先へ続く道
「まだ、終わっとらんというのか……」
ジョッキをゴトリとカウンターに戻したダダンは、苦々しげに呟いた。
その腕には力が籠もりすぎて、血管が浮かび上がってしまっている。
ゆっくりと強張る指から力を抜いた老人は、同席した面子へ視線を巡らせた。
相変わらず五席しかない狭い店内には、見知った顔が並んでいる。
飄々とした眼差しで、こちらを見つめるトール。
偉業を成し遂げたばかりだというのに、その愛弟子の面持ちには静かな覚悟で満ちていた。
その隣のソラはさりげなくトールの腕に寄り添いながら、嬉しそうに冷やした麺をすすっている。
たった一年足らずで冒険者の最高峰まで昇り詰めてみせた少女からは、すでに異才を感じさせる特別な雰囲気が漂い始めていた。
少女の横の席にはダダンの妻であるココララが腰掛け、その膝の上には紫眼族の子どもが座る。
三十年にも及んだ重責と幽閉から解放された老婆は、夢中で縮れた麺を掻き込むムーの髪を愛しげに撫で続けている。
その瞳に宿る柔らかな光に、ダダンは溢れそうになった涙をまばたきでごまかした。
最後に入口のそばの席を占めるユーリル。
淡々と冷やした古樽酒を口に運ぶ姿は見目麗しいが、内包された尋常ならざる魔力の気配が溢れ出しており、こちらも余人はうかつに近寄れないであろう。
ムーを除く三人の見違えるような強者の佇まいに、ダダンはもう一口麦酒を呷ってから大きく頷いた。
廃棄された地下監獄の大瘴穴が封じられて一夜。
すでにその噂は、街中を駆け巡っていた。
三日後にはトールたちの栄誉を称える祭典が予定されており、その席でこの四人とラムメルラが英傑の称号を授かる手筈であった。
その前に身内だけでささやかな祝いをしようと、チョイ屋を貸し切りしたのだが、そこで思わぬ話をトールから聞かされたというわけである。
「よく分からんところもあったので、もう一度整理していくかのう。まず先が見えたと言ったな」
「正確には見えなかったですね、師匠」
トールの<予知>は、未来の場面が切り取られた点として映る。
それらを無窮の神鏡を通して見ることで、点は増加して線を結ぶ。
そして寄り集まった多数の線は、時の推移が映し出される巨大な海へと繋がっていく。
迷宮の最後の主である黒い骸骨と戦う前に、トールとムーはその"時の大海"へ一度たどり着いていた。
「なるほど、雨粒が集まって流れになって、それがやがて海に至るというわけじゃな。で、その流れがことごとく途中で……」
「ええ、途絶えていました」
「ふむ、未来は見えなかったということじゃな。理由は?」
「この街が、いえ、この国そのものが滅びます。そう遠くない未来で」
何もかも枯れ果てた大地。
地平だけでなく空までも埋め尽くすモンスターの群れ。
住処を追われ逃げ惑う多くの人々。
それがトールの垣間見た、断ち切られた未来の姿であった。
「憶測ですが、ずっと前からそうなるように仕向けられていたのではないかと、俺は考えています」
「固定ダンジョンはそのための罠じゃったと?」
境界街を落とすためならば、大量のモンスターを生み出して間断なく送り出すほうが効率は良いだろう。
わざわざ出入りに時間がかかるような、複雑な構造にする必要はない。
おそらく固定ダンジョンの役割は、優れた冒険者たちをこの地へ引き寄せ長く留めること。
そして稼いだ時を使って地中をひたすら突き進み、周辺の六大国まで瘴穴を通すことであったのではないかというのがトールの結論だった。
「今の各地の現状をみても、そうとしか思えません」
ストラッチアやニネッサの生国ズマは、地下迷宮から繋がった水洛地の多くが汚染され危険な状況にある。
クガセの生まれ故郷グランは、山腹に生じた瘴穴から吹き下ろす風により、農地の大半が不毛の地になってしまったそうだ。
ラムメルラやリコリ、モルダモの母国トリアラ群島連邦は、海底から生じた瘴気を含んだ波で島が次々と呑まれ消えていっているらしい。
南にある草原の国リージニアリアは広いため目立ってはいないが、牧草地がじょじょに減ってきているとチルが語っていた。
そしてダダンやキキリリたちの故国ハクリも、辺境に穿たれた瘴穴のせいで森の多くが枯れ始めている。
唯一、氷に覆われたユーリルの生地ストラだけは、それほどの被害はないらしい。
その理由は、人的資源の確保であった。
最初は瘴気が薄い場所であっても、長ずれば蓄積が進み、やがてその侵された地そのものからも生じるようになる。
そうなる前に瘴穴を封じる必要があるのだが、そのためには技能樹を育てた人間が瘴穴を守るモンスターを討伐する必要がある。
しかし新たな地を得るために多くの人間を央国の境界街へ送り込んでしまった周辺の国々に、対処できる人材はさほど残っていない。
人も住まないような未開の場所に大量の瘴穴が発生しても、それをどうにか出来るほどの人手や組織がないのだ。
そもそもの話、"昏き大穴"から離れた安全な地であったため建国されたのであって、危機意識が薄いのも仕方がない話であるが。
が、その結果、瘴地奪回に積極的でなかったストラを除き、周辺の五国は滅亡の機に直面しつつあった。
辺境の地を汚染され帰る場所を失った人々は、境界街へさらに集うこととなる。
けれども奥へ進めば進むほど"昏き大穴"の影響で制覇は困難を増し、内と外から挟まれる形で人類は行き場をなくしていく。
そして最後は、為す術もなくモンスターの大群に蹂躙されてしまうであろう。
「どうにもならんのか? その、未来の流れというのは、完全にそうなっておったのか?」
眉根をしかめるダダンに、トールは重々しく首を横に振った。
「いえ、そうならない流れもありました。ほんの一筋だけですが」
「そうか! それは何よりじゃな」
「ただし確実……、とは言い切れません」
「ふむ。なら確かになるまで未来を見通せば――」
「ダメですよ! トールちゃんとムーちゃんが消えちゃいます」
話を聞いていたのか、ソラが急に口を挟んでくる。
腕にしがみつく少女をなだめながら、トールは残念そうにまたも首を横に振った。
「何度か試してみましたが、遠い未来の細かい時の流れを見るのはどうしても無理でした」
ちっぽけな人の身で、巨大な時の大海を認識するのは不可能である。
強引に近付くと、存在そのものが呑み込まれて揺らいでしまうのだ。
地下監獄での<予知>の際に、トールたちの姿がぼやけて消えそうになったのはそのせいであった。
「確証は何一つありません。ですが、このままでは間違いなく俺たちは終わります。本当にわずかな可能性しか残されていませんが、どうか力を貸してください、師匠。俺はこいつらと、もっともっと先へ進んでいきたい」
決意の底に燃える熱い感情を見せたトールに、ダダンは黙ったままもう一度、子どもと笑う妻の横顔を眺める。
そしてきっぱりと言い放った。
「よし、お膳立てはわしに任せておけ!」
そこに浮かんでいたのは長い時に摩耗しきった老人の疲れた表情ではなく、戦士としての誇りをたぎらせた男の顔であった。
二日後、街は大きな喧騒に包まれていた。
朝から絶え間なく心弾む音楽が演奏され、街中を大勢が行ったり来たりしている。
通りには着飾った子どもたちが花びらが派手に撒き歩き、屋台の呼び込みもかしましい。
飲食関係を除くほとんどの店が休業し、内街の中央にある広場には大勢が詰めかけていた。
周辺の地には瘴気がいまだ残ってはいるが、時間の経過でじょじょに消え失せ、モンスターもやがて発生しなくなる。
ようやく怯える必要がない日々がもたらされたことを知った住民は、喜びに溢れながら酒を酌み交わし振る舞いの料理を頬張る。
冒険者たちもほとんどが仕事を休んで、正午に行われる叙任式を今か今かと待ち構えていた。
大瘴穴が封じられたことは、とっくに知れ渡っている。
が、新たに造られる境界街の長になる人物は未だに伏せられているせいで、話題はそれ一色であった。
このまま、次の街へ移るか。それとも、違う街へ行くか。
待遇などは街長によって変わってくるし、特に新たな街は成り上がるには絶好の機会でもある。
しかし、すでにこの街に来ている他の街の関係者にここぞとばかりに勧誘される者もいたりして、冒険者たちも混乱を極めていた。
昼の鐘が鳴り、街庁舎から大勢の礼服を着飾った人間が進み出てくる。
そのうちの一人、特に目立つ青い衣の婦人が現れた瞬間、大きなどよめきが走った。
トリアラ群島連邦に本殿を置く、施療神殿の最上位である水冠の大巫女の装いだ。
彼女がこの英傑の叙任の場に姿を見せたことは、一つの事実を物語っていた。
次の街長は、施療神殿の関係者の可能性が高いと。
高らかにラッパが吹き鳴らされ、美しい金の髪の踊り子が不意に舞台へ躍り出る。
その鮮やかな踊りが、祭典の始まりであった。
各神殿がそれぞれ口上とともに、様々な歌や演奏を披露し大いに盛り上がる。
奏士であるリコリが大瘴穴を封じるまでの戦いを情緒豊かに歌い上げ、さらに群衆は加熱していく。
そしてついに、名前が呼ばれ英傑へと任じる厳かな儀式が始まった。
祝福の言葉を授けるのは、やはり蒼鱗族の冠位の巫女である。
ユーリル、ソラ、ムー、そしてトール。
トールが最後ではなかったことに、あちこちから落胆のため息が漏れた。
央国人であるトールに期待していた人間が多かったようだ。
五人目にラムメルラが呼ばれ、広場を揺るがす拍手が贈られる。
次の街にその名を冠することが許され、新たな境界街の発足が告げられた。
そこで終わりかと思えたその時、街長であるダダンがゆるりとした足取りで進みでた。
疑問を浮かべながら壇上を見上げてくる住民をじっくりと見回した後、老人は振り向いてトールたちを隣へ呼び寄せる。
それから、ある一言をあっさりと言い放った。
数秒の静寂。
そしてその日、最大となる歓声と熱狂が群衆から発せられた。




