解放の代償
一日の休息を挟み、トールたちは廃棄された地下監獄へ戻ってきていた。
本来ならもう少し間を空けるのだが、少々引っかかるものがあったせいである。
出発前のチルの顔に浮かんでいたのは、何かを心に決めた表情であった。
急ぎ足で十階までたどり着くと、階段に五つの人影が見える。
胸を撫で下ろしつつも、トールはすぐに違和感を感じ取った。
いつもであれば鉄格子へ近づく前に、双子が鎖を引いて開けてくれるはずだ。
だが二人とも寝台に横たわったまま、薄暗い天井を眺めて動く気配はない。
鋭い視線と笑みを投げかけてくるチルも、階段に腰掛けて段上に背を向ける妹へ寄り添ったまま、こちらへ振り向こうとはしない。
戸惑うトールたちへ鎖を引いて鉄格子を上げてくれたのは、一人だけ普段と変わらぬ様子のモルダモだった。
「キーねーちゃん、ミーねーちゃん。ムーがきたぞ!」
場の空気などあまり気にしないムーが、さっそく駆け込んで双子に話しかける。
楽しそうに太ももやお尻をペチペチと叩いてくる子どもの頭を、キキリリは黙ったまま手荒に掻き回した。
「やー、かみのけ、みだれるでしょ!」
巻き毛に触ってきたキキリリの手を、子どもは嬉しそうに掴んで引っ張る。
無理やり起こそうとしたようだが、双子の姉はまったく動こうとしない。
小首をかしげたムーだが、理由に思い当たったのか得意げに言葉を続ける。
「あ、もしかしてねーちゃんたち、おねむか? もう、おとながよふかししちゃダメでしょ」
子どもなら夜ふかしが許されるような口振りに、キキリリの頬がわずかに緩む。
ムーの髪に触れていた手がゆっくりと頬をなぞり、顎の下まで行くとくすぐるように動き出す。
たちまち子どもは心地よさげに喉を鳴らした。
その辺りで下の寝台に寝そべっていたネネミミが、むっくりと起き上がった。
音もなく背後から近づいたかと思うと、ムーを素早く抱き上げて姉の隣へ倒れ込んでしまう。
二人にピッタリと挟まれて動けなくなってしまった子どもは、窮屈な居場所からクスクスと笑ってみせた。
楽しげにじゃれあう三人だが、それは幼子を危険な存在から隠す母猫の仕草のようでもあった。
いつもとは違いすぎる雰囲気に、トールたちは互いの目を合わせる。
意を決して頷いたソラが、階段を数歩下りて心配げに尋ねた。
「チタさん、大丈夫ですか?」
少女の問いかけに、翠羽族の女性はようやく顔を上げた。
振り向いてトールたちの顔をしげしげと眺めてくる。
そして戸惑った顔のまま返答した。
「えっと、あの、こんにちは~?」
「はい、こんにちは。どうしたんですか?」
「……どう?」
やや間延びした口調なので誤解されやすいが、いつもチタの瞳には物事をきちんと見通す聡明な光が存在していた。
それが今は、ぼんやりと霞がかかったようになっている。
不思議そうにソラを見上げた女性の口から、呟くように言葉が漏れ始めた。
「どうって、どうなんでしょうかね~。う~ん、そもそも、ここどこなんでしょうか? 説明を聞いてもよく分からなくて……。私、なんでこんなところに居るのかな~。それとたぶん、私をご存じのようなので顔見知りだとは思うのですが、その、お名前をお伺いしてもいいですか~?」
思いがけない問いかけに驚くソラへ、チタは恥じ入りながらも困ったような表情を浮かべた。
それから小さな声で、謝罪の言葉を付け加える。
「…………私、なんにも覚えてなくて。本当にごめんなさい」
今度こそソラは、完全に言葉を失った。
気まずい沈黙を前に、トールは間を置かず階段を下りる。
そして先ほどから一言も声を発しない兄の肩に手をかけた。
振り向いたチルの眼差しからは、いつもの鋭さは跡形もなく消え失せていた。
「何があったのか教えてくれるか?」
ゆっくりと頷いた弓士が語りだした言葉は、トールたちの想像を超えた内容だった。
十五階を守る迷宮主へ、天嵐同盟の五人で挑んだこと。
その目的はゾルダマーグの打倒ではなく、解放であったこと。
そして無事に使命を果たすことはできたものの、聖遺物を使用した結果、チタが今のような状態になってしまったこと。
上枝武技の反動と魔力を使い果たしたせいでまともに動けない双子と、同じく反動が来たチル。
それと抜け殻状態になったチタをかばいながら、一行はなんとかこの安全地帯へ戻ってきたばかりらしい。
「その解放とやらと、普通に倒すのは違うのか?」
「まったくの別物だ」
ゾルダマーグは、そもそもリージニアリアがまだ辺境と呼ばれていた頃に、央国の兵士が無理やり捕えて持ち帰った龍である。
龍は光の届かない地下へ閉じ込められ、様々な実験に使われた挙げ句、囚人を処刑する役割が課せられる。
その見世物は評判となり、翠龍の悪名は央国中に轟くこととなった。
そして龍が死に国が滅びた今も、その名だけは残り続けている。
「前にも少し話したが、竜や龍は特別な生き物だ。それゆえに忌まわしき名をつけると、恐ろしい災厄になってしまう場合もあり得るのだ」
「ゾルダマーグもそうだったと」
「問題は忌み名を与えられてしまった龍の魂は、そこから動けなくなってしまうことだ。名を呼ばれ存在を恐れられることで、龍はおぞましい屍として何度でも蘇ってしまう。許せるか? そんな永劫に近い苦しみを背負わせる所業が」
「なるほど。それをどうにかするのが解放か」
「ああ、だがその代償がこの有り様というわけだ」
龍の記憶から忌み名を取り除くには、まず生前の状態まで戻ってもらう必要がある。
それは狂乱相で顕現する八苦眼の最後の一つ、命眼によってなされることは分かっていた。
双子にその状態まで粘ってもらった後は、チタの有する勿憶草の出番だ。
この聖遺物は、対象が自らの存在を忘却してしまう風を発することができる代物らしい。
むろん、その凄まじい力を発揮する犠牲として、支払われるべきものがあった。
それは所有者の記憶だ。
「えっ?」
その事実を聞いた少女は、呆然とした顔で兄妹の顔を見比べる。
「そんな……。ほんとうに記憶が消えたんですか?」
「ああ、十年分ほどが綺麗サッパリとな」
「何も覚えてないんですか!? チタさん」
勢い込むソラの剣幕に、チタは当惑した顔のまま謝罪する。
「ごめんなさい。ぜんぜん思い出せなくて」
「謝らないでください、チタさん……。謝ることなんかなにもないですよ。これっぽっち……も……」
言葉に詰まらせる少女を見ながら、チルは深々と息を吐いた。
「これもまた許されるような所業でないな」
大人たちのかもし出す悲痛な空気に、寝息を上げかけていたムーがぴょこんと起き上がる。
寝台から飛び下りた子どもは、颯爽とチタのところへ駆け寄った。
「きょうはげんきないなー、はねのねーちゃん。おなかすいたか?」
「ううん、たぶん空いてはないかな~。ごめん、よく分からなくて。ところで君のお名前は?」
「むう。ムーのなまえわすれたのか?」
「ふふ、ムーちゃんだね。よろしくね」
そこで不意に水滴が、チタの両頬を伝い始める。
涙を溢れさせるその姿に、ムーは驚いたような声を発した。
「どうした! どこかいたいのか?」
「ううん。ムーちゃんを覚えてないって分かって、なにかすごく悲しくなってね……。ごめんね~」
幼子と接することでようやく記憶が失われたことを強く実感したのか、チタは声をくぐもらせながら謝る。
謝られたムーは無言で手を伸ばすと、そっと涙を流す女性の顔を優しく抱きしめた。
柔らかな感触に包まれたチタは、大きく肩を震わせる。
釣られてムーの紫色の瞳からも、大粒の涙がこぼれだした。
泣きじゃくる二人の様子に、寝台に寝そべったまま動けないキキリリが咎めるように言葉を放つ。
「だからこんな場所に、子どもなんて連れてくるもんじゃないのよ」
「そうか」
「ええ、貴方は仲間を守れるほどお強いかもしれないけど、周りはそうじゃないわ。もっと酷い別れ方もそのうち絶対にあるわよ」
「かもしれんな」
「だったら!」
言葉を荒らげるキキリリに、トールは静かに首を横に振った。
「だとしても、避けて通ってどうする。別れに早い遅いなんてないぞ。それにな、ムーならきっと大丈夫だ」
もっと酷い別れなら、路地裏に独りで居た時点で経験済みだろう。
やがて顔を上げた幼子は、チタの頭の羽を引っ張りながらあっけらかんと言い放った。
「まー、わすれちゃったのはきにしない。またおぼえればいいしなー!」
その言葉に顔を上げたチタは、ぎこちなくも笑みを浮かべてみせた。
「うん、そうだね~。……ありがとう、ムーちゃん」




