霧の奥
「なんで、……俺まで?」
飛竜の腹につけられた小舟の中で、ガルウドが以前にも聞いたことがあるような呟きを漏らす。
その肩へ、トールは何も言わず静かに手を置いた。
トールの膝の上に座っていたムーも、真似をしてガルウドの脇腹をペタペタと触っている。
子どもの柔らかな手の感触に愛娘のことでも思い出したのか、一瞬だけ目を細めた髭面の盾士は、深々と息を吐いて首を横に振った。
「まあ、仕方ねえか。ここまで来たら、とことん付き合ってやるぜ」
「じゃあ、飛ぶよぉ~」
真上からチタのゆったりとした声が響き、大きな飛翼が上下にはばたき始めた。
とたんに小舟の縁に掴まっていたソラとユーリルが、急いで首を伸ばし真下を覗き込む。
巻き上がる風とともに地上が離れていく景色に、女性たちは口々に弾んだ声を漏らした。
その様子を見たムーもジタバタともがくが、トールがしっかりと抱きしめると諦めてぐったりと力を抜いた。
実は出発前に飛竜の操縦席に乗りたいと、かなり駄々をこねられたのだ。
しかし今回はトールの側にいたほうがいいと、チタに言い切られて諦めた経緯があった。
少しだけむくれた顔の子どもは、首から下げた革袋の口を緩め、入れてあった松の実をぽりぽりとかじリ出す。
優しい笑みを浮かべたガルウドが、その頭を撫でてながらトールへ顔を向けた。
「それで、何がどうなったんだっけ? もう一度、噛み砕いて説明してくれるか」
「俺もちゃんと理解してると言い切れなくてな。ユーリルさん、お願いできますか?」
「はーい、お任せください」
機嫌よく戻ってきたユーリルの長い耳先が、楽しげに揺れている。
相変わらず、飛竜艇がお気に入りのようだ。
トールたちの表情に気付いたのか、元教職の女性は小さく咳払いしてからおもむろに口を開いた。
「まず大前提として、ある事実を知っておく必要があります。基本的には、神殿から高位の階を与えられた冒険者だけにしか明かされない事柄なのですが――」
「おいおい、それ俺が聞いてもいいのか?」
「ま、ここだけの話だ。それに空の上とはいえ、Cランクで沼に入った時点で同じだろうしな」
「だから、無理やり乗せやがったのか」
「はい、では授業に戻りますよ。英傑として認められる条件をご存知ですか?」
境界街では子どもでも簡単に答えられる質問に、ガルウドは大袈裟に肩をすくめる。
「引っ掛けとかじゃなければ、瘴地の奥にある固定ダンジョンの主を倒すことだな」
「はい、正解です。ですが、実は倒した先でさらにやるべきことがあります。通常の発生型のダンジョンでしたら、迷宮主を倒せば瘴穴は閉じてしまいますね」
「そりゃそうだ。…………もしかして大瘴穴は、そのままなのか?」
「はい、そのままです」
何気ないユーリルの返しに、ガルウドは口をわずかに開いた状態で動きを止めてしまう。
なので、いつのまにかトールの隣で聞き耳を立てていたソラが、話を引き継ぐように質問した。
「じゃあ、これまでどうしてたんです?」
「はい、そこで穴を塞ぐためにある物が必要となります。それが聖遺物と呼ばれる器物です」
精霊を統べる神々が地上に残した痕跡であり、力の断片たち。
それが聖遺物と呼ばれる存在らしい。
「大瘴穴に近づく可能性がある冒険者は、密かにこの聖遺物を手渡され、使い方を教授されます」
「まったくの初耳だな。なんで、おおっぴらにしないんだ?」
「普通の器物とは違い、聖遺物は人の様々な感情や記憶などを糧にして成長します。それで……」
「欲望を吸っちゃうとか言ってましたね、火の神様のは」
「なるほど、それはあまり言いたくないだろうな」
「他にも大きな理由がありますよ」
大瘴穴を封印するために使用された聖遺物は、その力の大半を失ってしまう。
そのため年単位で神殿に安置され、また神力を蓄えていく必要がある。
そして当然ながら、使われなかった他の神殿の聖遺物は次へと持ち越されることとなる。
つまり各々の神殿ごとに、聖遺物の状態は変わってくるということだ。
「大瘴穴の封印に関わることですから、どの神殿も聖遺物のことはできるだけ内緒にしたいんです」
実は大瘴穴の規模や聖遺物の状態によっては、一つだけで塞ぎきれない場合もあるらしい。
必ずしも先に使うのが有利ではないということで、駆け引きや探り合いが生まれるとのことだ。
「何ともややこしい話だな。ふむ、取った駒を隠しておくようなもんか。で、解放神殿のが、こないだのボッサリアの蟻の巣の時に使われちまって、王駒の周りが空いたってことだな。それで今は、どの駒で王手をかけるか揉めているってとこか」
「おい、余計に分かり辛いぞ」
「それですが、おそらく時間稼ぎをしているのかもしれませんね。本国の大神殿から、新しい聖遺物がもたらされる場合もありますから」
「へー、本国にもあるんですか?」
「ええ、境界街の神殿が有しているのは、あくまでも大神殿が所有する本尊の分け身に過ぎませんから」
「そうなんですねー。勉強になりました、ユーリル先生」
昨夜とはうって変わって博識なユーリルに、ソラが感嘆した声を上げる。
トールの視線に気付いたのか、灰耳族の美女は困ったような顔でその理由を述べた。
「おそらくですが、チルさんが私に興味を示す素振りを見せたのも、聖遺物の所持を確かめたかったのでしょうね」
「えっ、そうだったんですか?」
「ふふ、こんな年寄りに求婚なんて、普通はしませんよ」
「…………灰耳族は歳が分かりにくいって聞くが、本当だったんだな」
呆れたように呟いたガルウドだが、ふと思いついたようにトールへ視線をよこす。
「そういえば時神と空神だっけ。央国人の神様の神殿って聞いたことがないな。となると、聖遺物も?」
「ああ、持ってないな」
「それじゃ、連中が必死になってお前らを欲しがるのも無理はねぇ話だな」
聖遺物とは無関係な二人に、影響力の乏しい神殿の魔技使いと、年端のいかない子ども。
戦力に加えるには、申し分なしと思われても仕方がない。
顎の下を掻きながら、トールは一つだけ空神の社があった場所を思い返していた。
それからようやく、太ももに伝わる振動に気づく。
「どうした? ムー」
気がつくと膝の上の子どもは、トールの胸に顔を埋めながら背を震わせていた。
ソラも不審な様子に気づいて、慌てて声をかける。
「ムーちゃん、だいじょうぶ!? 気分悪いの?」
ふるふると首を振った子どもは、恐る恐るといった風に指を持ち上げて前方を指差す。
「あっちから……、すごくイヤな……、かんじがするぞ、トーちゃん」
「見えてきたよぉ~」
ちょうどタイミングを見計らったように、頭上からチタの声が降ってくる。
それらの言葉にトールは船舷から顔を出して、眼下の景色を確認した。
黒一面に広がる沼地の上に、ぽつんと吹き出たように青い塊が見える。
雷哮団の野営地だ。
そこから血管のようにくねる細い道が、新たな野営地へと伸びていく。
旗がひるがえる"灼炎の担い手"の野営地から、嵐峰同盟の野営地へ。
そして、その先の終着点である奇妙な建造物。
泥の中から顔を出す、四角錐の石造り。
あれが廃棄された地下監獄の出入り口だろう。
「……………………なんだ?」
さらにその向こうへ視線を向けたトールは、我知らず声を漏らしていた。
地下監獄の周辺には、泥毒の巨人たちが点々と佇んでいる。
それらの奥に、異様な大きさの影を見つけたのだ。
背丈は優に、手前の巨人の三倍はあるだろう。
目を引くのは、大きさだけではない。
その頭部は長く突き出した無数の泥に覆われて、まるで毛髪のようだ。
腰を折り曲げているせいで、髪の一部は地上へと届いてしまっている。
さらにその奇妙なほど細い手には、異様に長い埋もれ木の棍棒が握りしめられていた。
それはまるでざんばら髪を引きずりながら、杖をつく老婆そのものであった。
不意にその頭部が上下し、口にあたる部分から白い吐息のようなものが漏れ出す。
見覚えのある白い息の正体を、トールは即座に理解した。
――あの怪物が瘴霧を作り出しているのだ。
唖然として言葉を失うトールの膝の上では、生温かく濡れる感触が広がっていった。




