そこにあったもの
立ち上がろうとした女性だが、膝に力が入らずよろけてしまう。
しかしその傍らには、すでにダダンが寄り添っていた。
滑るように距離を詰めた巨体が、軽やかに女性を受け止め支える。
手を貸して老婆の姿勢を正した局長は、トールたちへ振り向いて静かに声を発した。
「紹介しよう、わしの妻のココララじゃ。ココと呼んでやってくれ」
「はじめまして、みなさん。って、私ったらお茶の用意もしないで」
光る首輪をはめた老婆は、よたよたと歩こうとする。
その肩を押し止めたダダンは、優しく言い聞かせるように話しかけた。
「ほら、座っておれ。無理はするな」
「じゃあ、お言葉に甘えて。歳のせいかしらね。なんだか、すっかり疲れやすくなってしまって」
獣の隣りに座り直して微笑んできた女性に、トールたちは軽く頭を下げて名乗る。
「はじめまして、トールです」
「こんにちは、ソラっていいます」
「ムーはムーだぞ。よろしくな、ココばーちゃん」
「あら、ずいぶんと可愛らしい格好ね。あなたがたのお子様?」
「いえ、ムーちゃんは……」
「私の自慢の息子たちも紹介しなくちゃね。ほら、ご挨拶しなさい、アルルド」
そう言って老婆が話しかけたのは、背後の巨大な獣であった。
しかし虎のような紫の縞を持つその獣は、体を丸めたまま微動だにしない。
わずかに揺らした尾の先で、床を数度叩いてみせただけだ。
「もう、この子ったら寝てばかりで。ギギナスはどこへ行ったのかしら」
老婆が横たわる獣の腹部を漁るさまを、トールたちは無言で見つめた。
異様すぎる状況だが、側にいるダダンの様子からして安全ではあるようだ。
それと先ほど女性が呼んだ二つの名は、トールの記憶が確かであれば局長の長男と次男の名前であった。
しわがれ声で懸命に子どもの名前を叫んでいた老婆だが、急に目を輝かせて毛皮の下へ手を差し出す。
「もう、そんなところに居たのね。ほら、皆様にご挨拶は?」
老婆が引っ張り出してきたのは、汚れた大きな人形だった。
ところどころにはみ出た綿が覗き、顔の部分は何度も撫でられたのか酷く擦り切れてしまっている。
それと今しがた彼女がお茶を淹れるために向かおうとした先だが、家具らしきものも見当たらないただの壁であった。
「やだ、私ったら。髪もボサボサじゃない」
そう言いながら老婆は人形を地面へ投げ捨てると、手鏡を見ながら乱れた髪に櫛を当てる仕草をした。
ただし、その両の手には何も握られていない。
あまりにも奇妙な光景に、トールは小さく息を呑んだ。
不意に老婆の動きが止まり、ぐるりと視線を向けてくる。
その一切の光が消えた虚ろな眼差しに、ソラがトールの肘を強く掴んできた。
周りを見回してみると、双子たちは嫌悪に眉を寄せて、かばうようにムーの肩に手を置いている。
ザザムの口元はひげに覆われてはっきりとはしないが、頬の張り方からして歯を強く食いしばっているのが窺えた。
トールたちの視線が注がれる中、ダダンだけが柔らかな眼差しで妻の髪をそっと撫でる。
「もう、あなたったら。お手入れの邪魔しないで」
「今日はもう疲れたろう。いいから、休むのじゃ」
夫の言葉に糸が切れたように、老婆は力を抜いて横たわる。
その頬へ慈しむように触れたダダンは、立ち上がるとゆっくりとした足取りで戻ってきた。
「ふう、今日はまだマシな方で助かったわい。さて、何から話すべきかのう」
「あの……、あの大きなのは、危なくないんですか?」
ソラの問いかけに、ダダンはチラリとザザムへ目を走らせる。
その視線に、神殿長は小さく頷いて口を開いた。
「あれは"罪喰らいの獣"。我が法廷神殿が預かる聖遺物にして、この地の大瘴穴を塞ぐ番人でもある。この街が繁栄を謳歌できるのも、全てあの獣の賜物なのじゃよ」
いきなりの強烈な情報にトールたちが沈黙する中、今度はダダンが言葉を引き継ぐ。
「ようはあれのおかげで、この街は成り立っとるというわけじゃ」
「生きた聖遺物ですか……」
しかし考えてみれば、交易神殿の勿憶草のような植物の例もある。
そこで物悲しい翠羽族の女性の顔が脳裏に浮かんだトールは、鋭くダダンの背後へ視線を向けた。
「まさか、この聖遺物の代償が――」
「ああ、わしの妻じゃな」
あっさりと答えてみせた老人に、トールは言葉を失いただ顎の下を掻くしかなかった。




