それぞれの休日
「…………これは、思ったよりも大変そうだな」
苔むした石造りの外壁を見上げながら、トールは小さく呟いた。
石壁の高さはトールの背丈三人分ほどなので、上の方は全く手が届きそうにない。
そして長さは、ざっと見ても数百歩以上ある。
長年の雨風に晒されてきた石は、風化が進みかなりもろくなっているようだ。
目に入る範囲だけでも数ヶ所が欠け落ち、ヒビ割れた部分も多数ある。
今日は休みであるはずのトールの仕事は、この石壁の修理である。
ことのきっかけは、街の長であるダダンの来訪だった。
先日、うっかり髪を生やしたまま放置した街長だが、あの日は結局、サッコウ副局長の家に泊まらせてもらったらしい。
そして丸一日、ふさふさの髪型を堪能したあと、今朝、トールの下宿先に押しかけてきたというわけである。
頭部が元通りになったダダンは、毛髪のなくなった頭を即座に下げてみせた。
「すまんが、少し頼まれてくれんか」
ダダンの依頼は、外壁の破損が酷い箇所の修復であった。
地神ガイダロスの奉仕神殿に頼めば、金貨数十枚はかかる案件だ。
だがなかなか予算が下りないらしい。
この街がモンスターの脅威に直に晒されたのは、九年も前のことである。
すでに当時の記憶はそれなりに薄れ、危機感を抱く者は住民の中でも減りつつある。
だらけきった門衛の姿があらわす通り、衛士たちも自らの仕事がカカシ程度だと思いこむほどだ。
襲われる心配の少ない街の壁を直すくらいなら、職員の給与を上げたり有益な公共財に回せという意見が多いのだろう。
「いいですよ。ただし大っぴらに直すとまずいので、あくまでも応急処置程度になりますが」
「おお、助かる。ちょうど今、ボッサリアにうちの主力が遠征しとるでな、……どうにも嫌な予感が離れんのじゃ。それに数点、ちょっとした報告も上がってきておるしな」
恩義ある人物に頭を下げられては、むげに断りにくい。
無意識に顎の下を掻くトールに、ダダンは神妙な顔になって言葉を続けた。
「手のひらを返すような真似をして、浅ましいとは思っておる。だがわしは、この街の民を守るためなら恥なぞ気にしておれんのだ」
「意地を張ったのは俺ですから、気にしないでください」
「そういってくれると助かる……」
そんなわけで本日のトールは、森には入らず壁の下を歩き回っているというわけだ。
個人的な依頼ということで、報酬は街長への貸し一つとダダンが前に使っていた魔石具を数点譲ってもらった。
その一つが――。
「じゃあ、トーちゃん、ちょっと調べてるから、あまり遠くへ行くなよ」
「わかった!」
相変わらず表情はとぼしいが、ムーの声にはご機嫌な響きが最大限にこもっていた。
それもそのはずで、子どもがまたがっていたのは、かなり真新しめに<復元>されたピカピカの運搬ソリだった。
買い取り所でレンタルできる木製のではなく、真銀製の特注品である。
原料となった素材のせいか子どもでも小脇に挟んで運べるほど軽くなっており、デザインも洗練されて曲線が多い造りになっている。
多頭の蛇――ダダンが倒した迷宮主――の紋章がついている点も、ムーは大変気にいったようだ。
「ムーはいま、かぜになる!」
そう叫びながら、先ほどから壁のそばを行ったり来たりしているムーであった。
もう一度、視線を石壁に戻したトールは、どこから手を付けるべきか考える。
この石を積み上げた外壁は東に向いた大きな蹄鉄の形をしており、ぐるりと街を取り囲んでいる。
蹄鉄の鉄頭に当たる部分に外門があり、一歩外に出れば小鬼の森が眼前に広がる。
後ろ側は大きな正門があり、街の背後を通る街道へと繋がっている。
境界街の中は外街と内街の二重構造となっており、境目は中堀と橋で仕切られていた。
この橋は外壁がモンスターに突破されたら、すぐに落とされる決まりである。
外街には冒険者局やそれと関連する建物が多く、内街は一般住民の居住区や六大神の神殿などがある。
もっとも炎神ラファリットの解放神殿だけは、その教義のため外街にあったりするが。
武技や魔技を持たない住人たちにとって、モンスターを狩り街を守る冒険者や衛士は英雄ではあるが、良き隣人とは呼びたくないのかもしれない。
小さく首を振ってトールは、浮かんできた考えを振り払った。
己が勝ち得た力は、己の欲するところに従って使うべきだ。
それが結果的に、他者の迷惑にならなければそれでいい。
というのが、トールの持論である。
ざっと見て回ったトールは、破損が酷い北側から始めることにした。
石壁にさわりながら、<復元>の効能を検証する。
まずは修復範囲の確認。
モンスターと関わった過去がないと、スキルの対象外となってしまう。
幸いと言えばおかしいが、過去に数度、"大発生"でモンスターが押し寄せたせいか、かなり昔まで戻せるようだ。
ただし壁全体を一気に<復元>するのは、無理なようである。
これはトールの認識の限界を超えているからであろう。
とりあえず大きな亀裂が入った箇所に触れて、十年ほど前に戻す。
綺麗に塞がった壁の状態に満足しながら、トールは隣に目をやって思わず顔をしかめた。
くっきりと線を引かれたように、差が目立ってしまっていたのだ。
「これはさすがに、気づかれるか……」
誰もこんなところに来ないとは思うが、ひと目で分かってしまうのはいただけない。
再度、もとに戻した石壁を見上げながら、トールは地道な修復に切り替えることにした。
「一つずつ範囲を絞っていくか――」
石がかなり崩れかけているところだけを限定して、元の状態に<復元>してみる。
狙った部分だけが綺麗に直せたので、トールはかすかに口元を緩めた。
大きく欠けてしまっていると完全な復元は無理だが、それでもいい感じに穴やヒビを塞いでいく。
ただしこのやり方だと、使用可能回数はまたたく間に減ってしまう。
「これは<対象分散>が欲しくなるな」
<対象分散>とは魔技を行使する際に、複数に狙いを定めることができる特性である。
分散するため効果は落ちるが、慣れれば数匹のモンスターを一度に燃やしたり切り裂くことが可能となる。
魔技使いにとっては、かなり垂涎モノの特性だったりする。
ないものねだりをしても仕方がないので、トールは代わりに最近、試しているやり方に挑戦してみることにした。
これは前々から何とかしようと考えていた、対象の狙った状態を素早く探す方法である。
従来の場合、大量の経歴を一つずつ読んで探していたが、それを簡略化することに成功したのだ。
きっかけは、先日の大毛虫の痒み毒に耐えながらの集中特訓だった。
集中できない状態でも<復元>を使いこなすための試みだったが、かゆみを意識しすぎた状態で経歴を見ると、過去のかゆかった状態だけがズラッと浮かび上がってきたのだ。
どうやら探すべき状態をキーワードのように重点的に意識すれば、ある程度の絞り込みができるようだ。
本のページから文脈を無視して、読みたい単語だけを拾い上げる感じだろうか。
「無傷、無傷と……。これは昔すぎるな。よし、これで」
五十歩ほどで使用回数を使い切ったトールは、大きく伸びをした。
まだ始めて二十分も経っていない。
たちまちトールの様子に気づいたムーが、ソリを蹴って近寄ってくる。
「トーちゃん、しごとおわったのか?」
「いや、<復元>の回復待ちだ。まだまだ遊んでていいぞ」
「わかったー!」
元気よくソリで走り出した子どもを見送ったトールは、腰に下げていた鞘から剣を抜き出す。
いつもの木剣ではなく、鈍色の輝きを放つ鉄製の剣だ。
安物の鋳鉄の片手剣である。
もっともこれでも銀貨五枚と、日雇いの月の稼ぎ分ほどはしたが。
トールが今まで木剣を使ってきた理由はたった一つ、安いからであった。
樫の木剣は大銅貨四枚なので、この剣と比べると十本買っても釣りがくる。
しかし殺傷力という点では、鉄剣に分があるのは確かだ。
手にした鉄剣を持ち上げ振り下ろす。
木剣よりも重いせいで、わずかに刃筋がブレた。
この重量の差は大きい。
トールが得意とする手元を締めて威力を増したり、高速での斬り返しは軽めの木剣だからこそできた技である。
しかし先へ進むなら切れ味が劣る木剣だけでは、どうにも厳しいのは事実だ。
それにいざという時のために、複数の武器を用意しておくのも常識でもある。
慣れるまで、今はただ振り抜くしかない。
そう感じたトールは、<復元>の使用回数の制限が終わるまでひたすら剣を振り続けた。
石壁を直しながら、鉄剣を素振りし、時にムーのソリの魔石を交換してやる。
そんな感じでトールの休日は過ぎていった。
夕暮れの時鐘が鳴り響くころ、北側の外壁の補修はほぼ完了した。
南側は次の休みを当てる予定で、トールとムーは引き上げる。
<復元>の新しい検索法にも、かなり慣れることができた。
鉄剣の重みにもそれなりに順応できたので、実戦への投入はあと少しといったところである。
ムーのほうは外壁を利用しての急上昇から、ひねりを加えての回転着地をマスターしていた。
トールたちが下宿先に戻ると、ユーリルとソラが仲良く晩御飯を作っているところだった。
今日は一日、部屋の掃除と洗濯などをしていたようだ。
自室に戻ると注文してあった下着が、畳んでベッドの上に置いてある。
ソラが引き取りに行ってくれたらしい。
その夜、スライムの粘液でパリパリに糊付けされたシーツで、トールとムーは深々と満足のいく眠りをむさぼった。




