真の<遡行>
「しかし、凄いな……」
壁を覆い尽くす炎に手をかざしながら、トールは思わず呟いた。
聖遺物である"欲喰の灯明"からは、熱だけはしっかりと伝わってくる。
だが熱くはあるのだが、指先に燃え移るようなことはない。
よくよく見れば壁や、その奥に封じられた黒々とした闇にも変化はないようだ。
感心しているトールの股の間から、ひょいと何かが顔を出す。
背を屈めて、潜り込んできたムーだ。
金色の巻き毛を太ももにこすりつけながら、炎の壁を食い入るように見上げている。
とたんにトールの視界に、ムーが動いてきた軌跡が残像のように映った。
視線を背後に移すと、ソラから何かを受け取ってまっすぐこちらに向けて駈け寄ってくる姿が脳裏に浮かんで見える。
これがトールの得た新しい力、<因果把握>であった。
対象の行動をきっちり十秒の間だけ、過去に遡って見ることができる枝果特性だ。
当然、その実が生じたのは、完枝状態になった枝スキルの<遡行>である。
ストラッチアを助けるために、強引にレベル10まで育てた際の副産物だ。
その<遡行>のほうは、このように変化した。
<遡行>――戦闘に関わった対象体の因果のどちらかを、過去の状態に戻す。
レベル:10/使用可能回数:一時間十三回/発動:瞬/効果:十一秒以内/範囲:視覚。
対象体の文言に変化はない。
結局、育て上げても生き物だけしか対象にとれないようだ。
が、その効果は大きく変化していた。
因果、すなわち原因と結果のどちらか片方だけを選べるようになったのだ。
まだ検証前なのでおぼろげな認識だが、仮にトールが剣で蟻を斬りつけたとする。
ここで果を戻せば、蟻の体から切痕は消えてなくなる。
むろんトールは、剣を振り下ろした体勢のままだ。
つまり行動したのだが、その結果が生じないということになる。
ただ剣の位置がそのままだと、蟻にめり込んだ状態になるのか、それともトールの動きにも修正が働くかは未確認である。
逆に因だけを戻せば、トールの剣で斬ったという行動そのものが戻ってなくなる。
そして蟻にだけ、切り傷が生じるという不思議な結果が残る。
ただこの辺りもトールが何をどう選択するかで変わってきそうであり、また認識外の結果に対してもどうなるかは予想もつかない。
不明な点も多いが、攻防どちらにも応用が効く凄まじいスキルである。
しかしながら使い難い点も、もちろん存在している。
まず以前のように全てなかったことにするには、二連続で使う必要があるということだ。
ストラッチアを助けた際も、まず炎に飛び込んだ行動を戻し、次に燃えた結果を戻さねばならなかった。
何もかも燃えた状態にしてしまう"欲喰の灯明"の神威だが、因果を断ち切ることでギリギリ消火できたというわけだ。
もう一つの弱点は、時間が十一秒だけなこと。
モンスターとの関わりさえあれば、過去のいかなる状態にも戻せる<復元>と違い、数呼吸の間しか戻すことができない。
この辺りは因果という複雑な要素のせいで、短期間にしか影響が与えられないのだろう。
だが、それを補うのが範囲の変化だ。
接触だけであった<復元>と違い、<遡行>は触れる必要もなく見ただけでの発動が可能となったのだ。
まさに十一秒の間だけ視界に映る対象を自在にできる力を、トールは手に入れたとも言える。
「ところで、ムーは何やってんだ?」
「これかー? あっためるとおいしい!」
黄金樹の果実を炎の壁に突き出しながら、子どもは胸を反り返した。
確かにいくら近づけても燃えないのなら、温めるだけには最適である。
「ほう、頭いいな」
「ムーはおりこうだからなー。トーちゃんにもいっこあげるぞ」
「な、な、なにを、やってるの!?」
泡を食った顔で走ってきたのは、ようやく落ち着いたニネッサであった。
顔をひきつらせて、ムーの手からしなびた実を取り上げる。
「あー、ムーの!」
「御灯を焚き火扱いしちゃ駄目でしょ!」
「むぅ! ニネねーちゃんのくいしんぼうめ。たべたいならたべたいって、しょうじきにいうのだ」
「ふーん、そんなこと抜かす口は、この口かな」
いきなり左右から頬を引っ張られたムーは、クスクスと楽しそうな笑い声を上げた。
もうすっかり人見知りな部分は消えてしまったようだ。
ニネッサのほうも憑き物が落ちたように、柔らかな笑顔になっている。
仲のいい母子のように絡み合う二人を眺めていると、いつの間にか近寄ってきたストラッチアがトールの隣で静かに呟く。
「ふむ、子どもか……。やはり、我も作るか」
「えっ、いいんですか? 王子」
「うむ、お前にも辛い思いばかりさせてきたしな」
「……私のためというのでしたら、お断りしますよ」
「すまぬ、言い方が悪かったな。我とお前とで何かを成してみたいと、そう感じただけだ」
「王子……」
いきなり激しく抱き合った二人に挟まれ、潰れかけたムーが呻き声を上げる。
そのまま二人は唇を濃厚に接触させようとしたので、呆れ顔でトールが止めた。
「そういうのは、二人きりになってからで頼む」
「む、それもそうだな。で、兄弟子は、これからどうするつもりだ?」
「とりあえず地上の街を、できるだけ元に戻してみようかと」
「なるほど。再建が早ければ、灯明が消え去る前に間に合うということか」
「ああ、一ヶ月もあるんだ。何とかなるだろう。最悪、間に合わないようなら、悪いがもう一度飛び込んでくれ」
トールの言葉に、ストラッチアはたじろぎながら頷き、ニネッサが凍りついたように表情を強張らせる。
二人の間からムーを引っ張り出しながら、意趣返しが成功したトールは唇の端を持ち上げた。
「すまん、冗談だ。それより、この蟻の巣に俺を同行させる話は、副局長の案か?」
「いや、ダダン局長だったな」
「そうか、なら局長経由でいい。ボッサリアの難民が、この街に戻れるよう至急、準備してくれ」
「ええ、分かりました」
「他には?」
「あとはいつも通りでいいが、そうだ、あの子をしばらく貸してもらうぞ」
トールの視線の先に居たのは、ソラたちと談笑中のラムメルラであった。
「肝心の<復元>が、レベル9に戻っちまったからな。まずは残った蟻でポイント稼ぎからだ」




