薬房の怪談
「こんな遅くまで、精が出るな」
トールの呼びかけに剣を素振りしていた男、ラッゼルは一瞬だけ視線を向けた。
だが返事はせず、再び大剣を持ち上げる。
空気を断つ鋭い音が響き、泥に当たる寸前で剣尖がピタリと止まった。
そのまま行き先を変え、一瞬で斜め上に跳ね上がる。
不安定な泥の足場であるが、剣の軌跡に少しの乱れもない。
相当に鍛え抜いたのだろう。
最後に大きく踏み込む突きを見せたラッゼルは、呼気を整えながら大剣を鞘に収める。
そして顔をあげると、まっすぐにトールを見据えた。
まだ息は荒く、その額には大粒の汗が浮かんでいる。
しばし見つめ合ったあと、ラッゼルはようやく口を開いた。
「…………あんたに負けた後、さんざんいろいろ言われたよ」
「そうか」
「だが戦った俺が一番よく分かっている。あんたの剣は本物だった」
それだけ言い放つと、ラッゼルは再び剣の柄に手をかけ、まったく同じ型を繰り返し始める。
曇天を抜けてきた月明かりに照らされながら、白銀の刃が靄を鮮やかに切り裂いた。
そこで小用を済ませたムーが、寝ぼけまなこで便所から出てくる。
子どもが両手を伸ばしてきたので、優しく抱き上げたトールは階段へと向かった。
その背中に、剣を振る音とともに、ボソリと呟きが投げかけられる。
「今はまだ届かないが、次はきっと勝ってみせる」
その声に振り向いたトールは、顎の下を掻きながら言葉を返した。
「俺にそうこだわる必要はないだろ。それに挑む相手なら――」
トールが顎で指した先、靄の奥に立ち尽くす巨人の姿に、ラッゼルは手を止めると静かに首を横に振った。
「……あれは戦いたくても、戦えないからな」
「人手不足という話だったな」
その言葉に対し、褐色の肌の剣士はまたもわずかに首を横に振る。
「違うのか?」
問い掛けに返事はなく、話は終わったとばかりにラッゼルは素振りを再開しだす。
少しだけ続きを待ってみたが、腕の中のムーが身震いしたため、断念したトールは天幕へ引き上げた。
翌日は、通路の蜘蛛狩りに同行することになった。
さっそく蜘蛛の生皮を長靴に巻き付けたトールたちも、モンスターと戦闘を行う。
糸に足を取られることはなくなったが、やはり穴の奥から蜘蛛が出てこない。
仕方がないので自ら穴に飛び込んだトールは、蜘蛛を切り裂いた結果を残して、飛び込んだ行為だけを<遡行>した。
結局、糸腺どころか、討伐証明部位の右上顎の回収さえできずに、その日は終わった。
ちなみに青縞大蛇と沼地蜘蛛は、ともにスキルポイントは五十で討伐料は大銅貨五枚となる。
ホブゴブリンや赤毒蛙のちょうど十倍である。
大蛇の皮と蜘蛛の糸腺の買い取りは、それぞれ銀貨三枚で、肉も同じくそれぞれ銀貨一枚だ。
ただし保管しておくスペースがないうえに、持ち運ぶ手間も馬鹿にならないため、肉に関してはほとんどが捨てられてしまうらしい。
四日目は午後から瘴霧が出るとのことで、天幕の上に赤い旗が立てられていた。
トールたちは引き上げの予定だったので、礼を述べて朝食後に野営地を後にする。
ラッゼルとの問答はトールの心に引っかかっていたが、そのことについてはあえてバルッコニアには尋ねなかった。
巨人討伐をそうそうできない理由が他にあるとしても、そう簡単に明かすとは思えなかったからだ。
よく喋る人間ほど、上辺の言葉で本心を隠すのが上手いものだ。
予定通り迎えに来たガルウドの馬車に乗り込んで、トールたちは帰路へとついた。
道中で一泊し、翌日に街へと戻る。
その足で、トールたちはガルウドを伴って内街へと向かった。
行き先は探求神殿の薬房である。
「お、久しぶりだね、ユーリル」
「お変わりないようですね、オードル」
出迎えてくれたのは、白衣を重ね着にした薬合師オーリンドールだ。
年齢不詳の見た目も相変わらずだが、人当たりも相変わらずのようだ。
ボッサリア奪還のお祭り騒ぎの後でも、親友に対する態度はみじんも変わっていない。
短く髪を切り揃えた灰耳族の美女は、ちょうど先客の問診を終えたところであった。
椅子に腰掛けていた幼い少女、ルデルが振り向き目を輝かせる。
茶角族と蒼鱗族の間に生まれたため、長らく混交の病に苦しんできた少女だが、先日のとある出来事で手に入れた薬によって症状は大きく改善されたようだ。
まだ少し身体は弱いので、たまにオードルに診てもらってはいるようだが、ほとんど完治したとの話だった。
ルデルは懸命に椅子から降りると、急いで駆け出す。
といっても足が遅いのか、なかなか前に進まないようだが。
「ほら、父さんが帰ってきたぞ、ルデル」
その様子を人が変わったように髭面をだらしなく緩めて、父親のガルウドが両手を広げて待ち構える。
しかし娘はその腕をあっさりと無視して横を通り抜けると、ムーの前でピタリと止まった。
「ルー! げんきしてたか?」
元気な問い掛けにニッコリと口元を綻ばせたルデルは、手を伸ばしてムーの頭をペタペタと撫でた。
そして顔を寄せると、ムーの頬に挨拶代わりに唇をくっつける。
お返しにムーもルデルの頬にキスを返すと、子どもたちは楽しそうに笑いあった。
ムーの手を引っ張って歩き出したルデルは、娘に無視されて固まっていたガルウドの側までいくと、髭まみれの頬に軽く唇を寄せる。
次いでオードルの近くまで戻って、頭を下げるよう手招きをした。
ちょうどいい位置まで下がった薬合師の頬に、ルデルとムーが左右からチュッとキスをする。
お礼を済ませた幼い少女は、トールたちへ頭を下げると、扉を開けて外へ出ていく。
当然、手を握りあったままのムーも一緒だ。
そのまま二人は、学び舎へ仲良く走り出した。
「じゃあ、先生、またよろしくお願いします」
「はい、お任せくださいね」
気を取り直したガルウドは一転して真面目な顔に戻ると、オードルに挨拶をして同じく薬房を後にした。
今度は新妻であるサラリサが所属するベッティーナのパーティを迎えに、破れ風の荒野へ行かねばならないらしい。
慌ただしい保護者の背中を見送った薬房の主は、優雅に足を組み替えながら親友へ問い掛けた。
「で、今日はどんな用だい?」
「これを使って、魔力回復薬を作ってほしいのよ」
ユーリルが差し出した革袋の中身を覗き込んだオードルは、鼻を動かしてたちどころに正体を突き止めてみせる。
「銀浮花の蜜水か。沼の住み心地はどう?」
「涼しいのだけは評価できるわ」
「もう、泥まみれでたいへんですよー」
「妖かし沼といえば、魔女にはもう会えたかい?」
「それって、子ども向けのおとぎ話じゃ?」
ソラのもっともな疑問に、オードルは薄く笑みを浮かべた。
「この辺りの伝承を調べてみたことがあったんだけど、どうもかなり昔から伝わっているみたいでね。しかし、なぜか主だった逸話はないんだよ。霧に紛れて人をさらいにくるといった漠然とした形でしか残ってないんだ」
「へー、そうなんですか」
「こういった集合的記憶は、元となった要素なりを意外と明確に語り継いでいく傾向があるんだよ。集団は共通する互いの記憶を強化する傾向があるからね。だがそれにしては、どうにも出自が曖昧でね」
「じゃあ人をさらう魔女さんなんて、実は居なかったってことですか?」
「うん、その可能性もあるね。元話はやらかした同業者が沼に逃げ込んだくらいに思ってたんだが、もしかしたら違う事柄が何らかの要因で形を変えた例。いや、変えざるを得なかったのかもしれないね」
「うう、本当に怖い話っぽいですよー」
手を伸ばした少女は、隣に立つトールの服の袖をギュッと握った。
その様子に片方の目をつむってみせたオードルは、机の上にあった包みをトールへ差し出してくる。
「はい、怖がらせたお詫び。よかったら使って」
「これは?」
「体力回復薬だよ。薬材の提供は、くるくる巻きの赤毛の子」
どうやらベッティーナからの差し入れのようだ。
感謝しながら受け取ったトールは、大事な点を尋ねる。
「他に何か言ってませんでしたか?」
「ああ、伝言もあったよ。あと二週間ほどだから、首を洗って待ってなさいだってさ」




