勝利の代償
迷宮の主の頭上に、ぽっかりと銀色の満月のような空白が生じた。
そこから溢れ出した眩い輝きが、身を起こしかけたモンスターへ氷雨のごとく降り注ぐ。
が、頭部の花びらに冷気がたどり着く寸前、広がった触手がその行く手を遮った。
即座に花の王の両腕は白く凍りつくが、肝心の頭部まで銀光は届かない。
「詰めるぞ!」
紅蓮の炎に呑み込まれるバルッコニアから視線を切ったトールは、短く叫んで走り出す。
<遡行>はすでに使い切っており、残してあった<復元>を使うなら<加速>で戻る必要がある。
しかし、<月禍氷刃>の効果は数十秒足らず。
ここで迷宮の主を仕留めきれなければ、仲間が命を賭して生み出した勝機は潰えてしまう。
それだけは絶対に避けなければならない。
だからこそ今は、全ての力を迷宮の主へ注ぐべきだと――。
そうトールは心を決めた。
それにわずかでも息が残っていれば、<復元>で火傷一つない体へ戻すことはできる。
燃え盛る炎を物ともせずバルッコニアへ駆け寄っていく水使いたちの頼もしい姿に、トールは余計な迷いを捨て去った。
「右からいくぞ、ラッゼル!」
「承知!」
<予知>からの<加速>。
瞬間、トールの姿がかき消える。
一呼吸置いて、縦横無尽に走り去った白刃の軌跡だけが宙に生じる。
そして嵐のごとく荒れ狂った剣風に、ずたずたに斬り裂かれた触手が吹き飛ばされた。
次いで跳び上がったラッゼルが、猛風を伴いながら大剣を旋回させる。
肉を断つ心地よい音が響き渡り、付け根から切り離された触手はごっそりと地に落ちた。
すかさず押し寄せた銀の光が、無防備となった頭部の花びらへ到達し凍えさせる。
だが、一瞬で再生した触手たちが、その冷気をまたも遮断した。
「決めるわよ、ネネ!」
気合のこもった叫びとともに、双子が溜めに溜め込んだ闘気を解き放つ。
その両の手のひらの上で、四丁の片手斧が凄まじい速さで回り始める。
――<斧輪雷同>。
青い稲妻をまとった凶器たちが、持ち主の手から離れ触手へ殺到した。
生え変わったばかりのモンスターの両腕は、たちまち斬り飛ばされ周囲に撒き散らされる。
新たな触手が次々と伸びるが、飛び回る四つの斧が容赦なく蹂躙していく。
青電を放ちながら、四つの斧が美しく空中を踊る。
風ごと断ち斬るラッゼルの大剣と、もはや剣筋さえ消え失せたトールの白刃。
凍りついた触手たちはことごとく薙ぎ払われ、斬り飛ばされ地に落ちて重なる。
そしてその合間に差し込んだ銀光が、迷宮の主の体を次第に覆い尽くしていく。
赤い不気味な花びらは、次々と動きを止めて凍りついた。
だが、あと一歩足りない。
凍らせただけでは、倒したことにはならない。
さらにそれを完全に打ち砕く必要がある。
迷宮の主の頭部が完全に白く固まったことを見届けたトールは、切り札たる少女に鋭く呼びかけた。
「ソラ!」
「まっかせてー!」
土人形の肩の上で両足を踏ん張っていたソラが、その声に杖を大きく前へ差し出す。
すでにその魔力は最大限に高まっている。
――<再現>。
宙空にいきなり現れたのは、巨大な楕円形の物体であった。
少女がさんざん<消去>してきた、迷宮主が放つ触手の種だ。
突如、登場した種は撃ち出された際の勢いを保ったまま、向きを変え自らを生み出した存在へと戻っていく。
そのまま恐ろしい速さで花びらの一枚にぶつかり、激しくその破片を四方へばら撒いた。
思った以上の成果に頷いた少女は、<再現>を続けざまに発動させる。
十二の塊が空中に現れ、空気を揺るがしながらモンスターの頭部へいっせいに落ちていく。
が、衝突する一瞬、凍りついていた首元の顔の一つが急に口を開いた。
その赤黒い腔内から、猛烈な勢いで炎が吐き出される。
それはまたたく間に、残りの首の氷を溶かしてみせた。
自由を取り戻した三つの顔は、示し合わせたように口元を動かす。
自らへ向けられた魔技、<再現>を唱えたのだ。
生み出された楕円形の種子たちが、落ちてくる同胞を迎撃する――。
はずであったが、何も生じない。
望んだ結果をもたらさない魔技に、四つの顔が初めて憎々しげに歪んだ。
<再現>する対象は、その使い手が<消去>したものしか適用されない。
そのような事実を、モンスターが知る由もなかった。
「おっちろー!」
子どもの無邪気な掛け声と同時に、大きな質量をともなった楕円形たちが花びらへと降り注ぐ。
氷が砕ける音が、続々と地底の空洞に鳴り渡った。
冷風が巻き起こり、破片が天井近くまで吹き上がる。
そしてキラキラと輝く氷片たちは、粉雪のように辺りへ舞い落ちてきた。
視界を覆う幻想的な眺めの中、トールの両眼は戦いの結末を探し求める。
そして肺の奥から、小さく息を漏らした。
黒い双眸に映し出されたのは、完全に砕かれたモンスターの頭部であった。
剣の柄を握る手は緩めぬまま、トールは油断なく周囲を見回す。
動くものはない。
横たわるモンスターの触手は、変色したまま全て止まっていた。
四つの顔は大きく目と口を開けてはいるが、身じろぎ一つしない。
そして不気味な花びらたちは、自らが吐き出した我が子に埋め尽くされ原型が分からないほど砕け散っている。
部屋の奥にある黒い泉も、沈黙を保ったままである。
新たな迷宮の主が産み落とされる気配がないことに、トールは今度は深々と息を吐いた。
振り向くとラッゼルが、まだ信じきれてないような顔で何度も頷いてくる。
視線を向けると双子とクガセが、仲良く三人で抱きしめあっていた。
ここまで歓声が響いてくる。
土人形の上に居たソラとムーが、トールの視線に気づき大きく手を振ってきた。
しかし子どもが大きく飛び跳ねたせいで、そのままバランスを崩して転げ落ちる。
道連れにされたユーリルが、見たこともない慌てた顔で土人形の向こうへと消えていった。
最後にバルッコニアへ顔を向けたトールだが、その顎が強く食い縛られる。
炎使いの男の体の大半は、黒く焦げついた炭と化してしまっていた。
懸命に<流涙癒>を施していたモルダモとラムメルラは、ようやく炎が収まったバルッコニアへと駆け寄る。
あちこちから煙をくゆらせるその肉体は、あまりにも酷い有り様であった。
自慢の口ひげはもちろん、毛髪も残らず縮れ焼き切れてしまっている。
すすにまみれた肌は酷い熱傷でただれて、表情を判別することも叶わない。
腕などの末端は真っ黒に燃え尽きており、握ろうとしたモルダモの手の中で崩れ落ちてしまった。
だが、まだ辛うじて肺の辺りが上下しているのが確認できる。
おそらく炎精樹の枝果特性<炎熱耐性>のおかげだろう。
大きく息を吸い込んだモルダモは、背負ったままだった奏士の女性へ静かに問いかけた。
「いいですか? リコリ」
「当たり前だ。さっさと助けてやってくれ」
「では、生命の樹の御主よ。授けたまえ――<献魂一滴>」
それは水精樹の秘枝中の秘枝と呼ばれる上枝魔技であった。
祈りを捧げるように組み合わせたモルダモの両手の指の間から、絞り出された一滴の雫が滴り落ちる。
それはバルッコニアの体に触れたかと思うと、淡い輝きを放ちながら一気にその体を包み込んだ。
そして静かに再生が始まる。
みるみる間に焼けただれた皮膚が元の色と形を取り戻し、焦げた肉の臭いが消え去っていく。
引き攣れていた口元が開き、大きく息を吸い込む。
炭のように固まっていた手足に血色が戻り、脈動がゆったりと戻り始める。
その奇跡のような光景に、固唾を呑んで見守っていたソラたちは驚きの声を上げた。
大きな音に気付いたのか、バルッコニアのまぶたがピクリと動いた。
次いでゆっくりと、その瞳が見開かれる。
しばし天井を見上げていた男は皆が見守る中、ぽつねんと呟いてみせた。
「ああ、ここは本当に空が高くて良いですな……」




