重なる記憶
かがみ込んだトールは足元に手を付けて、視線を前にずらしていく。
その黒く深みを帯びた目には荒れ果てた地面と、整然とした石畳が重なるように映っている。
さらに生い茂る緑の草むらまで見えてきたので、トールは少しだけ焦点をずらしながら隣の少女に尋ねた。
「ここは結構、新しいほうか?」
「いえ、この通りは初期の方に造られましたので、かなりの年代物でしたよ」
「なら、ちょいと剥げた感じにしておくか」
再び意識を地面に集中させたトールは、ところどころ敷石が欠けたりめくれている道路を選び取る。
魔力を高め――。
最初にダダンに頼まれた外壁の補修は、手で触れた周囲を戻すのが精一杯だった。
けれども赤い川面に並ぶ石の橋柱は、半分以上崩れていたが元通りにすることができた。
そして風荒ぶ荒野では、完全に消え失せていた石山をそっくり<復元>してみせた。
魔力自体の量が、増えているのもあるだろう。
だが、それ以上に魔技が馴染んでいく感覚を、トールは強く感じ取っていた。
前は無理だったが、いつの間にかできるようになっている。
剣の使い方や体捌きで、散々経験してきたことだ。
しかしながら、数百回以上使い続けてきた<復元>は、いつしかトールの想像を超える領域へ育ちつつあった。
一瞬で目の届く範囲が全て舗装された状態に戻った大通りの姿に、ラムメルラは深々と嘆息した。
何度目にしても、足が自然と震えてしまう光景である。
「こんな感じでどうだ?」
「え、ええ……」
返事をしようと口を開く少女だが、代わりに出てきたのは頬を伝う涙の糸であった。
ラムメルラの中で入り混じった景色の記憶が、波のように押し寄せては感情を埋めていた砂の山を削り取っていく。
この場所は、かつて少女が数え切れないほど歩き通った道であった。
「……少し休むか」
涙の理由を問うこともなく、トールは背後の建物の石段を元に戻してみせた。
腰を下ろすよう促して、無言で隣に座る。
ハンカチでも差し出せれば格好がつくのだが、あいにくトールにはそんな小洒落た物は持ち合わせていなかった。
うららかな空には、千切れ雲が申し訳程度に浮かんでいる。
頬を打つ風はぬるく、夏の近さを感じさせた。
会話もなく、ただ二人は無人の街並みを眺め続けた。
すでにあらかたの蟻は退治しおわり、目障りな見張り塔も消え失せている。
穴だらけだった外壁を占拠していた蟻どもは追い出され、破損箇所は綺麗に塞がれていた。
もっとも以前とまったく同じというわけでもなく、上部の崩れなどはそのまま残してある。
完全に瓦礫の山と化していた境界街は、人の手が入れれば数日で生活できる程度に復活しつつあった。
やがて落ち着きを取り戻したのか、ラムメルラはゆっくりと立ち上がって、背後の建物へ視線を移した。
それは朽ち果ててはいたが、一際立派な建造物であった。
辛うじて残っている壁の高さは、ゆうに三階建てほどの高さがある。
だが、内部は完全に崩れ落ち、酷い有り様を晒していた。
門戸があったらしき空洞を覗き込んだラムメルラは、色が失せるほどに下唇を噛み締める。
問いかけるようなトールの視線に気付いたのか、少女はポツリと語った。
「ここにあったのは、施療神殿なんです」
「そうか」
会話を続けながら二人は、荒れ果てた建物の中へ足を踏み入れる。
無理やりに懐かしさを感じ取ろうとしたラムメルラだが、何もかも失せてしまった内部の様子に力の抜けた笑みを浮かべた。
トールへ振り返ろうとした少女の動きが、不意に釘で打たれたかのように止まる。
その視線の先にあったのは、壁に残った乾いた血のしみと生々しい誰かの爪の跡だった。
死体は全て蟻どもに持ち去られたのか、骨一本も残ってはいない。
その痕跡だけが、この場所に残響する唯一の死者の叫びのように思えた。
「三百十八人です」
壁を見つめたまま、少女はきつくこぶしを形作った。
それから途切れ途切れに話し始める。
「あの日、私と姉さんは休養日だったので、ここに居たんです。皆とお喋りしてたら、急に通りで大声が上がって……。あとはあっという間でした。蟻が全てを埋め尽くして、どうしようもなく私たちはここに立て籠もりました。外では助けてくれ、戸を開けてくれと……。そのうち二階の窓が破られ、蟻が入ってきました。この建物には地下にいざという時の通路があるんです。私と姉さんだけ、そこへ押し込まれました。このままだと追いつかれるから時間を稼ぎますって、神殿長が……。でも穴の中にもいっぱい蟻がいて、姉さんが何とか寝かしつけたけど、その時に火傷を……」
息を細く吸い込んで、ラムメルラは言葉を続けた。
「私と姉さんが生き残った理由は、人より少しだけ技能樹の枝ぶりが良かったからです。それだけなんです。あの時、ここに居た人の顔は全部覚えてます。一生、忘れることはない気がします」
「俺はもうほとんど忘れたな」
トールの返答に、少女は驚いたように眉を上げた。
軽く頷いたトールは、手を伸ばし壁に触れる。
「俺の村も大発生に襲われてな。何もかも投げ捨てて逃げたよ。……親の顔も兄弟の顔も」
次の瞬間、目の前の壁から爪痕は消え去っていた。
同時に建物全体も、以前の姿を取り戻す。
「無理に忘れろとは言わんが、無理に覚えている必要もないんだぞ。思い出すのは時々で良いんだよ、時々で」
座り込んでしまった少女に、トールは優しく手を差し出した。
顔を拭った少女は、その手にギュッとしがみつく。
ラムメルラを引っ張って立たせながら、中年の冒険者はいきなり可笑しそうに笑いだした。
「どうされたんですか?」
「いや、前もこんなことがあったと思ってな。ほら、飛竜艇から降りる時」
差し出されたトールの足を踏んづけた行為を思い出したのか、少女は瞬時に顔を真っ赤に染める。
「あ、あれは、その、えっと、ご、ごめんなさい!」
「気にするなって。忘れろ、忘れろ」
そう言いながら、トールは再び<復元>を使用した。
とたんに少女の腕から、引きつった感触が消え失せる。
手袋をずらしたラムメルラは、腕の火傷痕が綺麗になくなっていることを確かめた。
「行くぞ。まだまだ、戻すものは残ってるからな」
「…………はい、トール様」
二日後、街を戻し終えたトールたちは、ダダンの境界街へと帰還した。