夜の帳亭談合 その一
夕食を軽めに終えたトールは、身支度を整え立ち上がった。
部屋を出る前に振り向いて、ベッドの上で眠りこける子どもの姿を眺める。
両手両足をのびのびと伸ばすムーの脇腹には、黒猫と縞猫の二匹が寄り添うように丸まっていた。
身を預けられて寝苦しいのか、子どもが不意に寝返りを打つ。
支えを失いむくりと起き上がった猫たちは、しばらくじっとしてから無言でムーの体の上に移動した。
二匹の重みに腹を押された子どもは、むにゃむにゃと可愛い寝言を呟く。
今すぐムーと替わりたい衝動に駆られたトールだが、寸前で辛うじて思い留まった。
今夜はまだ、やるべきことが残っていた。
玄関を抜け出たトールは、足を東へと向ける。
そのまま魔石灯の少ない裏道を、音もなく進んでいく。
しばらく歩くと、賑やかな南大通りへと行き着いた。
宵の口を少し過ぎたばかりだが、まだ大勢の人間が行き交っている。
その人だかりを横目に、通りを横切ったトールはさらに東へ進む。
ただし道を渡った先も、負けず劣らずの混雑ぶりであったが。
外街の南側は街を囲む大きな壁のせいで日当たりが悪く、あまり人気のない区域である。
だが街の南東は、そんな日陰でしか咲けない花が集う場所でもあった。
夜がふけると、ひときわ煌やかに彩られる街並み。
それがこの宵花通りだ。
質の良い魔石を使っているのか、通りを照らす魔石灯の光は眩しいほどに強い。
その輝きに浮かび上がるのは、艶やかな衣装をまとった女人たちだ。
飾り立てた店の前で、各々が愛らしい声を発しながら客を引いている。
そこから視線を引き剥がし正面へと向けると、大きな三角錐の形をした目立つ建物が視界に飛び込んでくる。
解放神殿。
炎神ラファリットを崇め、その教義である欲望の解放を布教するための建造物だ。
内部には闘技場や賭博場、各地の美食を味わえる宴会場や房事をたっぷり楽しめる寝屋など、欲望を満たす手段がこれでもかと詰め込まれている。
解放神殿の周囲や大階段には、灯火が燃やされた無数の灯籠が並んでいた。
捧げられた炎によって照らし出される欲望の塔へ、光に吸い寄せられる羽虫のごとく人々が群がっていく。
その様を遠目に眺めながら、トールは持ってきた砂よけ布を顔に手早く巻きつける。
破れ風の荒野で使った物だ。
解放神殿が本拠とする東国ズマは、砂に埋もれかけた国でもある。
そのせいで顔を布で覆う風習があり、それが遠く離れたこの地でも異なる目的で活用されていた。
外街で暮らす冒険者や職人たちだけでなく、内街の住人や行商人など雑多な人々がこの場所には集まってくる。
中には妻子を持つ者もおり、素性を知られたくないということで、顔を隠せる布を着けて歩くのがいつしか当たり前になったというわけだ。
もっとも後ろ暗いところがない人間は、堂々と顔を晒して歩き回っていたが。
トールも別にはばかられるようなことをする気はないが、顔がよく知られているうえに仲間が美人揃いで有名ときている。
うかつな噂を流されるのは、できるだけ避けておきたいところであった。
口元をきっちり隠し、虹色の冒険者札を襟元へ押し込んだトールは、何気ない顔で人混みに紛れ込んだ。
しばらく流れに沿って歩く。
やがてメモに記してあった路地を見つけたトールは、足取りを緩め滑り込む。
頬紅や香油などの色っぽい匂いが遠ざかり、一転して胃袋をくすぐるような匂いへと変わる。
この辺りは小料理屋が軒を連ねていた。
ただし料理だけでなく、ちょっとした艶事も味わえる店であるが。
突き当りまで行きつくと、黒い天幕に覆われた奇妙な建物が待ち構えていた。
これが今日のトールの目的地、夜の帳亭だ。
垂れ幕を持ち上げて薄暗い入り口へと進むと、出迎えてくれたのは見目麗しい女性陣ではなく、いかつい胸筋を剥き出しにした二人組の男だった。
これみよがしに腕組みをしたまま、トールを止めだてするように立ち塞がる。
「一見さんはお断りしております」
「お引き返しください」
一人は頭髪がなく、もう一人は顔に目立つ古傷がある。
口調は丁寧だが、その言葉には有無を言わせぬ剣呑な響きが込められていた。
「連れがいるはずなんだがダメか?」
「何か証明できるものはありますかね?」
困ったように顎を掻いたトールは、口元に巻きつけていた砂よけの布を静かに引き下げる。
現れた素顔に、用心棒の二人は大きく目を見開いた。
「ど、どうぞ」
「お、お通りください」
「ありがとう。あと、なるべく言いふらさないでくれると助かるんだが」
男どもは顔を見合わせると、ブンブンと音がしそうなほど首を縦に振った。
さっと左右に分かれた二人に見送られながら、トールは垂れ下がる布の奥へと足を踏み入れる。
店の中は落ち着いた感じの薄暗さで、こちらも至るところに垂れ布が飾られていた。
それが仕切りとなっているようで、その向こうからは複数の話し声が聞こえてくる。
光源は天井に下がる魔石灯たちだが、一つだけ一際大きく奇妙な半円形をしていた。
周りに散りばめられた小さな輝きを見たトールは、それが半月が浮かぶ夜空を模しているのだと気づく。
まさに夜の帳という店の名前にふさわしい演出だ。
知人の姿を確認しようと視線を巡らしたトールだが、いつの間にかすぐ前に立っていた女性の姿に気づいた。
獅子のたてがみのように広がる金の髪に褐色の肌。
若い頃はさぞ美しかったであろう整った顔立ちで、上品な赤いドレスがよく似合っている。
優雅に一礼した女性は、耳に残る声でささやくように挨拶してきた。
「いらっしゃいませ、ご案内を務めさせていただくアニエッラと申します」
「わざわざ申し訳ない。知人に会いに来たんだが、その……」
「存じております。どうぞ、こちらへ」
柔らかに微笑んだ女性は、垂れ幕の奥へと歩き出した。
先ほどの出迎えもそうだったが、その足取りは美しく物音一つしない。
よほどの鍛錬を積まねば不可能な足さばきにトールが見とれていると、あっさりと目的地に着いてしまった。
一番奥の大きな席を専有していたのは、顔なじみの禿頭の男性であった。
左右にはきわどい衣装に身を包んだうら若き女性たちが座り、赤い尾を派手に揺らしながらしなだれかかっている。
口角をだらしなく緩めていたダダンは、近寄ってきた女性とその後ろのトールを見た瞬間、慌てながら取り繕った表情を浮かべた。
「なんじゃ、トールか。ふむ、お前もこんな店で遊ぶようになったのか」
「いえ、師匠に話があって寄らせていただいたのですが……」
「なんか言いたそうじゃのう」
「いえ、何も」
「ふん! ようやく口うるさいサッコウから解放されたんじゃ。少しくらい羽目外しても罰は当たらんじゃろ」
「だから、何も言ってませんが」
そこで機を見計らっていたのか、ダダンの両側に座っていた二人が口を挟んできた。
「まあ、ダダンおじさまのお知り合いの方ですか?」
「詳しくご紹介していただいても?」
「あなた方、お邪魔してはダメよ。さ、こっちへいらっしゃい」
媚びた声を張り上げた二人だが、トールを案内してくれた女性にあっさりと阻まれてしまった。
この街を統べる局長の知り合いだ。
ぜひとも顔をつなぎたかったのだろう。二人は息を合わせたように、愛らしい抗議の声を上げる。
「えー、もう少しいいでしょ? ね、ダダンおじさま」
「あ、もしかしてトール様ってお名前!」
「二度はないわよ。さ、いらっしゃい」
先ほどと口調の変化はない。
だが年老いた女性の声には、決して抗ってはならない響きが込められていた。
一瞬で顔色をなくした若い二人は、バネのように立ち上がった。
尻尾が見事に丸まってしまっている。
「し、しつれいします」
「ご、ご、ごゆっくりどうぞ」
「躾がなってなくて申し訳ありませんね」
「いえ、案内ありがとうございました」
女性たちを見送ったトールは、ダダンから少し離れた場所にどっかりと腰を落ち着けた。
そして残念そうな顔を隠さない老人へ体を向ける。
「チョイ屋に何度か寄ったんですが、行きつけを替えたんですね」
「仕方ないじゃろ。暑苦しい煮込みばかり、そうそう食えるか」
言われてみれば、もう初夏にさしかかる時季だ。
「前に寄った時に、店の親父がそろそろ冷やし麺を始めるって言ってましたよ」
「おう、だったら食いに行かんとな」
「絶品ですからね」
「ああ、あれ食わんと夏が来た気がせんからのう」
そこで会話が少し途切れる。
改めて店の中を見回したトールは、高そうな内装に小さくため息を吐いた。
黒絹に覆われたソファーに、黒檀のローテーブル。
珍しいガラス製のグラスには、真っ赤な火精酒がなみなみと注がれている。
「こんな高そうなところ、毎晩通ってていいんですか?」
「家に帰っても息子の嫁の小言ばかりの老人には、たまには気晴らしが必要なんじゃよ」
そういえば人手不足で門衛をしていたダダンと知り合ってから二十五年近くなるが、奥方にはお目にかかったことは一度もない。
噂では凄腕の雷使いだったそうだ。
二人の息子は冒険者にはならず、父親の補佐を務めているらしい。
ゆくゆくは街長の跡を継ぐのだろう。
「で、今日はなんの用じゃ?」
皿に盛ってあったピンク色の塩を一舐めして、グラスを傾けたダダンは用件を尋ねてくる。
勧められた酒を断ったトールは、前置きもせず用件を打ち明けた。
「ええ、ムーの天威の雷環についてお聞きしたいことがありまして」




