敗北と撤退
「まさか…………そんな…………」
「ど、どうなってるんですか!?」
予想外の展開に、呆然と唇を震わせるラムメルラ。
その隣で息を整えていたクガセが、泡を食ったような声を張り上げた。
眼の前には力尽きた黒い女王蟻の体と、その頭部に深々と刺さった剣にすがりつくストラッチアの姿が見えている。
完全に決着がついたと思われる、その光景の背後。
奥の壁に埋もれていた巨大な黒い根で、信じ難い事態が展開しつつあった。
急激に膨れ上がった表皮が弾け、その下から影のような塊が姿を現す。
ゆっくりとその塊にくびれが生まれ、見慣れた形へと変わっていく。
三節に分かれた体の中央から六本の脚が伸び、頭部が尖りながら顎と触角が生まれる。
かすかに身動ぎすると、その背から四枚の黒い翅が広がった。
新たに大瘴穴から生み出されたのは、転がっている死骸とそっくりな黒い狂乱相状態の女王蟻であった。
たった今まで勝利を確信していただけに、この悪夢のような状況は少女たちには受け入れがたい事実だったようだ。
大きく目を見開いたまま、思考を放棄して言葉を失ってしまう。
そんな二人に正気に取り戻させたのは、あえぐように呼吸しながら戻ってきたニネッサであった。
「……落ち着きなさい。迷宮主が……一匹だけとは決まってないのよ……」
「ニネ姐さん!」
「ニネッサ姉さま!」
炎獣の毛皮のおかげで自らが放った魔技が生み出す高温は平気だが、酸素が不足することまではどうしようもない。
肺に空気を急いで取り込みながら、副隊長は迅速に状況の把握に努める。
前回の探索では真の迷宮の主を確認しただけで引き上げたが、その後に瘴気の逆流現象が発生したと聞いていた。
五層の迷宮主を倒したのが原因かと思われていたが、もしかしたら不要となった余剰分を放出した可能性も考えられる。
つまり侵入者に対し、元より複数の迷宮主を喚び出せる備えがしてあったと。
そもそも迷宮主が何体も喚び出されるケースは、それほど珍しくはない。
伯父にあたるサッコウに、大百足を四体も仕留める羽目になったと聞かされたこともある。
小さく歯ぎしりしながら容器の木栓を立て続けに指で飛ばしたニネッサは、魔力回復薬を三本まとめて一気に呷った。
現状のニネッサの魔力は、先ほどの上枝魔技のせいで残りわずかとなっている。
おかげで割れそうな頭の痛みと吐き気に、必死で堪える有り様だ。
それに呪詛のせいで使用可能回数が削られて、今日はもうどう足掻いても撃てないときた。
酷い顔色から察するに、ラムメルラも同様の欠乏状態らしい。
クガセは魔力はまだ残っているようだが、震える足を見るに体力の方は限界に近いと思われる。
そして肝心のストラッチアは力を完全に使い果たしたのか、剣にしがみついたまま荒い息を吐くだけである。
「……撤退しかないわね。でも時間が足りない」
すでに二匹目の女王蟻の体は、ほぼ形成されつつある。
一呼吸ほどの間で結論にたどり着いたニネッサは、この場で唯一まともな状態である男性に声をかけた。
「トールさん、……三十秒ほど時間を稼いで頂けませんか?」
「それだけで足りるのか?」
「では、一分」
「三分だ。それでなんとかしてくれ」
「分かりました。お願いします」
二人のやり取りを傍で聞いていた少女たちが、一呼吸置いて仰天した声を上げた。
「…………はぁっ!?」
「なにいってんですか? 姐さん、おっちゃん!」
掴もうとして伸ばしたクガセの手に背嚢を押し付けたトールは、そのまま部屋の奥へと歩き出してしまう。
ズッシリとした重みによろけながら、茶角族の少女はその背中に慌てて声をかけた。
「おっちゃん、せめて<地解>を!」
「いらん。それよりアイツを早く助けてやれ」
まだ鎧から白煙が立ち昇るストラッチアを親指で指し示しながら、トールは腰の剣を抜き放った。
そこへ、今度は切羽詰まったラムメルラの叫びが追いすがる。
「何やってんのよ、バカ! もう治せるほどの魔力はないのよ。早く戻ってきて!」
少女の必死な命令に、トールは少しだけ振り向いて横顔を見せる。
その唇には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
そして前へ向き直ると、女王蟻との距離を一気に詰める。
分かりきった絶望的な結果に耐えきれず、ラムメルラは悲痛なうめき声を上げながら目をそらした。
「見損なったわ、姉さま!」
「いいから、さっさと王子の体力を回復しなさい」
冷たく言い切ったニネッサを、ラムメルラは朱に染まる顔を上げて強く睨みつけた。
ここで逃げなければ全滅だということは、少女も十分に承知していた。
だからといって、こんな風に使い捨ての囮を強いることは絶対に間違っている。
たとえそれが引退間際の冒険者であってもだ。
そしてもっとも腹立たしいのは、そんな状況を心のどこかで受け入れてしまいそうな己の弱さであった。
以前と同じ誤ちだけは、繰り返してはいけない。
そう思い返したラムメルラは、盛り上がりかけた悔し涙を拭って視線を定め直した。
今やるべきことは非難ではなく、この場の最善の手を探すことだ。
急いで口を開きかけた少女に対し、赤毛の美女は諭すように言葉を返した。
「だから落ち着きなさい、ラム。あなたがここにいる理由は何?」
「何って……」
「皆を助けるためでしょ。だったら、自分の仕事くらいまっとうしなさい。私を失望させないで」
思いがけない言葉に息を止めたラムメルラに、ニネッサはさらに言葉を重ねた。
「それに見損なっているのは、あなたの方よ」
「えっ?」
「ほら、御覧なさい」
ニネッサの持ち上げた顎の先へ、少女は恐る恐る視線を戻した。
そしてまたも広がる信じ難い光景に、最大限に両の瞳を見開く。
くたびれた中年のはずの男性は、黒い女王蟻の猛攻をこともなげにしのいでいた。
高速で飛来する黒い塊が、トールへと押し迫る。
しかし衝突するかと思われたその時、すでにその体は安全な位置へと動き終え、同時にモンスターの触角の先が弾け飛ぶ。
「なっ!」
確かトールの剣は、白硬銅の安物であったはずだ。
まかり間違っても、金剛石と同じ硬さを誇る女王蟻の体を斬ることなどできるわけがない。
そう思い込んでいたラムメルラの眼前で、今度は女王蟻の前脚の先端が斬り飛ばされる。
「ど、どうして……?」
「教えてなかったけど、あの人、王子の兄弟子なのよ。でも、ここまでとは思ってなかったわ……凄いわね……」
ともにダダンを師として仰ぐ身でありながら、二人の弟子の剣には明確な違いがあった。
優雅に曲線を描きながら、受けさばく剣を使うストラッチア。
対してトールが使うのは、無駄を極限まで削ぎ落とした直線的な攻めの剣だ。
高速で接近する巨躯をギリギリまで見極めたトールは、紙一重で避けながらあり得ない速さで最短の距離を動く。
踏み込みながらスッと息を吐き、見定めた位置へ刃を当てる。
当たる瞬間、手の内を締め、最大限の力を一点へと集中させた。
甲高い音が生じ、黒い輝きを放つモンスターの体にひび割れが走り砕ける。
金剛蟻の名称の由来となる金剛石は、非常識な硬さを誇るが意外にも衝撃には脆い。
だが黒金剛石は、その弱点さえも克服していた。
最強の硬度と靭性を誇る外殻。
しかしながら、それでもまだ完璧でなかった。
蟻どもの殻は結晶体である以上、その結び目は必ず存在する。
その常人の目にはただでさえ捉えがたい一点を、トールは激闘の最中に的確に狙い、打ち抜いていた。
二十五年間、ほぼ休まずに剣を振るってきた。
相手は緑樫級にふさわしいモグラや鳥、小鬼などの弱い相手たちだ。
だが対象は大きな意味を持たない。
重要なのは、ただひたすら反復して剣を振り抜いてきた事実である。
ひたすら鋭く、そして正確に。
その膨大な修練が作り上げた下地に、この三ヶ月で出会った強敵たちとの戦いが花を咲かせる。
これまでのトールに不足していたのは、心底から剣を振るうに足る相手であった。
互角、いや、すでにトールは迷宮の真の主さえも凌駕しつつあった。
猛烈に飛び回る女王蟻だが、その攻撃はかすりもせず、逆に翅や脚の先端が少しずつ失われていく。
このまま勝てそうかと思われたが、残念ながら人が全力で動ける時間はそう長くない。
さらにいくら高速での打ち抜きとはいえ、剣にも限界がやって来る。
軽い手応えとともに、とうとうトールの剣の先端が砕け散る。
ほぼ時を置かずして、体中の力が消え失せる感触が襲ってくる。
限界を迎えたトールは、膝をついて深々と息を吐いた。
そこへ容赦なく、女王蟻が力尽きた獲物を仕留めるべく襲いかかった。
だが期待された時間は、十分に稼げたようだ。
その時、トールの耳に飛び込んできたのは、朗々とした祈りの言葉だった。
「炎樹の葉よ、散りて惑わせ――<一騎灯千>」
次の瞬間、トールの体が何重にもブレる。
いきなり現れた本人そっくりの幻影たちは、立ち上がるといっせいに動き出した。
次から次へと地面や壁を蹴って、女王蟻へ襲いかかる。
この魔技こそが、今まで"白金の焔"の生還率を劇的に高めてきたニネッサの持つ隠し玉だ。
<幻灯>、<陽炎陣>の上枝に当たる<一騎灯千>は一分間だけ、大量の幻影を生み出すことができる。
女王蟻の翅で切り裂かれたトールの影が、二つに別れそれぞれ新たな幻影として動き出す。
際限なく増え続ける影は、モンスターを巧みに翻弄し続ける。
もっとも幻影たちには戦う力が一切ないため傷一つ増えていかないが、時間稼ぎには事足りる味方だ。
ふわりと温かな感触が、屈んでいたトールの内部から巻き起こる。
顔を上げると涙に濡れた顔で、ラムメルラが小さく頷いていた。
体力を戻してもらったトールは、頷き返すと部屋の出口まで走り出した。




