六層、そして最下層
トール以外は石の蓋に触れないように気をつけながら、全員が六層への通路へと降り立つ。
ひたすら長い通路を斜めに下り、たどり着いた先にあったのは息を呑む風景だった。
上の部屋をさらに奥へ伸ばしたような空間には、ずらりと太い土の柱が幾重にも立ち並んでいる。
天井は高すぎて、輪郭も定かではない。
辛うじて見える側面は中ほどに段差が刻まれており、黒々とした出入り口が等間隔に並んでいるのが窺えた。
灯りが届かない部分は膨大な闇に覆われてしまい、どこまで先が続いているのかハッキリとは分からない。
だが空間の規模からして、簡単に行き止まりに行き着くとは思えない。
そこは、地中深くに密かに作られた巨大な蟻どもの回廊であった。
「これは……、凄まじいな」
ニネッサが差し出した奇妙な灯りが浮かび上がらせた空間に、トールは思わず顎の下を掻くのも忘れて呟く。
地面の下にこんな大きな空洞が、知らぬ間に造られているのだ。
考えるだけで空恐ろしい眺めである。
さらに何よりも本能的な嫌悪を呼び起こしてくるのは、闇の中に蠢く無数の蟻どもの気配だった。
側面の穴からは長い触角が覗き、天井からは耳障りな羽音が響いてくる。
何も知らない一般人が連れてこられたら、あっさりと発狂しなそうなほどのおぞましさがそこにあった。
しかし先ほどから気配はするが、目立つ灯りに対して襲いかかってくる気配はない。
疑問を浮かべるトールへ、赤毛の美女は意味ありげに微笑みながら手に持つ円筒を掲げてみせた。
「これのおかげで、近づいてこないんですよ」
筒状のそれは、珍しいガラス製の容れ物だった。上下の部分だけが金属製となっている。
内部には見えているのは、音もなく燃え盛る赤い火だ。
不思議なことに燃料などは入っておらず、空気穴のような物も見当たらない。
完全に密封されているはずなのに、その炎は独特の輝きを周囲に投げかけていた。
この光はモンスターを退ける働きがあるらしいのだが、そうそう使えない理由が存在していた。
ちらりと見えた底の部分にはまっていたのは、鈍い黒色を放つ魔石であった。
先日、嵐砂の巨人から取れた三等級のと色合いがそっくりである。
そんな高価な魔石具に頼らざるを得ないのは、六層からの新たな枷のせいだった。
<喪失過剰>、魔力を失った際の無力感が、より深く感じられる呪詛だ。
トールの<復元>による魔力供給が絶たれた以上、少しでも消費を抑えねばならない事態となっていた。
「それで、どうするんだ?」
だだっ広すぎて通り放題に見えるが、さすがにこの回廊を歩くのは自殺行為にかなり近い。
トールの問いかけに答えたのは、左右のこめかみに人差し指をあてて考え込んでいたラムメルラだった。
「えーと、うん、ほぼ変わってないわね。なら、前と同じ抜け道が使えるはずよ」
そういって少女が指差したのは、側面に穿たれた入り口の一つだった。
細い、といっても人よりも大きな蟻どもの通り道だが、横穴の先は複雑にうねりながらも回廊にそって奥へ向かっているようだった。
たまに回廊に戻ったり、途中で小部屋、こちらも冒険者局のロビーほどだが、に繋がっており、戦闘を余儀なくされる場面もあったが。
六層からはこれまでの蟻は姿を消し、主に紅玉蟻と蒼玉蟻の二種類が徘徊していた。
ただし大きさは、五層の迷宮主よりも一回り小さい。
だが、油断して勝てる相手でもない。
ストラッチアの上枝武技<炎転示罪>は、間合いに入った敵に対しては超速度で対応できるが、逆に言うと入ってこない相手に対しては効果が薄い。
もちろん発動してからも移動はできるが、速く動くと解除されてしまう欠点がある。
それにそもそも反動があるため、一度使うと三十分は前衛として使い物にならなくなってしまう。
つまり殲滅しながら、先へ進むやり方には全く合っていないのだ。
結局、接近しての切り合いに持ち込むしかなく、そうなると外殻の硬度が増した蟻どもにはなかなか攻撃が通じにくい。
ではどうするかと言うと、――。
白刃を構えたストラッチアが、突っ込んできた蟻の青い翅を根本から斬り飛ばす。
――<猛火断>。
下位の武技を使えばいいだけである。
もっともそうなると闘気で満ちてしまった腐屍龍の鱗鎧は、ただの硬い鎧の役割しか果たせなくなる。
しかし赤い触角から放たれた光弾は、音もなくその漆黒の鎧へと吸い込まれた。
踊るような足取りで前に出た赤毛の剣士は、白い輝きを放つ双剣で曲線を優雅に描く。
振り下ろされた前脚は斜めにずらされ、噛み付こうと伸ばされた顎は弾かれ空を噛む。
二枚の刃に操られるように、赤い蟻の頭部と胸部をつなぐ結合部分がさらけ出された。
その一瞬に生まれた隙へ、軽やかに必殺の突きが放たれる――<螺旋焦>。
炎をまとった刃に貫かれた部分から、蟻の殻に細かいひび割れが生じる。
そして引き抜かれると同時に、白煙が漏れ出すように吹き出した。
ストラッチアが一歩下がると、内部を高熱で焦がされた紅玉蟻の首が地面へ落ち、硬い音を立てた。
闘気を全身にまとえば、鎧に吸われてしまう。
ならば腕の先にだけ、闘気を集めればいい。
簡単に聞こえるが、熟練の戦士でも実戦での行使は覚束ない技術だ。
これもまたストラッチアが天才と呼ばれる所以である。
赤毛の剣士が二匹の蟻を屠った横では、クガセも一匹の相手をしていた。
体重を消して動き回る少女だが、光の速さには太刀打ちできない。
頭を揺らした紅玉蟻の触角が、まばたきするように明滅する。
連続で放たれた赤い光に肩をえぐられたクガセに、杖を差し出したラムメルラが鋭く呼びかけた。
「今、治すわ! 生命の樹の御主よ。傷つきし子らに、憐れみの涙をお流しください――<流涙癒>!」
たちまち肉が盛り上がり、焼け焦げたはずの部分が正常な色を取り戻していく。
汗まみれの顔の少女は、素早く踏み込むと元通りになった腕を赤い突起へと猛烈に叩きつけた。
発射部分をへし折られた紅玉蟻は、忌々しげに顎を打ち合わせる。
そこへ間髪容れずに、ニネッサが真紅の炎弾を撃ち込んだ。
前脚を溶かされた蟻がひざまずくと、すかさず手を伸ばした少女が魔技を発動した。
「重くなれ、<磁戒>! もう一回、<磁戒>! とどめの<磁戒>!」
メキメキと音を立てながら、蟻の体は地面へと押し付けられていく。
触角さえも動かすことができなくなったモンスターへ、距離を詰めたストラッチアが剣を振り下ろす。
切断された頭部が転がり、最後の紅玉蟻もようやく動きを止めた。
止めを刺した赤毛の剣士だが、そのままもう片方の剣を不意に己の足元へと突き立てる。
あり得ないことに貫かれた影は、いきなり大きく盛り上がり始めた。
急激に膨れ上がっていく真っ黒な風船。
それは膝ほどの高さに達すると、間を置かず盛大に弾けた。
目にも留まらぬ速さで黒い破片が、いっせいに音もなくばらまかれる。
鋭い欠片たちが達する寸前、一歩早く動いたトールが前に出ていた。
とっさにラムメルラとニネッサを、かばうように抱き寄せる。
その背中に凶器のように尖った断片が、次々と容赦なく突き刺さった。
「ハァハァ……、助かりました、トールさん」
「なんてことを。すぐに見せて!」
「いや、俺よりも、あっちが先だろ」
ケロリとした顔でトールは、担いでいた背嚢を揺すってみせた。
黒く鋭利な石たちはかなり深く食い込んだのか、簡単には落ちようともしない。
しかし持ち主の体には、傷一つなかったようだ。
だが遮蔽物を喚び出す暇もなかった土使いは、そうもいかなかったらしい。
装甲に覆われていない太ももや二の腕に深々と突き刺さった破片の下から、赤い血潮が止まることなく流れ出している。
慌てて駆け寄ったラムメルラが、うめき声を漏らすクガセの酷い有り様を急いで治していく。
そして最も近い距離にいたストラッチアだが、そのトールに並ぶ剣の腕は伊達ではなかったようだ。
ほとんどを打ち落とし、わずかに残った破片も鱗鎧で滑って無傷であった。
「ところで、今のは何だったんだ?」
「この層から出てくる面倒な奴ですよ。黒曜蟻って名前らしいです。安いくせにうっとうしい相手ですよ」
傷を塞いでもらって、何とか人心地がついたようだ。
少女のいつもの軽い口調に、トールは事前に教えてもらっていた蟻の正体を思い出す。
六層から増えた二種類の蟻は、ともに嫌らしい性質を宿していた。
一匹目は今の黒曜蟻。
大きさは琥珀蟻と変わらず、硬さもさほどではない。
しかしこの蟻の最大の特徴は、その所有する闇技<影潜>である。
仲間のモンスターの影に潜んだこの蟻は、戦闘中に密かに誰かの影から影へと移動する。
そして油断した時を見計らい、地面から突如現れて足首に喰らいつくというわけだ。
その上、正体を見破られた場合は、自爆して尖った破片を撒き散らす厄介ぶりである。
さらにもう一匹も、同じく擬態する能力を有していた。
赤い蟻玉を回収しようと死骸に近づいたクガセだが、下ろしかけた足をギリギリで止めて飛び退る。
その少女が寸前までいた空間に、何かが宙をよぎりガチンと嫌な音を立てた。
「あぶな! こんなところに潜んでやがったですか」
それは長く伸びた蟻の両顎だった。
いきなり空中に現れたそれに対し、少女が怒りの拳を叩きつける。
澄んだ音がして赤い蟻の体の一部が、唐突に剥がれ落ちる。
それは地面にぶつかると、本来の金緑の輝きを取り戻した。
死んだ仲間の体に重なるように隠れていた、その小型の蟻は名は金緑蟻。
こちらも琥珀蟻とほぼ同じ大きさだが、硬さはその数倍を誇っている。
さらに目立っているのは、その体長の半分を占める突き出した長い顎だ。
しかしこの蟻のもっとも面倒な点は、その体が持つ変色効果だった。
乳石蟻の変彩効果と似ているが、金緑蟻はそれをより強めたもので地面や天井などに完全に紛れてしまうのだ。
そうして通りかかった獲物を、その長い顎で両断するというわけである。
「ふん! ボクの角をごまかそうなんて十年早いですよ」
自慢げに硬さを判別できる額の角を持ち上げた少女は、渾身の力を込めて拳を突き下ろした。
頭部を砕かれた蟻は即座に大人しくなったが、クガセのほうは肩を押さえてまたも呻き声を上げた。
「バカね。塞いだばっかりなのに、何してるのよ。ほら、痛み止めよ。飲んどきなさい」
呆れたように息を吐きながら、ラムメルラは腰帯に並ぶ革小袋の一つから取り出した丸薬を差し出す。
そのついでに白い牙の容器の木栓を抜いて、魔力回復薬を一息に飲み干した。
魔技を連発しているニネッサとラムメルラは、今もかなり苦しそうに息を弾ませている。
前に出ているクガセも、生傷が絶えず疲労は隠しようもない。
闘気を剣に吸わせているストラッチアも、いつものふざけた口調を保つ余裕はなさそうだ。
数々の侵入呪詛が、四人の体を蝕み気力を消耗させていた。
それでも誰一人、立ち止まる素振りを見せない。
ただ黙々と立ち塞がるモンスターを駆逐して、奥へ奥へと進んでいく。
トールはその背中を追いかけながら、戦い続ける仲間の姿を脳裏に刻みつけていった。
二時間後、疲弊する一行がたどり着いたのは、深みへと伸びる通路が口を開く小部屋だった。
この洞窟の先こそが最下層であり、真の迷宮主の居場所であった。