は、それなりに平穏であった。
けれども門番の仕事もすっかり板についた頃に、生意気そうな後輩が同僚となる。
「よろしく頼むぜ、リカン」
「リカンさんだろ」
「細かいこと気にするなって。おっさん臭いぜ」
カルルスは底抜けに明るく、そしてうるさい男だった。
だが仕事の付き合いとはいえ、久しぶりにできた仲間でもある。
二人は他愛もないことを喋り、たまに男二人で飲み明かした。
他人を信じることのないリカンが、正反対の性格であるカルルスと馬が合ったのは、二人とも期待に裏切られた人間だったからかもしれない。
しかし紫眼族の青年は片腕を失くしながらも、まだ生きることに期待を残していた。
自分よりも惨めな存在だと侮っていた泥漁りとのいざこざで、リカンはそれを思い知る。
そして大発生の日。
九年前のこの街と己の村を襲った惨事を思い出し、恐怖に駆られたリカンは過剰な反応をしてしまう。
その結果を咎められ、経歴を抹消のうえ追放されることとなった。
うつむきながら牢屋を出たリカンを待っていたのは、全く期待していなかった出来事だった。
「さ、いくか。リカンのおっさん」
「…………なんでいるんだ?」
「細かいこと気にすんなよ、相棒」
他愛もないやり取りにリカンは目を見開いた後、ただ静かに嗚咽を漏らした。
§§§
半年後、二人は東のシエの境界街に、冒険者として腰を落ち着けていた。
四十歳からの再スタートは、生易しいものではない。
しかし色々思うところのあったリカンは、歯を食いしばって耐えた。
「おっさんの盾は軽いよな。なんでか分かるか? おっさん本人しか守ってねえからだよ」
カルルスの言葉は辛辣だが的を射ていた。
だが青年はうなだれるリカンに、ニヤリと笑って続けた。
「だが、それがいいな。あんたは無理に俺をかばうな。むしろ、どんどん逃げまくってくれ」
リカンが獲物をひたすら引っ張り回し、疲れさせたところをカルルスが投槍で仕留める。
この戦法が確立されたことで、ようやく逃げ足しか取り柄のなかった盾士は実力を遺憾なく発揮していく。
わずかな期間で次々と大物を仕留めた二人組は、すっかり一目置かれるようになっていた。
「今日も寄っていくか? カルルス」
「ああ、当たり前だろ、おっさん」
行きつけの店までできる馴染みっぷりである。
「いらっしゃいませ、リカンさん、カルルスさん」
月のしずく亭の女将イルマは、二人の顔を見ると嬉しそうに頬を染めた。
二人がシエの街に来てすぐの頃、ぶらりと入ったこの店でたちの悪い酔客に絡まれていたところを割って入った件があった。
それ以来の常連である。
イルマは二人の幼子を持つ寡婦で、夫はリカンたちと同じ冒険者であった。
夫の残してくれた金で、まだ若い身ながらこの小さな店を切り盛りしている。
ただどことなく要領が悪く不器用で、そんなところを自分に重ねてリカンは気に入ったのかもしれない。
「おっちゃんと兄ちゃんだ! おはなし聞かせて!」
「きょう、どこいったんだ? おっちゃん」
席につくと幼い兄弟が駆け寄ってきて、リカンとカルルスの膝にしがみつく。
キルメとリフカ。
冒険者になって、父親と同じく母の店を助けるのが夢であるらしい。
こちらもすっかり顔馴染みである。
「こら、お邪魔しちゃ駄目よ」
「いや、いいよ。冷えた麦酒とツマミは適当で。よし、どんな話が聞きたいんだ?」
「えーと、おっきなイノシシのおはなし!」
「お、良いの選ぶじゃねえか。俺の活躍っぷりをしかと聞けよ」
楽しい夜は、またたく間に過ぎていった。
翌日、二人は冒険者局の依頼で、街の南東にあるアブク沼へと向かう。
最近、この沼地に見慣れないモンスターが出没しているらしい。
その情報を確かめるためであったが、一日泥まみれになった結果は空振りであった。
「どうするよ、リカンのおっさん。もう切り上げるか?」
「いや、暗くなってから出てくるモンスターもいるからな。今日は泊まり込もう」
「冷えた一杯はお預けか」
夜半、耳障りな無数の羽音に、二人は天幕の隙間から顔を覗かせて目を見張る。
沼面の上を飛び回っていたのは、凄まじい数の羽虫だった。
「な、なんだよ、ありゃ?」
「……あいつは血吸蛾だ。小型だが数が多くて面倒な相手だぞ」
「知ってるのか? おっさん」
「ああ、よく知ってるさ。明かりを点けるな。寄ってくるぞ」
モンスターの中には、まれに渡りの習性を持つものがいる。
血吸蛾もその一種で、数十年に一度、生息地を変えるため巨大な群れとなって移動を始めるのだ。
当然、そのルートにある居住区は、多大な被害を受けることになる。
生まれた村を思い出したリカンは、ガリッと奥歯を噛み締めた。
「どうするよ……?」
「こんないきなりじゃ街も対応できないだろうな。しかも夜中だ。……だが、このままじゃ間違いなくヤバいぞ」
深夜であろうとも、境界街の解放神殿は火を絶やすことは決してない。
遅かれ早かれ今夜中に、あの羽虫たちがシエの境界街を見つけるのは想像に難くなかった。
リカンの脳裏に、様々な顔が思い浮かぶ。
微笑みながら酒を注いでくれるイルマ。
無邪気に懐いてくる二人の幼子。
ダダンの街で門を閉め切った時に、詰め寄ってきた少女。
そして、さよならの言葉も言えずに消えた幼き親友。
「お前はすぐに街に知らせてくれ。それから東の外れの風鳴の原で火を焚け。そっちに集まってきたところを皆で仕留めるんだ」
「…………おっさんはどうする気だ?」
「決まってるだろ……。逃げるんだよ!」
そう言いながらリカンは、魔石灯を引っ掴み天幕から転げ出た。
そして最大限に光らせながら、泥の上をひた走る。
「こっちだ! ついてきやがれ、くそったれの虫どもめ!」
泥の海に男の絶叫が轟いた。
夜明け頃にあらかた片付いたところで、カルルスは急いで戦場を抜け出した。
リカンの命を賭した時間稼ぎにより、衛士隊の準備が間に合ったため、街に近づけることなくモンスターを殲滅することはできた。
しかし、その最大の功労者である冒険者は……。
悲痛な面持ちでアブク沼に駆け付けたカルルスだが、そこで見たのはケロリとした顔で天幕に座り込むリカンの姿であった。
「なんだよ……。生きてるじゃねえか……」
「勝手に殺すなって。そっちはどうなった?」
「ああ、街は無事だ。で、真面目な話。どうやって耐えたんだ?」
「俺の得意技を知らなかったのか。<石身>を使った死んだふりってやつなんだが」
「なんだよ、そりゃ。ったく、心配して損したぜ」
軽口を叩いてはいるが、カルルスの目はしっかりと見取っていた。
あの大群を前に、無事ですむわけがない。
大きな傷はないものの、リカンの体のあちこちは酷い有り様であった。
顔も傷だらけで、生乾きの血の筋が何本もこびりついている。
きっと死にものぐるいであったのだろう。
「お前が間に合ったおかげで、ギリギリで助かったぜ。いつもありがとな、相棒」
「そうか。そりゃ何よりだぜ。立てるか?」
「ああ、なんとかな……」
「じゃあ帰ろうぜ、おっさん。街を救った英雄様に俺が一杯おごってやるぜ」
「英雄か。ふっ、悪くない響きだな」
大掛かりに火を燃やしたせいで、街の住民にはすでに昨夜の件は知れ渡っていたようだ。
慌ただしく誰もが行き交う中、二人は馴染みの店に向かう。
のれんは掛かっていなかったが、人の気配を感じて扉を開けるカルルス。
カウンターの前に座っていたイルマは、弾かれたように顔を上げた。
「……ああ、よかった。無事だったのですね」
目に涙を浮かべながら、立ち上がったイルマは二人に駆け寄ってくる。
そしてカルルスの胸に飛びこむと、嗚咽を漏らし始めた。
その姿に、リカンは小さく息を漏らした。
期待はいつだって外れるものだ。
だから、そうなる前に逃げるしかない。
ま、今回は手遅れか。
「ちょっと眠いんで俺は一眠りしてくるぜ。後は頼んだぞ、カルルス」
「え、おい、ちょっと待てって!」
相棒の叫びを無視したリカンは、踵を返し立ち去った。
残されたカルルスは呆れたように頭を掻きながら、まだ気づかずに泣きじゃくってる未亡人に話しかける。
「なんで抱きつく相手を間違えるんだよ。本当に不器用だな、あんたら二人は」




