花の王
みるみる間に地面を覆い尽くしながら、何もかもを凍てつかせる冷気が足元へ迫る。
目を疑う光景だが、それは紛れもなく氷精樹の上枝魔技<冥境止衰>そのものであった。
信じ難いことに迷宮の主は、研鑽を積んだ果てに至るはずの魔技をこともなげに唱えてみせたのだ。
だがモンスターが繰り出した攻撃ならば、トールはそれを無効にできる。
――<遡行>。
一瞬にして氷が消え去り、一拍置いて不気味な顔の一つが口元を歪める。
その刹那、奇妙な違和感がトールの全身を襲った。
自分の体が強引に動かされたような感覚に戸惑いながら、トールは眼前の状況に思わず驚きの声を漏らす。
「なにっ!」
消し去ったはずの氷は、何事も起こらなかったようにすぐ間近まで押し寄せてきていた。
再びの信じられぬ光景だが、その意味をトールは瞬時に察する。
氷が一度消えたことで、<遡行>が発動したことはまず間違いない。
だが、その効果自体が、何もなかったかのように元通りとなっている。
そんなことができる魔技は、トールが知り限り一つしかない。
そしてつい今しがた、ユーリルを口真似してみせたモンスターの不気味な動き。
その直後に放たれた全く同じ魔技。
さらにトールが<遡行>を使った後に感じ取った奇妙な感覚。
普段、自分に使う場合は、あらかじめ予想できているため驚きはない。
だが自分以外から使われてみれば、生じるわずかな不一致に混乱するのも納得がいく。
これらの引っ掛かりから導き出される結論はただ一つ。
おそらく、<遡行>を<遡行>されたのだ。
が、何が起こったかを理解できたとしても、それはすぐさまの解決に至らない。
絶対の凍気は容赦なく距離を詰め――。
「だが、時間は稼げるな。頼んだぞ、ラム」
そう言いながらトールは、再び<遡行>を発動させた。
先ほどとは違う顔が白目を向けたかと思うと、その口をわずかに動かしてみせる。
慣れない違和感が生じ、またもや消えたはずの灰色の氷がすぐさま現れる。
そこへ再び<遡行>。
だが、それもすぐさま打ち消される。
魔力と使用回数の無駄遣いとしか思えない行為だが、それでも数秒の遅延を作り出すことはできたようだ。
そしてその短い時間は、新たな魔技を繰り出すには十分であった。
「生命の樹の御主よ。守りたまえ――<杯水之陣>!」
凛々しい叫びとともに、トールたちの周囲に現れたのは澄んだ水の膜であった。
瞬時に半円状に広がった防護膜は、頭上から全員を守るように覆いかぶさる。
その直後、這い寄る氷の波が、水の壁を一息に包み込んだ。
たちまち水膜の表面が、灰色の氷によって凍てついていく。
だが完璧な防御を前に、冷気は内側へ一切入ってこられないようだ。
顔を見合わせたクガセとソラは、安堵の息を大仰に吐いてみせた。
「ふあー、びっくりしたー」
「間一髪だったですね。さすがはラムちゃんですよ」
その呼びかけに若き水使いの女性も、安心したように肩の力を抜いた。
トールたちを救ったのは、ラムメルラの放った水系最上級の守りの魔技であった。
「気を抜いてる場合じゃないわよ。ここからどうするつもり?」
キキリリの指摘に、トールは素早く状況を確認する。
水の膜は以前に宝玉蟻の巣で見たものよりもさらに大きくなっており、無事に全員が守られたようだ。
だが今は、その水膜の表面が灰色の氷に覆われ視界も定かではない。
トールの視線に気付いたのか、両手持ちの剣を肩に乗せていたラッゼルが頷いて刃を突き出す。
氷が砕ける音と同時に、水膜に小さな覗き穴が生じた。
「ああ、向こうも凍っちゃってますね。見事にカチカチですよ。って、あれ、なんかヤバくないですか!」
トールの横から強引に穴を覗き込んだクガセが、焦った声を張り上げる。
足元の根の部分は完全に氷で埋められていた迷宮主であったが、その顔の中央、花びらの真ん中に危険な変化が起きていた。
先ほどは先端だけであった大きな楕円形の物体が、もう半分ほど突き出してきているのだ。
しかもその方向は、こちらへピタリと定まっている。
「ソラ、止められるか?」
「うん、まっかせてー!」
呼ばれてヒョイと顔を出した少女は、軽やかに杖を持ち上げて魔力を高める。
皆が静まり返って注目する中、不意に前触れもなく大きな楕円形が撃ち出され――。
少女の数十歩手前に入った瞬間、いきなり空中で停止した。
「やるじゃない、ソラ!」
ピタリと動きを止めた物体に、双子がソラの肩を交互に叩く。
その横でモンスターの動きを観察していたユーリルは、痛みで笑顔を引きつらせる少女の姿を確認してから口を開いた。
「体から離れた物は対象にしても、模倣はしてこないようですね」
「水の膜も張ってないようですし、本体を狙った場合だけでしょうか」
「うん、歌も歌ってないしね」
トールとユーリルの会話に、<賛美歌>を爪弾いていたリコリも口を挟む。
その言葉にクガセが驚いた顔で振り向いた。
「もしかしてあいつ、魔技をそっくり真似してくるんですか!?」
「ああ、その可能性が高いな。魔技はうかつに使わないほうがいい」
「となると、困ったわね。どうやってアレに勝つ気?」
「地道にやるしかないだろうな」
トールたちの攻撃の要は、これまで主にユーリルが担ってきた。
それが封じられた以上、武器による近接戦闘でひたすら叩き切っていくしかない。
「ユーリルさんは引き続き、奴を凍らせておいてください。動き回られると勝機がない。前衛はひたすら取り付いて削っていくぞ。ソラは飛び道具を――」
「トーちゃん!」
「どうした?」
頭上の輪っかをピカピカさせていたムーが、いきなり声を張り上げたのでトールは指示を中断した。
紫の瞳をくりくりさせた子どもは、足元を指差しながら言葉を続ける。
「なんかイヤなかんじがするぞ」
「見ろ、あいつの腕の先!」
ラッゼルの鋭い叫びに、トールは一瞬だけ視線を小窓の外へと向ける。
迷宮主の肘から下は、ウネウネとした触手となっていたはずだ。
だが剣士の言葉通り、その部分に変化が生じていた。
伸びた触手の先端が、いつの間にか地面の中へ消えていたのだ。
「離れろ!」
とっさにムーを抱きかかえて、飛び退るトール。
一呼吸遅れて、岩を穿ちながら凄まじい勢いで柱のような物が地中から姿を現す。
それは子どもの胴体ほどの太さを誇る触手であった。
勢いよく天井へ向かったモンスターの腕の一部は、そのまま水膜を突き破り粉々に砕く。
その隙に、全員が急いで距離を取る。
地面の中を掘り進んでまで攻撃を仕掛けてきた迷宮の主に、トールは振り返って入り口を確認する。
そして思わず顎を強張らせた。
モンスターの攻撃によって崩れた通路であれば、<復元>で元の状態に戻せるため、実はいつでも撤退できるはずであった。
しかし今、その積み重なった岩塊を覆っていたのは、新たな触手たちだった。
入り口の上に突き刺さっていた楕円形の物体。
その表皮を突き破って這い出た無数の触手が、すでに入り口を完全に封じてしまっていたのだ。
沼地の魔女そっくりなその姿に、トールはわずかに顔をしかめる。
「種のようなものか。甘く見たつもりはなかったが、予想以上に厄介だな」
そう呟きながらトールは、再び視線を広場に中央にそそり立つモンスターへと向ける。
不気味な花のような顔の中央には、またも新たな種子が姿を見せ始めていた。
ゆっくりと息を吐いたトールは、剣を持ち上げる。
かくして死闘の幕が上がった。




