手荒い歓迎
黒い泥に紛れて、いつの間にか何かが足に絡みついていた。
急激に沼の中へ引きずり込まれる感触に、トールは一瞬で剣を抜き放ち、泥の中に突き立てる。
だが伝わってきたのは、綿を叩いたような手応えだった。
次いですぐ側の沼地に、大きなくぼみが唐突に生じる。
凄まじい力で引っ張られたトールの体は、瞬時にその穴へと運ばれた。
穴の底で待ち構えていたのは、鎌のように伸びる数本の突起だった。
体勢を立て直す間もなく、トールの下半身はあっさりと突起に咥え込まれる。
太ももを刺し貫かれる痛みは、<苦痛緩和>の効果をあっさりと超えた。
だが、トールは冷静に穴の奥を見つめながら、自分を喰らおうとするものの正体を探る。
革長靴に巻き付いていたのは、束ねられた白い何かであった。
白硬銅の刃でも切り裂けなかったが、その正体はどうやら糸のようだ。
足に絡みついた糸の先は、トールに噛み付いた突起の奥へとまっすぐに続いている。
そして泥に紛れているが、四本の突起の上部に数個の眼球らしきものが窺える。
無機質なその眼差しを受け止めながら、トールは魔技を発動させた。
――<遡行>。
沼に引きずり込まれた結果を消し去る。
何事もなかったかのように細い道の上に立つトールの姿に、離れて立っていたソラたちが安心したように息を吐いた。
「だいじょうぶ、トールちゃん!?」
「道に入るなよ。糸が張ってあるぞ」
警告を発しながら、トールは腰に差してあった剣鉈を一動作で抜き去り足元を斬りつける。
さすがは腐屍竜の牙から作られただけのことはあり、今度はあっさりと何かを切断した手応えが伝わってきた。
「糸ということは……」
「はい、どうやら悪名高い沼地蜘蛛ですね」
ユーリルの疑問に答えながら、トールは油断なく剣鉈を構え直した。
現在、一行は二つ目の野営地へ向かっている途中であった。
埋れ木の短い杭が目印に立てられているので、そうそう道に迷うことはない。
が、沼の奥に進むにつれて、安全な経路の確保は難しくなったようだ。
雷哮団の野営地近くを通り過ぎて、およそ五分。
ムーの<電探>に、モンスターの反応が引っ掛かったというわけである。
そして青縞大蛇かと思ってトールが確認しようと近付いたところ、いきなり沼に引っ張り込まれる事態が発生したいう次第だ。
「そこから穴の奥は見えますか?」
「いえ、無理ですね」
「なんとか引っ張り出すしかないか。ムー、いつものだ」
「らいらー」
モンスターが視認できないと、ソラの<反転>や<固定>、ユーリルの<冷睡>系や<凍晶>系の発動は不可能だ。
<氷床>も肝心のモンスターが潜む穴の底に使わないと意味はないが、同じく見えない場所には使用できない。
<電棘>と<雷針>の効果を得たトールは、軽く息を整えて沼の中へ足を踏み入れた。
三歩ほど進むと、いきなり太ももの半ばまで泥に埋まる。
同時に目の前に音もなく、何かが飛び出してきた。
それは太い虫の足だった。
丸太ほどの大きさがあり、黒い泥をまといながら、トールの体へと迫る。
しかし衝突する前に、花が咲いたように先端がバラバラに裂けて体液が一時に噴き出す。
ソラの<反転>により、急激に戻された負荷に耐えきれなかったようだ。
泥をかき分けて横に移動したトールに、背後から新たな足が襲いかかる。
今度は破裂することはなかったが、空中で急停止したところを、黒い刃に両断された。
さらに誘い出そうとして移動したトールだが、次の瞬間、またも穴の奥へと引きずり込まれる。
白い糸が巻き付いた長靴からは、パリパリと紫電が生じていた。
当たり前だが、沼の中にも糸が張ってあったらしい。
再びその結果を打ち消して、元の位置へと戻るトール。
深みに入ると動けなくなるので、浅い場所を動き回って飛び出してくる足をさばいていく。
数回、足の先端を斬り落としたが、再生されてしまい埒が明かない。
三度目の沼底へと招待に、トールはやり方を変えることした。
――<遡行>。
ただし打ち消したのは引きずり込まれた結果ではなく、噛みつかれたほうだ。
無傷のまま至近距離で大蜘蛛と対峙したトールは、剣鉈を一気に振るった。
モンスターの眼球や顎を、残らず的確に斬り飛ばす。
最後に頭部を叩き割られた蜘蛛は、ぐったりとその身を泥の奥へ沈めた。
同時にトールの体も、泥沼の底へと沈み込んでいく。
蜘蛛が作っていた穴が崩れ、真上からも黒い塊がいっせいに流れ込んできた。
黒雲に覆われた空が狭まっていく景色を見上げながら、トールの目はギリギリ十一秒前の行為を拾い上げる。
――<遡行>。
今度は引きずり込まれた結果を消し去る。
太ももまで沼に浸かった状態に戻ったトールは、深々と息を吐いた。
埋まってしまった穴の底から蜘蛛の体を回収するのは、さすがに無理ということは分かる。
せめてもの証に漂っていたモンスターの足の一部を拾い上げたトールは、泥を押しのけながら岸へ向けて歩き出した。
使用した魔技は<遡行>が五回に、<反転>が三回と<固定>が二回。
一匹相手にしては使いすぎなうえに、獲物の回収もできてない。
無傷ではあったが、いい結果とは呼べない有り様だ。
「お疲れ様でした、トールさん」
「おお、トールちゃん、これすごいね!」
蜘蛛の足の先っぽを受け取ったソラが、はしゃいだ声を上げる。
泥の中で動きやすいためなのか、モンスターの足には短い毛がびっしりと生えていた。
チクチクとした感触を楽しむ少女を見て、近寄ってきたムーもペタペタと触りだす。
そして泥まみれのトールを見上げて、あっさりと言い放った。
「トーチャンのすねげとごかくだな!」
「そうなんですか?」
「いや、さすがに俺のほうが薄いですよ」
「寝てる間にこっそり触ってるわたしが断言するよ。これは……、気持ちよさならトールちゃんの圧勝だね!」
「トーちゃんのかちかー」
「全く嬉しくない勝利だな。って、それどうするんだ?」
嬉々として革袋に足を仕舞う少女へ、トールは呆れた声で尋ねる。
「それはもちろん、食べられるかなーって」
「毛まみれだぞ。大丈夫か?」
「ええ、淡白な味で意外と美味しいですよ」
いきなり問い掛けに答えたのは、小道の先にいつの間にか立っていた男だった。
黒いローブを纏ったその姿の背後には、数人の鎧姿の男どもが佇んでいる。
「お迎えに上がりましたよ、トールさん」
にこやかに笑みを浮かべていたのは、"灼炎の担い手"の隊長バルッコニアであった。




