白い脅威
野営地、三日目の朝。
慣れない肌寒さに、トールはゆっくりとまぶたを持ち上げた。
天幕の中はまだ薄暗い。
どうやら夜明け前の冷え込みのようだ。
意識を覚醒させながら、トールは右半身だけが異様に温かいことに気づいた。
心地よい重みに視線を向けると、金色の柔らかそうな巻き毛が目に飛び込んでくる。
ちょうど脇の部分を枕にしたムーは、健やかな寝息を漏らしていた。
その横では下衣姿のソラが、ピッタリとトールの右腕を抱きしめて眠っている。
普段の元気な姿とは裏腹な大人しい少女の寝顔を眺めていると、小さく身を震わせてしっかりと抱きついてきた。
柔らかでしっとりとした感触に、二の腕が包まれる。
トールの右肩に鼻先を擦り寄せたソラは、その匂いに安堵したのか小さく口元を緩ませた。
右側だけ温かい理由は判明したが、そこで新たな疑問が湧き上がる。
高台部分はそこそこに広いとはいえ、張れる天幕の数には限りがある。
しかも利用しているのは、団長のソルルガムを始め大柄な若者たちばかりときた。
そのため成人男性一人に小柄な女性二人と子どもという組み合わせのトールたちは、天幕を一つしか貸し与えてもらえなかったのだ。
つまりこの天幕にはもう一人、休息中のはずである。
だが左側から伝わってくるのは、ひんやりとした気配だけだ。
もう起きてしまったのかと思いつつ顔を向けると、そこにあったのはユーリルの寝姿であった。
こちらへ背を向けているが、夜着越しでもそのくびれのある体つきがハッキリと見て取れる。
ソラやムーと違い、その体温はほとんど感じ取れない。
左腕に接する絹布製の下衣からも、すべすべした手触りが伝わってくるだけだ。
冷気の原因はこのせいかと思いつつ、トールはその後姿をそっと見つめた。
細く真っ直ぐな銀色の髪は、今にもこぼれ落ちて床に広がりそうだ。
その髪の向こうから突き出す長い耳。
普段はあまり見る機会のない灰色の裏側を眺めていると、尖った耳先がピクリと動いた。
そのままユーリルは、くるりと寝返りをうつ。
顔の下敷きになっていた反対側の耳が、すかさず立ち上がった。
同時に整った美貌がすぐ間近になる。
伏せられた瞳から伸びるまつげの長さにトールが見入っていると、そのまぶたが数度震えたあと、いきなり持ち上がった。
現れた灰色の瞳孔が、急速に焦点を絞っていく。
まじまじと近距離で見つめ合った二人だが、困ったような表情を浮かべたユーリルが囁いてきた。
「人の寝顔を黙って眺めているなんて……」
小さく耳先を揺らす銀髪の美女の言葉に、トールは見とれたまま謝罪と言い訳を口にした。
「……すみません。ユーリルさんの寝顔が珍しかったもので」
「もう、駄目ですよ。それは私の特権です」
以前であれば男女の同衾には口うるさかったユーリルだが、ここ数ヶ月の冒険者生活でその辺りはだいぶ大目に見てくれるようになった。
天幕暮らしが増えて譲歩せざるを得ない面もあるようだが、今の柔らかな言葉からして、もしかしたらすでに家族として認めてくれていたのかもしれない。
静かに視線を合わせていた二人だが、不意にソラがぶるぶると体を震わせ大きくあくびをする。
そしてトールにしがみついたまま、寝ぼけた声を発した。
「なんか、背中がスースーするよー」
「やっぱり寒いか」
「そうですね。だから今朝は心地よくて、つい寝過ごしてしまったようです」
再び顔を見合わせたトールとユーリルは、起き上がって天幕の出入り口の布を持ち上げた。
とたんに冷えた空気が流れ込んでくる。
二人は構わず、視線をその先へと向けた。
だがそこに広がるはずの黒い陰鬱な風景は、まったく視界に映らない。
代わりにあったのは、どこまでも白い靄に覆われた景色だった。
急いで身支度を整えたトールたちは、天幕の外へ出る。
ムーはよく眠っていたので、お腹だけ冷やさないよう猪の毛皮をかけておいた。
三人は高台の端に立って、眼下に広がる霧を眺める。
「うわー、真っ白。なーんも見えないね」
「これは凄いな……」
「ええ、見事ですね」
どうやら霧は、地面の上に留まっているようだ。
高台の部分まで届かず、おかげで遠くまで見通すことができる。
相変わらず空は曇り模様だが、それでも朝の光は一面に降り注いでいる。
白い霧がかすかに輝きながら、広大な沼を覆い尽くす幻想的な光景を、トールたちは息を呑んで眺め続けた。
「ね、トールちゃん。雲を上から見たら、こんな感じかな?」
「ああ、かもしれんな」
どこまでもたなびく霧の姿を堪能していると、いきなり背後の天幕の布がぼこりと膨らんだ。
同時に幼い声が響いてくる。
「むぅぅぅ! トーちゃん、どこだー」
「お、起きたか」
天幕に戻ると、ムーが飛びついてきた。
トールの腹筋に頭をゴリゴリ押し付けながら、怒りの言葉を口にする。
「もう、どこいってたの? ムーをおいてっちゃだめでしょ!」
「心配するな。今日は霧だから、どこにも行けそうにないぞ」
「えー、なんで? やだ!」
この沼特有の自然現象である瘴霧。
三日に一度のペースくらいで発生するようだが、これが出ると外出禁止である。
冷えた堅いパンと温めた香草茶だけの朝食を済ませたトールは、さっそくその霧の効果を確認することにした。
すでに起きていた雷哮団の団員たちは、テキパキと何かの準備している。
「お早うございます! よく眠れましたか?」
「おはよう。寒くて目が覚めたよ」
「それは沼地あるあるですね!」
近づくと、副隊長の女性が朗らかに挨拶してきた。
昨日の狩りで、かなり打ち解けられたようだ。
代わりに他の若者たちが、ソラとユーリルの登場に緊張した面持ちになる。
ざっと見たところ、霧に慣れる訓練を始めていたらしい。
階段の前に立った一人が縄を持ち、もう一人がその縄を腰に縛った状態で霧の中へ下りていく。
砂時計で時間を計っていた副隊長が合図すると、縄が引っ張られ、団員たちが階段を上ってくる。
わずかな間に死人のような顔色になった若者らの姿に、ソラが目を丸くした。
さっそくトールたちも体験させてもらう。
階段を数歩下りた時点で、蝕むような冷気が襲ってきた。
じっとりとした空気が肺の中に入り込み、胸を締めつけ呼吸がしづらくなる。
縄の合図に戻ろうとしたトールは階段に足をかけようとして、力が抜けているように思わず眉を持ち上げた。
気が付かない間に、体力がかなり失われていたようだ。
ソラとユーリルも体験して、同じように驚いていた。
ソルルガムが難色を示したが、ムーも元気よく階段を下りていき、数秒で飽きて合図を待たずに戻ってきた。
「この霧、怖いねー。いつの間にか力が抜けててびっくりしたよ」
「ええ、それに魔力もずいぶんと失われてますね」
「なるほど。高台じゃなければ、夜のうちに気付かず衰弱死する可能性もあるのか」
霧は短い時は三十分ほどで消えるが、長い時は半日近く居座ることもあるらしい。
耐久訓練では十分ほどで若者たちは、ぐったりとしていた。
ソルルガムは三十分でも平然としていたが。
やることがないので、トールはぶらぶらと高台を歩き回る。
昨日の戦果である大蛇だが、皮だけ剥がされて手すりに綺麗に並べられていた。
これの他に牙を矢尻に使ったりもするらしい。
見ていると、蛇の皮は腹の部分だけ銀色の鱗に包まれていた。
それと尻尾の部分も銀と青の縞模様を描いている。
青縞の意味がようやく分かったトールは、無言で頷いた。
この体長が大人三人分以上はありそうなモンスターだが、そのままだと重すぎて何頭も運ぶことができない。
なので現地で皮だけ剥いて、運んできたのだ。
しかし思うところがあったのか、ユーリルらの希望で肉の塊を切り取って持ち帰っていた。
そのままではかなり臭みがあるらしいので、今は香草を巻いて熟成中だ。
結局、瘴霧は昼を過ぎても晴れず、退屈な一日となった。
ムーはトールの膝を独占して、かなりご機嫌に過ごしていたが。
ソラやユーリルもいろいろと学ぶことがあったらしく、副隊長と長々と話し込んでいた。
夕食は蛇肉の香草ソテーだった。
発熱盤でじっくり焼いたらしく、噛むとしっとりとした肉汁が溢れてくる。
見た目は鳥に近いようだが魚の白身のように淡白で、食べているうちに旨味が少しずつ増えていくような奇妙な食感だ。
手間を考えると、その場で捨てられてしまうのも、なんとなく分かる味である。
しかしパサパサの鶏肉煮込みよりは、数十倍マシであることは確かだ。
歓声を上げた若者たちは、ユーリルとソラの手料理に夢中でかぶりつく。
ムーは無言でひたすら噛むことだけに集中するモードに入っていた。
よほど雷哮団の伝統食には懲りたのだろう。
ソルルガムだけが、始終苦い顔で蛇肉を口に運んでいた。
ほとんど収穫のないまま、沼の三日目は終わりを告げた。