紫眼族(地図あり)
「ただいま、戻りました」
「ただいまー」
「おかえりなさい。トールさん、ソラさん」
「ただいま?」
「あら、こんばんは。可愛らしいお客様たちね」
トールが抱きかかえる悪臭を放つ存在を見て、大家のユーリルは眉をひそめることなく笑みを浮かべた。
伊達に何十年も齢を重ねてない落ち着きっぷりである。
ついてきた猫たちは、招待を受ける前に玄関からスルッと入り込み、匂いを嗅ぎながら探索を始めてしまった。
「すみません、ちょっと懐かれてしまいまして。しばらく預かってもいいでしょうか?」
「はい、どうぞ。そうですね、お湯を沸かしてきましょうか?」
「助かります」
「トーちゃん、ごはんはどこだ?」
「先にお前を洗ってからだ。ソラも手伝ってくれ」
「はーい」
まずは浮浪者の子どもを、台所の排水口のそばに連れていく。
次に体に巻きついている元布らしき代物を剥ぎ取り、素っ裸にする。
「……ついてないか」
「なんでぬがす? やっぱりムーを食べるのか?」
「キレイキレイしようね、ムーちゃん」
ユーリルがたらいにぬるま湯を入れて持ってきてくれたので、洗濯に使う獣脂石鹸を溶かしボロ布をひたす。
あとは三人がかりで、ひたすら擦るだけである。
「あ、トールちゃん、この子の汚れ、<復元>で落とせないかな?」
「さっき見たが、経歴が浮かんでこなかったな。今までモンスターと関わったことはないようだぞ」
「そっかー、じゃあがんばりますか!」
少女の体はホコリと泥が混じった層がまだら模様を描いており、そう簡単には綺麗にならない。
真っ黒になったお湯を捨てては、また丁寧に撫でこするの繰り返しである。
ムーと名乗った子どもは最初は物珍しそうにキョロキョロしていたが、温かい布で拭いてもらうのが気持ちいいと気づいたらしく、途中で目をつむってジッとしだした。
おとなしくなったので、そのまま枯れ葉や砂が混じる髪も洗ってやる。
どうやら同居していた猫と同じで、ノミの類はいないようだ。
ある程度、汚れが落ちたら、今度は三人で入浴用の海藻石鹸で揉み洗いする。
全身を泡立てられた子どもは、あまり表情を変えないままクスクスと笑い声を上げていた。
三十分後、頑張ったかいがあり、子どもは見違えるように綺麗になった。
身長はトールのみぞおちほどなので、五歳以上十歳未満といったところか。
路地裏生活の割にさほど痩せてはおらず、ほどよく肉がついた体つきをしている。
おそらくここ数ヶ月、トールがせっせと肉や骨を与え続けた成果だろう。
それと身体のあちこちに、古い擦り傷のようなものが残っていた。
石鹸の香りを漂わせる洗いたての髪は、色と柔らかさを取り戻し金色に輝きながらくるくると渦を描く。
広いおでこにちょっぴり低い鼻、可愛らしい口元。
そして何より目を引くのは、その大きな紫色の瞳であった。
元気になってピンと上を向くまつげと相まって、人形のような愛らしさに仕上がっている。
もっとも先ほどから表情がほとんど動かないので、ジッとしていると本当に人形だと勘違いされそうであるが。
「すみれ色のかわいいお目々だね、ムーちゃん」
「ああ、これは紫眼族の特徴だな」
「しがんぞく?」
「見てろよ」
トールがランプを近づけたとたん、子どもの瞳の中心がにゅっと小さくなった。
離すと元に戻る。
「こいつらは暗いところでも目が利くんだ」
「へー、すごいねムーちゃん!」
ほめられたことを理解したのか、すっぽんぽんの子どもは得意げにぺったんこの胸を張った。
するとお腹が可愛い空腹の音を奏でる。
「そろそろ、食事にしましょうか。はい、ムムさん、私の子どもの頃の服ですが、よかったらどうぞ」
「ムムじゃなくて、ムーちゃんですよ、大家さん」
「紫眼族の名前は、同じ音を続けて使うんだよ。こいつはムーだからムムで合ってるぞ」
紫眼族は男性は名前のどこかに連続で同じ文字を使い、女性の場合は同音二文字を二つくっつけるのが基本である。
「だから本当ならレレムムとか、ムムメメとかって名前になるんだ」
「へー、なんでそんな風になるのかな?」
「こいつらは雷神ギギロ様の加護を受けているからな。あやかっているんだろ」
「トーちゃん、どう?」
「お、ちゃんと着れたか。よく似合ってるぞ」
ユーリルの持ってきた服は麻織りの貫頭衣に太ももの上までしかない綿織りのパンツという組み合わせだったが、子どもにぴったりの大きさであった。
ほめられて嬉しかったのか、子どもは素直に頷いてみせる。
靴がないムーを抱きかかえたトールは、ソラを連れ立って食堂に移動する。
すでにテーブルの上に並ぶ皿からは、美味しそうな湯気が上がっていた。
じっくりと獣脂をかけながら焼いた尖りくちばしのもも肉。
滴る脂くささを消すために、甘く炒めた玉ねぎが添えられている。
さらにキャベツの煮込みスープと、干しぶどうが入った堅いパンまでも。
ユーリルが気を使ったのか、子どもだけ蜂蜜入りのパン粥になっていた。
「ふー、今日もがんばったのでお腹ペコペコだよー」
「いただきます、大家さん」
「はい、召し上がれ」
「食べていいのか? 食べていいのか?」
トールが頷くと、子どもは手づかみでもも肉を持ち上げてかぶりつく。
すでに事態を予想していたのか、その首元にはユーリルが白い布を巻いてくれていた。
力強く肉を噛みとった子どもは、数回咀嚼しただけで飲み込んでしまう。
そして相変わらず、あまり変わらない表情のまま、声を大きく弾ませた。
「おいしい!」
「そうか。もっとゆっくり噛んで食えよ。誰も取らないからな。ああ、こぼすな。スプーンをちゃんと使え」
「うー、もも肉サイコーだね、トールちゃん。あしたも狩りにいこうよ!」
「あ、そうだ。忘れてました、大家さん」
「はい、どうされました?」
「大毛虫を狩ったんで、肉貰ってきました。台所に置いておきましたので」
「あら、それは楽しみですね。ふふ」
「おいしい!!」
「ソラも慌てて食うなって。喉つかえるぞ、ほら、水だ」
久々の騒がしい食卓に、ユーリルは少しだけ目を細めた。
前はほとんど喋ることのなかったトールが、別人のように女の子たちの世話を焼いている。
ソラは始終、笑顔で食事をしながら、トールたちから目を離そうとしない。
紫眼族の少女は周りの声に耳を傾けながら、紫の瞳を大きく見開いて夢中で食べ続けていた。
まるで家族のような三人が作る輪の中に、自分が混じっていない気がしてユーリルは瞳を密やかに伏せる。
もっと早くこの子たちに出会えていれば。
時の流れの違いをハッキリと感じながら、老女は静かに杯を傾けた。
ふと顔を上げたユーリルは、ソラの視線がまっすぐ向けられていることに軽く動揺する。
驚いたことをごまかすために、老婆はいつもの笑みを浮かべた。
「どうかしたの? ソラさん」
「えーとですね。いまさらですが、大家さんて耳のさきっぽ超長いですね。もしかして……?」
「ええ、私は灰耳族ですよ」
「やっぱり! ちがう国の人だったんだ。えーと――」
チラリと向けられた視線に、トールはやれやれといった顔で口を開く。
「大家さんの生まれ故郷は北の方でな。耳が長くなったのは、雪上の音をよく聞き取るためらしい」
「いいえ、ストラージン様の教えを聞き逃さないためですよ」
「そうでしたか、失礼」
「ということにしてあるんです。灰色兎だって、からかわれますからね」
氷神ストラージン。
学びと探求を司る女神で、灰耳族の守護神でもある。
「ソラさんは、あまり他の国のことはご存じないのかしら?」
「はい、まったく知りません!」
「すみません、央国の片田舎育ちなもんで」
「よろしかったら、少しお教えしましょうか?」
「ぜひ、おねがいします!」
元教師の血が騒いだようだ。
皿にナイフとフォークを戻したユーリルは、林檎酒で口を湿らせてから、分かりやすくこの世界のあらましを説明しだした。
かつてこの大陸の中央には、大きな一つの国があった。
その国は高度な技術文明を誇り、人々は平穏で豊かな暮らしを営んでいた。
だが数百年前、突如、地面に空いた巨大な穴に飲み込まれ、その国は一夜で崩壊する。
さらに"昏き大穴"からは様々な怪物が現れ、人々は果てなき混乱へと陥った。
逃げまどう民たちは大穴から遠ざかるように、辺境と呼ばれていた地に集う。
やがて精霊の力を宿す六大神の教えを守ることで、その加護を受けた民が現れ出す。
氷神ストラージンを奉り、長く尖る灰色の耳となった灰耳族。
雷神ギギロの信徒であり、紫の獣の眼を得た紫眼族。
地神ガイダロスを崇める、額に茶色の角が生えた茶角族。
風神ロヘを敬い、緑色の羽毛が頭髪に交じる翠羽族。
水神アルーリアを信じる、首元が青い鱗に覆われた蒼鱗族。
炎神ラファリットの教えに従う、赤毛の短い尾を持つ紅尾族。
この六族によって新たな国々が、央国を取り囲むように出来上がる。
雪と氷に閉ざされた灰耳族の北国ストラ。
森の恵みを授かる紫眼族の西国ハクリ。
茶角族が暮らす南西の大山脈の国グラン。
翠羽族が遊牧する南の大草原リージニアリア。
海を愛する蒼鱗族たちの南東トリアラ群島連邦。
紅尾族が統治する飢えた砂の東国ズマ。
現在の央国政府は、この六大国の共同管理によって成り立っている。
各国からは多くの人材が派遣され、失われた栄光を取り戻すべく互いに協力しあってるというわけである。
「ほーほー。なんか角とか鱗が生えた人がいるなーって思っていたら、そういうことかー」
「まあ、基本的に田舎には来なかったしな」
黒髪に黒い瞳の央国人は、山間の村で自給自足の生活を営んでいるところが多い。
外からの客といえば税を集めに来る役人か、同郷の行商人くらいである。
そのまま各国の特色について話が進もうとしたその時、子どもが皿に顔を突っ込んだまま動かなくなった。
さっきまで恐ろしい勢いで粥をかっ込んでいたのだが、どうやら力尽きてしまったらしい。
健やかな寝息を立てるムー。
その頬にかかる髪を、トールは優しく掻き上げてやる。
似合わない仕草に、ユーリルは微笑みながら尋ねた。
「これからどうするつもりですか? お父さん」
子どもにトーちゃんと呼ばれていることをからかったのだろう。
珍しい大家の軽口に、トールは顎の下を掻きながら真面目に答える。
「そうですね。最初は適当に飯を食わせて、追い出そうかと思ってました。でも――」
「でも?」
「もうちょっと、面倒を見てやろうかなと」
トールの脳裏には、少年だった自分に剣の握り方を叩き込んでくれた人物の姿が浮かんでいた。
教え方は厳しく容赦はなかったが、かけがえのない恩人であることは間違いない。
そして彼の人もまた、この子どもと同じ紫色の目をしていた。
返答に満足したのか、ユーリルは黙って杯を差し出してくる。
その日、夜遅くまで、食堂の灯りが消えることはなかった。




