歌い継がれる勲し その五
「まだだ。まだ終わってないぞ!」
警告を叫びながら、トールはすでに走り出していた。
泥を跳ね飛ばして魔女の頭部から現れたのは、無数の太い縄が絡まったような存在だった。
蛇のように蠢くそれはいっせいに持ち上がると、その先端から黒い塊を今度は四方へとばらまく。
ベッティーナに刺さった塊を<遡行>して消したトールは、自らに飛んできた黒い影を剣で斬り飛ばした。
同時に丸太床の上に残っていた仲間の安否を素早く確認する。
ユーリルとバルッコニアに向かった黒い塊は宙に留まったり、跳ね返るように元の位置へと戻っていた。
ラッゼルはトールと同様に剣で斬り伏せたようだ。
ガルウドとゴダンは盾で防いだようだが、前衛の三人は上枝武技を使った反動か、その動きに精彩はない。
さらに問題は彼らの剣や盾が、よじれ縮みながら溶けだしている点だ。
黒い塊を斬ったトールの剣も、すでにその重みが失せつつある。
それだけではない。
無差別にばらまかれた泥そっくりな塊は、急速に床の丸太を溶かし始めていた。
たちまち辺りに異様な臭いが立ち込める。
「……<腐弾>か」
当たった対象を急速に腐らせる闇技である。
むろんトールの<復元>であれば元通りにはできるが、問題はその数だ。
今や丸太床の中央、泥山の上に陣取った魔女の頭部は数十近い髪をうごめかしていた。
いや、すでに顔らしき部分は跡形も残っていない。
そこに居たのは、黒い触手たちを伸ばした不気味な肉塊であった。
「これが狂乱相か。いや、本体か」
呟くトールの前で、触手がいっせいに持ち上がる。
そしてまたも黒い塊が全方向へばらまかれた。
「逃げろ!」
トールやソラの魔技は対象を指定する必要がある。
そのため防ぐべき攻撃の数が増えすぎると、使用可能回数があっという間に底をついてしまうのだ。
この状況では足手まといだと理解したのか、ガルウドたちは転がるように沼へ飛び込む。
だがユーリルたちは、そう素早く動けない。
立ち上がったベッティーナが、二人をかばうように前へ出た。
そこへ<腐弾>が容赦なく降り注ぐ。
細剣が閃き、黒い塊を弾き飛ばす。
さらに数個は空中で停止したり、あらぬ方向へと転じた。
だがそれでも放たれた数は圧倒的であった。
ベッティーナは鎧だけでなく、その頬から顎にかけて肉が腐り落ち骨がねじれ始めていた。
端正な顔が苦しげに歪む。
だがその手はしっかりと、刃が半分となった剣をまだ持ち上げていた。
トールもとっさに蛇革のマントの強度を上げて自分をかばったが、それでも酷い腐臭が漂いだしている。
次を受け止めるのは厳しいようだ。
おそらくソラの<固定>と<反転>も、今のでほぼ尽きただろう。
<遡行>の使用可能回数も、もう残りわずかだ。
ただ、この状況を老練な氷使いが黙ってみていたはずもない。
すでにユーリルの詠唱は終わっていた。
「月光よ、結べ――<月禍氷刃>」
真円の凍月が呼び出され、全てを凍てつかせる波動が魔女の本体へと降り注ぐ。
いかに厄介な相手だろうと、氷漬けにしてしまえばおしまいだ。
たちまち黒くうねる触手どもは動きを止め――なかった。
凍える光を浴びたはずの黒い髪たちは、いっそう激しく動き出す。
より太さと長さが増し、ぐねぐねとその身をくねらながら大きく伸びていく。
同時に真上に開いた銀の空間が、ぐにゃりと歪んだかと思うと魔女の体に吸い込まれるように消えてしまった。
そのあり得ない有り様に、バルッコニアは蒼白な面持ちで呟いた。
「……ま…………さか、魔技を……魔力を吸い込んだのか……?」
信じ難い現象だが、今起こったことを考えるとそう取るしかない。
ユーリルも目を見開いて黙り込んでしまう。
そしてさらに状況は悪化していく。
髪の毛の下にある肉塊にも、再び泥が集まりつつあった。
すでに腐り落ちかけていた丸太床は復元済みだが、直すまでのわずかな時間で沼から大量の泥を吸い上げたようだ。
トールたちの眼前で、魔女はゆっくりと元の姿を取り戻そうとしていた。
頼りとなる上枝魔技を使えば、逆に吸収され回復を早めてしまう。
通用しそうな上枝武技も、すでに使用済みですぐには使えない。
追い詰めたと思ったのは、完全な誤ちであったようだ。
伝承の存在の底知れぬ力を前に、後方で息を詰めて見守っていた冒険者たちの顔を深い絶望の色が覆っていく。
声さえ失った観衆の前で、魔女は高々と黒い触手を掲げる。
舞台に残された四人には、もはやどこにも逃げる場所はない。
これから引き起こされる惨劇に、若者の多くは目を背けて顔を伏せた。
だがこの絶対的な窮地に立ちながら、トールはまっすぐに顔を上げていた。
腐ってねじ曲がっていた剣を<復元>し、魔女に負けじと高らかに空に向けて持ち上げてみせる。
そして一言、呼びかけた。
「いいぞ、撃ち込んでやれ! ムー」
「らいらいらーい!」
幼子の元気な声が、いきなり頭上から響き渡った。
同時に大量の何かが、魔女へ向けていっせいに降り注ぐ。
その動きで空気が揺らいだのか、トールたちの真上に潜んでいた存在が明らかになる。
沼の空に浮かんでいたのは、大きな飛竜であった。
翼をはためかせながら、空中に器用に留まっている。
その腹部についた小舟から身を乗り出していたのは、紫の瞳を輝かせたムーと杖を突き出したソラだ。
よく見ると子どもの体は、少女と紐でぴったり隙間なく結んである。
実は二人はずっと上空から、戦闘に参加していたのだ。
そして今、飛竜が足に掴んでいた大きな布を離したことで、チタの<風隠>が解け姿を見せたというわけだ。
布にぎっしりと包まれていた白い何かは、次々と魔女に向かって落ちていく。
それは丸々と太った立派なキノコだった。
ただし中に詰まっているのは、可燃性の危険な気体だ。
危うい気配でも察したのか、魔女は間髪を容れずに<闇弾>を無差別にばらまいた。
当然、真上から降ってくる爆裂茸にも黒い塊が向かう。
「らいらい!」
幼い掛け声とともに、ムーの真下に紫の電流が混じった空間が不意に現れる。
――<電滞陣>。
そこに入り込んだ物体は、動きが急速に遅くなってしまう。
一瞬で白いキノコと黒い<闇弾>は、ピタリと動きを止めた。
さらにトールたちへと飛来した<闇弾>だが、突如、空中でかき消すようになくなってしまう。
――<消去>。
ソラが覚えた新たなスキルである。
そして消しきれなかった黒い塊に、逆方向から飛んできた<闇弾>がぶつかって弾ける。
――<再現>。
使い方が不明だった魔技は、今や消し去ったものを自在に生み出せる強力な技へと変化していた。
身をひるがえしつつ、トールは二人へ頷いてみせた。
ソラは笑顔で手を振り返し、ムーは虫かごをポンと叩いてから人差し指を真下へ振った。
その指先から、とても小さな紫色の電流が生まれる。
子どもが放った輝きは、キラキラと光を放ちながら落ちていく。
そして電気の檻を突き抜け、留まっていたキノコの群れに達した。
音もなく雷が当たった一つが赤く弾け、隣のキノコを巻き込む。
炎が一気に加速して、鮮やかに燃え広がり――。
周囲の全てを巻き込む爆発と空気を震わす爆音が、魔女のすぐ真上で巻き起こった。
噴き出した真っ赤な炎が、黒い触手を残らず呑み込んでいく。
生じた凄まじい爆風に伏せていたユーリルたちが跳ね飛ばされ、丸太床の上を激しく転がった。
トールは再び剣を突き刺して、なんとかその場に体を留める。
激しい風が収まったあとに残っていたのは、触手の大半を失い焦げ縮んだ塊であった。
まだところどころがくすぶっており、白い煙が立ち昇っている。
集まったはずの泥土は蒸発したか、吹き飛ばされたかで跡形も残っていなかった。
耳鳴りが残る頭を振りながら、トールは眼前のモンスターから目を離さず床に手をつく。
わずかだが黒い触手は、その身を燃やしながらもかすかに蠢いていた。
身を守ってくれる安全な泥を探しているのか、触手は床の上を必死で這いずり回る。
そして黒い塊を吐き出したかと思うと、丸太を腐らせてその下へ次々と伸ばした体を差し入れた。
しかし待ち構えていたのは、一面に敷き詰められた固い石であった。
たった今、<復元>を終えたトールは、静かに息を吐きながら立ち上がる。
散逸した央国史によると、ここの監獄の周囲は当時は塀と石畳で覆われていたらしい。
その記録はすでに読み取り済みであった。
後は必要な時を見計らって、元に戻してみせるだけだ。
激しく燃えだした丸太床に囲まれ、魔女の残滓は死物狂いで暴れだす。
しかし石畳を腐らせることはできず、逃げ延びる先はどこにも見当たらない。
炎に巻かれた伝承の怪物が動かなくなるのを、トールはじっと最後まで眺めていた。




