押入れの同居人
この世界の中心部には底知れぬ空洞、"昏き大穴"があると言われる。
そこから湧き出す瘴気によって生ずるのが、滅世の神々の眷属である怪物どもだ。
瘴気で変容したその体は、生半可な攻撃なら弾き返してしまうほど堅い。
何度も同じ箇所を狙えば傷つけることは可能だが、時間が経てば回復し元通りになってしまう。
さらに厄介なことに、脳や心臓などの急所を破壊しなければ、その活動を止めることは叶わない。
普通の人間では、到底相手にならない存在だ。
しかし創世の神々は対抗する手段――武技や魔技と呼ばれる技能を人々に授けてくれていた。
これらを駆使することで、人は生活圏を確保しモンスターの脅威から身を守ってきた。
ただ、それらのスキルを使いこなすには、課せられた試練が存在した。
実は授かった状態のままでは段階が低いため、実戦ではさほど通用しないのだ。
技能樹は生まれたての魂に根を下ろすため、未熟な体では重荷になると考慮されたのであろうか。
なので人は自らの力で、授かったスキルのレベルを上げる必要があった。
文字通り、心の内の樹を育てなければいけないのだ。
やり方は分かりやすく、まずモンスターを倒す。
すると修練点というものが、魂に蓄積される。
ポイントを一定数貯めて技能樹に注ぎ込むことで、スキルを宿す枝が成長し強くなるという仕組みだ。
枝は地面に近いものほど有効性が低く、幹を上がるにつれ高くなる。
そしてある程度、下の枝を育てなければ、上の枝に辿り着けないようになっている。
下位の枝、下枝スキルは必要なポイント数が少ないため育てるのは容易ではあるが、それだけ効果や威力に大きな期待はできない。
冒険者なら、見習いのGランクや駆け出しのFランクが主な使用者である。
中段の中枝スキルは必要ポイントが増えるが、代わりに安定した強さをみせてくれる。
この辺りを使い始めるのは、有望株のEランクや一人前とされるDランクだ。
中堅どころのCランクになると、複数の枝を鍛える使い手も多い。
樹冠に近い上枝スキルとなると必殺という名が相応しくなり、使い手も数が絞られてくる。
達人と呼ばれるAランクや、巧者として知られるBランクたちである。
そして黙々と家路をたどる三十九歳のトールは、未だ一つの枝も育てきれていない最下級、Gランクの身であった。
理由は明白で、その役立たずと言われるスキルのせいである。
簡単に倒せないモンスターを相手にするためには、高い殺傷力を誇るスキルが必須となってくる。
もしくは、それを放つ仲間を補助できるスキルでも良い。
しかしトールの<復元>は、そのどちらにも当てはまらなかった。
限定的であるが壊れた武器や防具を直せるというのは、確かに便利で珍しい技能ではある。
けれどもそれだけのために、貴重なパーティ枠を潰そうと考える人間もまた希少であった。
残念な話ではあるが、モンスターを倒して得られるスキルポイントは頭割りされるのだ。
よってより少ない人数で倒すほうが、獲得できるポイントは多い。
武器や防具は壊れれば金で対処できるが、ポイントは金をいくら積んでも手に入らないという判断である。
人混みに溶け込んでいたトールだが、不意に足取りを緩め路地の一つに滑り込んだ。
大通りと違い、狭い小路までは魔石灯の明かりもさほど届かない。
静まり返る暗い道を、トールは音もなく進んでいく。
通りの喧騒からかなり遠ざかったところで足を止めたトールは、ずっと手に持っていた包みを地面においた。
狭い路地に血の臭いが立ち込め、同時に暗闇の奥から複数の気配が近付いてくる。
「ニャーオ」
「ニャオォォ」
それは爛々と目を光らせた猫たちであった。
虎縞と黒毛の二匹だ。
近寄ってきた猫は、トールの革靴に媚びるように体を擦り付けた。
右手の革手袋の先を口に咥え器用に引き抜いたトールは、屈み込んでそっと虎縞の背中を撫でる。
不思議なことにトールは、今までこの野良猫たちからノミをうつされたことはなかった。
お尻を持ち上げながら、虎縞の猫は嬉しそうに喉を鳴らす。
黒毛もまとわりついてきたので、左手の革手袋を今度は右手で脱がして差し出す。
トールの左手首には、白っぽく変色した大きな傷跡が残っていた。
ほとんど動かない指先を、ザラザラした舌で舐められる感触にトールは目を細めた。
しばし堅い毛皮の感触を楽しんだトールは、静かに立ち上がった。
挨拶を済ませた猫たちも交互に鼻先を骨の山に埋め、好き勝手に咥えては少し離れた位置でガリガリと齧り始める。
この路地裏の住人にトールが気づいたのは、数ヶ月ほど前のことだ。
たまたま前を通りかかった際に、奇妙な感覚に襲われたのがきっかけだった。
誰かに後ろから覗き込まれたような気がしてこの小路に入ってみると、腹を空かせた獣たちに取り囲まれたというのが始まりである。
それからちょくちょく余り物の骨や臓物をもらって、ここで野良猫どもに与えるのがトールの唯一の楽しみとなった。
元からすえた臭いが漂い、ゴミも散らかり放題な場所のせいか、近隣住民から苦情を言われたこともない。
元気な猫たちの様子に満足したトールは、背を向けて大通りへと歩き出した。
実はこの小路には二匹以外にも、暗がりに潜むもう一つの気配があった。
そいつはトールの前では、決して食事にありつこうとしないのだ。
今も路地の奥から、こちらを窺う青紫色の獣の目だけが光っていた。
この恥ずかしがり屋な三匹目をいつか撫でることが、トールのささやかな望みだった。
もっともそれも、廃棄する骨や内臓がもらえなくなった状況では難しくなってしまったが。
仕事帰りの一杯を我慢して、トールは食事処や酒場が並ぶ南大通りを足早に抜ける。
さらに一汗流す心地よさもこらえて、銭湯の暖簾を横目に素通りする。
木剣はへたれてきてるし、解体用ナイフもそろそろ研ぎに出す頃合いだ。
日給が大銅貨一枚にも届かないトールの稼ぎでは、すべて我慢するしかなかった。
街の外壁近くまでくると、ようやく通行人の数も減ってくる。
この辺りは壁に近いせいで日当たりが悪く、実入りの少ない駆け出し冒険者向けの安宿や借家が軒を連ねていた。
壁沿いの道を西へ進み、内街との間にある空堀が見えてくる頃、ようやくトールは下宿先の家にたどり着いた。
さほど広くない平屋で、トールの他に下宿人は居ない。
いや、正確にはもう一人いるのだが、その人物は借り手の数に入れられるような状態ではなかった。
冒険者局からやや離れた立地なせいか家賃が格安で、かつ温和で笑みを欠かさない大家の人柄もあり、トールはこの下宿先をたいへん重宝していた。
何よりも同居人に関して、うるさく問い詰められることがないのが最大の利点だった。
「おかえりなさい、トールさん」
獣脂のランプを手に出迎えてくれた大家のユーリルに、トールは小さく頭を下げながら玄関先で革手袋を外し靴の泥を落とす。
今年で六十歳を迎えるはずだが足腰はしっかりしており、背筋もまっすぐなため、とてもそんな年齢には見えない。
それなりの皺が刻まれてはいるが鼻筋は高く、若い頃はさぞ美人であっただろうと思わせる顔立ちだ。
白い髪は丁寧に結い上げてあり、北国人特有の長く尖った灰色の耳があらわになっている。
「お夕食、召し上がりますか?」
老婆の柔らかな問いかけに、トールは頷きながら引き取ってきた角モグラの肉を手渡す。
家賃の一部を、これで補っているのだ。
夕食はモグラ肉と丸芋を煮込んだ塩味のシチューであった。
堅いパンをひたして、ひたすら噛みしめる。
食べ飽きた味であったが、贅沢など言える立場ではない。
腹が満たされたトールは、頭を下げて礼を尽くすと自室へ戻った。
トールの部屋は、備え付けのベッドと縦長の衣装棚しかない。
もっとも着替えなどろくにないので、棚には他のモノが詰め込んであるが。
木剣ごと剣帯を外し、背負い袋とともにベッドの背板の端に引っ掛ける。
次にモグラ革の上衣を片手で器用に脱いだトールは、汚れをはたき落としてから堅くならないよう樺の油を塗り込んで壁に吊るす。
手袋と下衣と長靴も同じように手入れしておく。
部屋着姿になったトールは、ベッドにごろりと仰向けになった。
深々と息を吐く。
今日も昨日とほとんど同じような一日だった。
明日もそうだろう。
腹の底から真っ黒な感情が込み上げてきて、寝付きが悪くなる日も少なくない。
何もかも投げ捨てて遠くへ逃げたいと願ったことは、数え切れないほどある。
でも、そうしなかった。
明日もしないだろう。
必ずやり遂げると、覚悟を決めたからだ。
それと意地もあった。
ここまで来たのなら、とことんまで続けてやろうと。
改めてそう思いながら、トールは首にかけっぱなしだった冒険者札を手に取る。
見飽きた緑の縁取りが、黒い瞳に映し出された。
この冒険者の証は、持ち主が触れると所有スキルなどが浮かび上がる仕組みとなっている。
トールの場合<復元>の文字と、その横にレベルを示す光点が九個点いていた。
それと右下には、現在貯まっているスキルポイントが同じく光る点で表示される。
こちらの光点は、一つ千ポイントを示していた。
プレートは年二回のチェックがあり、その数値に大きな変化がないと、ランク降格になったり冒険者資格を剥奪されてしまう。
入街料の免除などの優遇があるので、仕方がないことであるが。
またそのチェックの回数は、上限が五十と定まっていた。
トールは十五歳の時にこのプレートを手に入れたため、二十五年目の今年の夏で期限切れとなる。
残された時間を思って、トールはまたも長々と息を吐いた。
そして、何気なしにスキルポイントの光点を数えだす。
「……七……八……九……十…………、お、溜まってるな」
それは今日、数字以外で初めてトールが口にした言葉だった。
しばらく自分の言葉を他人事のように聞き流していたトールであったが、不意にバネのようにベッドから跳ね起きた。
飛びつくように衣装棚に近寄り、取っ手を握った姿勢で深く息を吸ってから押し殺した声でつぶやく。
「随分と待たせちまったか。なあ、爺さん」
勢いよく開かれた扉の奥。
そこに立っていたのは、一人の少女であった。
大きく目をみはり、今にも叫び出すかのように口を開けている。
だが表情よりも真っ先に目を引くのは、その首元だ。
横一文字にパックリと傷が開き、溢れ出した血で真紅に彩られている。
それはまるで、今まさに死にゆく少女の彫像だった。