轍の行き先
馬車は音もなく、茶色の野を進んでいく。
湿り気を帯びた地面に走る車輪の跡を、なぞるように追いかけながら。
周囲に延々と広がるのは、緩やかな起伏が連なるだけの何もない眺めだ。
まれに遠くに見える黒い点は、森ではなく荒れ地茨の茂みらしい。
それ以外は本当に何もないので、当然ながら道らしきものも見当たらない。
誰かの馬車が残した形跡だけが、唯一の道標である。
御者台に腰掛けていたトールは生ぬるい風を肌で感じ、薄曇りの空を見上げた。
雨が近い様子はない。
だがべっとりと纏わりついてくる空気は、今にも降り出しそうな予感をはらんでいる。
心当たりを思いついたトールは、静かに声を漏らした。
「……そろそろか」
誰ともなしに呟いた一言を拾い上げたのは、隣で手綱を握っていた髭面の男であった。
「ああ、もうすぐだな。見えてきたぞ」
古馴染みの言葉に、トールは顔を前に戻して目を凝らした。
だだっ広い平野のはるか向こう。
まだ遠すぎてぼんやりとしているが、ここからでもその異常な雰囲気は一目でそれとわかる。
視界の先を占める一面は、いつの間にか黒く塗り潰されていた。
どんよりと濁ったような靄が、黒く染まったその周辺を覆い隠し、その奥を見通すことはできない。
そしてこの距離からでも、風に混じり伝わってくる腐った水の気配。
馬車の轍が伸びゆく先。
そこが次のトールたちの目的地、瘴霧の妖かし沼であった。
「こりゃ何とも酷そうな場所だな」
御者台で他人事のように感想を述べる男の名はガルウド。
破れ風の荒野で長らく案内人を務めていたベテランの盾士だが、近々、危険な仕事からは引退するはずであった。
が、近隣の境界街ボッサリアが奇跡的な復興を遂げたため、冒険者不足の煽りを受けて辞め時を見失った男でもある。
今回はトールたちを沼に送り届けてくれるが、翌日には戻って隣街へ向かう予定らしい。
破れ風の荒野は亡くなった妻との思い出が多すぎて、ダダンの周りでは冒険者稼業をする気にはなれないそうだ。
前方に広がる黒い沼地を楽しそうに眺める友人に、トールは何も答えず頷いてみせた。
小鬼の森を南東に抜け、破れ風の荒野近くまで六時間。
そこから北東に進路を変え、吸精草さえ消え失せた不毛の地を三時間。
ダダンの境界街のほぼ真東に存在する広大な湿原には、凄まじい瘴気が渦巻いている。
理由はその沼地の中央に、禍々しい迷宮が口を開けているからだ。
廃棄された地下監獄と呼ばれる固定ダンジョンの由来は、古い時代の央国の建築物の名残であることからきているのだとか。
もっともそのダンジョンにたどり着くのも、とても大変であるらしい。
あらゆる場所をぬかるんだ泥土で覆い尽くす沼地には、まともな道など存在しない。
あるのは足が膝まで沈まない程度の細い道や、木板を渡した仮初の通路だけだ。
さらに厄介なのが、呼び名にもある瘴霧の存在である。
一見、ただの白い霧であるが、多大な瘴気が含まれており、中にいるだけで体力と魔力が徐々に失われて衰弱してしまう。
ただでさえ瘴気が濃く回復が覚束ない場所なうえに、頻繁にその瘴霧も発生するので、慣れた冒険者でも苦戦することは間違いない場所だ。
「ここいらのガキは、悪さしたら沼に連れていかれるぞって躾けられるらしいな。何でも、沼に棲む悪い魔女がさらいに来るそうだ」
「ルデルにでも聞いたのか? あまり脅かしてやるなよ」
ガルウドの五歳になる娘は、以前は病弱だったせいか無口で大人しい印象が強い。
手綱を掴んだまま、強面の父親は困ったように首を横に振った。
「とんでもねえよ。そんなこと言っちまったら、毎晩おねしょだ」
「寝る前に、あまり水分を取らさないほうがいいらしいぞ」
「気をつけてはいるんだが、鱗が乾くのが嫌らしくてな……」
母親の血を引いて立派な青い鱗を持つ娘の姿でも思い出したのか、ガルウドのヒゲで覆われた頬が自然と持ち上げる。
チラリと隣に視線を送った御者は、感心した口ぶりで話を続けた。
「ま、それも含めて最高に可愛いもんだがな。その点、お前のとこは安心そうだな」
ガルウドの言葉ももっともである。
御者台に腰掛けるトールと荷台部分との隙間。
その狭い空間に潜り込んで平然と眠っているのは、巻き毛の愛らしい紫眼族の子どもだった。
トールの背中にぴったりくっついて横向けに寝そべるという奇妙な姿勢のまま、クースーとのん気な鼻息を漏らしている。
ぎゅうぎゅうに詰まった感じなのだが、ムーは安心しきった寝顔を晒していた。
「なんで、そんなところで寝てんだ?」
「最近、狭いところがお気に入りでな。すぐに入り込むんだよ」
「ああ、うちもよくベッドの下とか衣装棚に隠れてるな」
顔を見合わせた男二人は、静かに互いの口元を緩めた。
沼地の厄介な点は、子どもたちと同じように泥に隠れ潜むモンスターたちだ。
もっともそんな可愛げのある相手ではなく、簡単に姿を見せないくせに、機会は絶対に見逃さないという悪辣ぶりで有名である。
さらに普通の武器では効果がないモンスターなど、一筋縄ではいかない難物も多い。
二人の会話が途切れた間も馬車は軽やかに進み続け、次第に空気にハッキリとした腐臭が混じりだす。
同時に空模様も変わり始め、黒い雲が頭上に広がり始めた。
不穏な気配を感じ取ったのか、馬の鼻息も荒さを増していく。
近付いてくる一面の黒を眺めながら、トールはこの先で待ち受ける面倒事を思い返して息を漏らした。
移動が大変で厄介なモンスターがひしめく劣悪な環境の妖かし沼だが、特に問題なのは休息である。
どこも泥まみれなので、落ち着いて休むことができない。
そこで先人たちが最大限の努力を払って作り上げたのが、三ヶ所の野営地だった。
腐りにくい木材を大勢で担いで何度も往復し、頑張って土台を作り上げたらしい。
そして現在、沼で狩りを行っている団体は三組。
そこへトールたちの四組目が加わると、当然ながら色々な問題が発生してしまう。
その辺りをどうにかしないと、狩りに専念することもままならないというわけだ。
考え込むトールの胸元に揺れる銀色の冒険者札を眺めながら、ガルウドが不意に思い出したかのように口を開いた。
「で、どうだったんだ、銀盟会とやらは?」
その一言で先日の会合の様子を思い返したトールは、苦笑いを浮かべながらまたも深々と息を吐いた。




