十階の洗礼 その一
十階への階段は、少しばかり横幅が広いようだった。
薄暗い闇の奥へ魔石灯を掲げたトールは、一段目につま先を下ろしたところで足を止める。
階段の途中に黒い塊を見つけたためだ。
ムーの<電探>は、いまだ妨害されたままである。
腕を上げて警戒を促したトールは、慎重に階段へ足を踏み入れる。
数段ほど近づいた時点で、その正体はあっさりと判明した。
剣を鞘に収めたトールは、上の部屋で待ち構えていたソラたちに下りてくるよう手を振った。
「へー、すごいね。これ」
「よく考えてますね」
「いがいとはずむぞ! トーちゃん」
「おい、勝手に乗るな。怒られるぞ」
階段の途中に設えてあったのは、革張りの寝台であった。
真ん中と端に長さの異なる金属製の足がついており、段差に対しベッドが水平になるよう調整されている。
さらにつなぎ目を見るに、折りたたみもできるようだ。
体を横たえる部分は黒い革で覆われており、手で押すと跳ね返るような柔らかな感触が伝わってくる。
意外と寝心地も良さそうである。
ずらりと壁に沿って並んだ五つの寝台には、枕や毛布がそれぞれ乗っている。
どうやら天嵐同盟は、ここを休息の場として利用しているらしい。
「六階までいちいち戻るのは、面倒だからか」
この階段までくるのに半日はかかっている。
昨日、見かけたチタたちの軽装な理由に、トールは合点がいったように頷いた。
それとおそらくだが、防寒具などもここに置いておくのだろう。
階段を下りるにつれ、肌を刺すような冷気がいっそう強くなっていた。
「うう、ちょっと寒いね」
「袖を縛っておくと少しマシですよ。ムムさんは襟巻きをしておきましょうか」
寒冷地生まれのユーリルが、暖かい空気を逃さないようテキパキと皆の服装を整える。
階段の一番下まで行くと、天井から見慣れた鎖がぶら下がっていた。
注意を払いながら引っ張ると、耳障りな音とともに鉄格子がトールたちの目の前に下りてきた。
階段の上からも同様の音が響いてくる。
もう一度引くと、鉄格子は天井へと引っ込んでいった。
「なるほど。上手く考えたものだな」
中に入って鎖を引けば、上下の入り口の鉄格子が閉まって、この階段は安全地帯となるというわけだ。
感心しつつ、トールたちはようやく十階へと下り立った。
すぐに目につくのは壁や床の破損具合だ。
これまでもかなり傷みは目立っていたが、十階からは廃墟と言われても全く疑問を抱かないほどに荒れている。
壁や床には大きな亀裂や穴がいくつもあり、今すぐ崩れ落ちても不思議ではなさそうである。
より凄惨な雰囲気が増したことに、トールたちは気を引き締めるように頷きあった。
階段下の部屋を出た一行は、大銅貨を投げて行き先を決める。
裏が出たので、まずは北側を探索することにした。
これまでのパターンだと囚人の区域であったが、それは変わってないようである。
ただし収監された罪人の質は、少しばかり変わってしまったようだ。
「あれ! でっかくなってない?」
通路を徘徊する死霊の姿に、ソラが驚きの声を発した。
これまでは数体の群れであったモンスターだが、ここは一体だけである。
だがその身長は背を屈めても、天井に届くほど大きい。
ボロ布に近いローブを引きずった死霊はトールたちに気づいたのか、のっそりと体の向きを変えた。
そのせいでモンスターの胸元が露わになる。
肋骨があるはずの場所に並んでいたのは、数個の頭蓋骨であった。
その骸骨たちは生者の気配を感じ取ったのか、続々と顎を上下に動かし始める。
半透明の死霊のため音はしないが、複数の骸骨が口元をカクカクさせる様は、あまりにも不気味な光景だった。
いや、不気味なだけではない。
白い空気の塊のような何かが、骸骨たちの前にいくつも浮かび上がったのだ。
それは音もなくトールへと動き出した。
奇妙な靄のようなそれは、次々と通路を横切ってくる。
飛来する謎の攻撃に、トールはとっさに蛇皮のマントの強度を上げ身を覆った。
しかし物理的な守りは、意味をなさなかったようだ。
靄がマントに触れた瞬間、体の芯を通り抜けた寒気にトールは思わず呻き声を漏らした。
全身の力が抜け、その場に膝をついてしまう。
そこへ続けざまに白い空気がぶつかり、意識が急激に遠のいていく。
「トーちゃん、まけるなー!」
張り上げた子どもの声に、トールは寸前で持ち直した。
<復元>で体の状態を一瞬で戻し、モンスターへ向けて床を蹴る。
死霊の胸元の頭蓋骨どもは、またも顎を動かし始めていた。
さらにその上にある本来の頭部までも、せわしなく顎を上下させ始めている。
数歩の距離を一瞬で詰めるトールだが、わずかに遅い。
間に合わないかと思われたその時、ムーの指先から放たれた紫の電流がタイミングよくモンスターの体へ吸い込まれた。
胸の骸骨どもの動きが、痺れたようにいっせいに止まる。
好機を逃さず剣を振りかぶるトール。
しかし上部にある死霊の頭蓋骨までは、<電投矢>の効果が及ばなかったようだ。
平然と顎を動かし終えたモンスターの周囲に、今度は黒い霧のようなものが生み出される。
踏み込んだトールの足に、違和感が生じた。
だが構わず、そのまま体を寄せる。
白銀の刃が輝き――。
次の瞬間、ボロボロと刃が欠け落ちた。
同時にトールの腕を覆う革手袋も、みるみる腐っていく。
――<復元>。
元通りとなった真銀の剣は、死霊の体を正面から両断した。
しかし浅い。
腐敗した靴底がぬかるみ、足元が定まらなかったせいだ。
黒い霧が触れた部分は、急速に腐り始めていた。
そしてさらにその一瞬の遅延で、腐敗は一気に進む。
剥き出しとなった体に霧が触れ、皮膚がどす黒く変色しだす。
動きが止まったトールを抱きしめるように、死霊の両の手が伸びた。
麻痺が抜けた胸元の骸骨どもが、嬉しそうに歯を何度も噛み合わせてながら最大限に顎を開く。
――<遡行>。
黒い霧の範囲外へ、一瞬で身を移すトール。
軽く息を吸って大上段に剣を持ち上げる。
何もない空間へ振り下ろすと同時に、魔力を解放する――<加速>。
その刹那、トールの体は、なぜかモンスターの向こう側に立っていた。
一呼吸おいて、死霊の体が鮮やかに両断される。
消えていくモンスターの姿に、トールはやれやれと息を吐いた。




