歌い継がれる勲し その三
そのおぞましい顔は、はるか見上げた先にあった。
頭頂からは無数の泥の柱が突き出し、弧を描きながら髪のようにぶら下がっている。
目に当たる部分は空洞となっており、垂れ下がる泥の髪で半ば覆われてしまっていた。
その下には長く突き出した鼻と、パックリと裂け目のような開いた口。
泥でできた胴体は歪なほど前のめりに曲がっており、それを捻じくれた長い足が支えている。
腕も同様に細長く、膝下まで届きそうなほどである。
そして片方の手には、枯れ果てた大木が杖のように握られていた。
まるで子どもが遊びで作ったかのような不均衡な外見。
それが背を丸めた老婆、魔女を想起させたのだろうか。
巨大な異形はゆっくりと泥を掻き分けながら、丸太床へ向かって足を踏み出した。
同時にぎこちなく首が動き、奇妙な角度に傾く。
ばらりと垂れていた髪に隙間が生まれ、その奥から片方の黒い洞穴がハッキリと覗いた。
とたんに雷哮団の若者たちは、相次いで手にしていた槍を手放してしまった。
そのまま口元から泡を垂れ流しながら、全身を大きく震わせ始める。
彼らの紫の両眼は、黒々とした闇に塗りつぶされていた。
威迫の凶眼。
魔女に直接、見つめられたものは、恐怖のあまり正気を失ってしまう。
「撤退するぞ。急げ!!」
幸いにもまだ距離があったせいか、一部の人間は影響を免れることができたようだ。
ソルルガムの鋭い呼びかけに、副隊長は慌てた顔で立ち尽くす仲間に飛びついた。
他の冒険者も動けなくなった同僚に手を貸しながら、急いで後方へと逃げ出す。
その流れに逆らうように、前に進み出る人影があった。
人の波を優雅に躱しながら、その人物はそっとフードを脱ぎ捨てる。
長く伸びる耳と透けるような白い肌を露わにしたユーリルは、真っ向から凶眼の主を見据えた。
対して魔女も、さらに一歩踏み出す。
壊れかけの人形のように逆方向へゆっくり首が動き、その頭部が真横に近い角度まで傾いた。
泥の髪の隙間から、今度は二つの黒い洞穴が覗く。
おぞましい黒い視線は、独り舞台に残った灰耳族の女性に注がれた。
だが常人ならまたたく間に発狂するほどの恐怖を浴びながらも、ユーリルに変化は見られない。
小さく耳先を揺らした銀髪の美女は、いつもの穏やかな笑みを浮かべてみせた。
その髪を押さえる額冠には、青い宝石が静かに光を放っている。
蒼玉蟻の宝玉。
状態の異常を完全に防ぐその効能は、伝承の存在にも通用したようだ。
軽やかに杖を持ち上げたユーリルは、口ずさむように祈句を唱える。
「仇と咲き乱れよ――<霜華陣>」
次の瞬間、踏み出した魔女の足が巨大な氷柱に包まれた。
中枝スキルとはいえ、信じられぬほどの威力に見守っていた周囲がどよめく。
しかしそれでも、魔女をわずかに食い止める効果しかなかったようだ。
再び不安定に体を揺らしながら、その巨体は杖をついて前へと動き出す。
置き去りにされた足は、即座に伸びて生え変わった。
その足元に、間髪を容れずに氷の床が張られる。
あっさりと踏み潰されてしまったが、これも少しだけ時間を稼ぐことはできたようだ。
頷いたユーリルは、一歩下がりながら杖を掲げた。
息つく間もなく魔技が放たれ、凄まじい冷気が泥を間断なく凍らせていく。
巨大な異形に、たった一人立ち向かう魔技使い。
背景の黒い泥がその白銀をまとう姿をより際立たせ、鮮やか過ぎる対比を生み出す。
それはまるで物語の一部と言い切れるような光景だった。
「……………………う、美しい」
泥を塗りたくった蛇革の下に潜んでいたチルは、その眺めに深々と息を吐いた。
一見、直情的に思える言動が多い嵐峰同盟の盟主だが、中身はそう単純ではない。
チルの生家である常盤家は央国南西部の境界街に属する交易神殿と強い繋がりがあり、それなりの情報は放っておいても耳に入ってくるのだ。
ゆえに"白金の焔"の双子たちが聖遺物を使用できないことや、"灼炎の担い手"が本国からあれこれ無茶振りされている実情も把握していたりする。
それらをおくびに出すことなく、密かに勝機を狙うというのがチルの狩りのやり方であった。
そんな男が特別に興味を示したのは、探求神殿に属するユーリルである。
各街に必須とまで言われる探求神殿であるが、実のところ大瘴穴の封印にあまり積極的な姿勢を見せていない。
そのため聖遺物の情報なども、ほとんど明るみにされていない有り様だ。
これからの先、もっとも競合相手となりそうなのはトールたちであるとチルは考えていた。
その中で、唯一、封印に関われそうな存在があの灰耳族の女性だ。
その身辺を調べた結果、チルは情報の少なさに驚きの呻きを上げた。
まず彼女には過去がない。
あれほどの技能樹と美貌を有しながら、冒険者として活躍した過去が見当たらないのだ。
同名らしき人物の記録も有ったが、それは四十年以上前の物であった。
トールが躍進を始めた時期に、いきなり現れた氷系魔技の使い手。
興味を持つなというのも無理な話である。
そして直に会話して、チルの関心はさらにそそられることとなった。
あの若さながら落ち着いた物言いと考え方。
一歩引いた奥ゆかしさと、垣間見える気づかい。
さらに酒にも強い。
これまで出会ってきた女性とは全く違う様子に、チルは思わず当初の目的を忘れるところであった。
彼女をもっと見たい、知りたい。
それが今のチルの隠しきれぬ気持ちである。
「か、完璧だ。完璧すぎる強さと美しさとしか言いようがないな」
「……おい、そろそろだぞ」
「……気を引き締めろ、常盤家」
横からの野暮な声に、チルは大げさに顔をしかめた。
「たく、これだから深緑家の連中は。少しは空気くらい読め。ここから最高に盛り上がるってのに」
「……ならば余計、仕損じるわけにもいかないだろう」
「……我らの務めは重大だぞ」
もっともな正論に舌打ちを返しながら、チルは蛇革を押し退けて身を起こした。
ともに潜んでいたタパとタリも、合わせるように起き上がる。
彼らが居たのは狭い筏の上であった。
場所は魔女の左後方。
巨体が通り過ぎるのを、ここでじっと待ち構えていたのだ。
チルの指摘通り、丸太床では魔女と美女との一騎打ちが終わりを迎えようとしていた。
どれほど効果的な魔技を連発しようとも、人とネズミほどの体格差ではいかんともしがたい。
すでに魔女は丸太床のすぐ手前まで、その巨体を詰めていた。
果敢に立ち向かってきたユーリルを虚ろな空洞の眼で見下ろしながら、ゆっくりと巨木の杖を振り上げる。
まともに当たればちっぽけな人の体なぞ、血の染みと化してしまうだろう。
固唾を呑んで三人が見守る中、真っ黒な枯木は容赦なく振り下ろされた。




