翼の向かう先
轟々と耳元を通り過ぎる風音に、ようやく慣れてきたトールは静かに体を起こした。
フラフラと覚束ない尻の下の感触に不安を残したまま、舷側からそっと顔を出す。
たちまち強い風が、トールの頭部を横殴りに襲ってきた。
まぶたにかかる圧力に逆らいながら、細く目を開いて真下を覗き込む。
眼下に広がっていたのは、あらゆるものが遠くなった光景であった。
木も川も道もすべてがはるか下方にあり、そして驚くほどに小さい。
そしてその景色はまたたく間に、後方へと流れていく。
目まぐるしく移ろいゆく地上の様子を、トールは魅入られたように眺めた。
ふと思いついて、視線を風下に向ける。
そこにあったのは、手のひらに乗るほどに縮んでしまった石壁の街の姿だった。
住み慣れた場所が遠く離れていく実感に、トールは一抹の寂しさを覚えた。
不意に空気を強く叩いたような振動が、その耳朶を打つ。
首をひねったトールは、真上に顔を向けた。
陽光を遮る大きな屋根のような物が、ゆっくりと上下に動いている様が目に飛び込んでくる。
白い飛膜が張られた巨大な翼は、大人の背丈の優に三倍はあろう。
前方に目を向けると、鱗に覆われた喉首が長く上方へ続いていくのが見える。
その先にあるはずの鋭い牙が並ぶ顎や、子どもの頭ほどもある眼球を備えた頭部はここからでは確認できない。
気になったトールは手を伸ばして、すぐ頭の上にある腹部に触れてみた。
こぶし大の鱗はひんやりと冷たいが、かすかにその内側からは脈らしきものが感じ取れる。
奇妙な感触が気に入ったので撫でていると、くすくすと楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
顔を向けると、すぐ隣に座っていた赤毛の美女が顔を綻ばせながら見つめ返してくる。
問いかけるトールの視線に気付いたのか、Aランクのパーティ"白金の焔"の副長を務めるニネッサは優しい声で説明してくれた。
「すみません、笑ってしまって。でも、初めてこれに乗る人は、たいてい同じことをするんですよ」
「そうなのか?」
「ええ、まずを外を見て、それから後ろを見て、上を見て前を見る。最後に不思議そうな顔でお腹を触るまでがセットですね」
「全部、見られていたのか。ちょいと恥ずかしいな」
「でも仕方ありませんよ。普通の人は、滅多に乗る機会なんてありませんしね、飛竜艇なんて」
その言葉に、トールは顎の下を掻いた。
飛竜艇とは、その名のごとく巨大な飛竜を利用した乗り物だ。
艇とついているのは腹部に吊り下げられた乗客用の小舟から来ており、当然、数頭の飛竜が牽引する大型の飛竜船も存在している。
空を行く飛竜は、素晴らしい移動手段である。
地形の影響を一切受けないため、馬車とは比べ物にならない距離を短い時間で進むことができるのだ。
現に今向かっている場所へも、四頭立ての馬車で一日のところをわずか一時間で着くらしい。
無論、これほど便利な飛竜にも欠点は存在する。
一つ目は、夜間は飛行できないことと、飛行時間が限られていること。
これは生き物の習性なので仕方がない。
二つ目は、大量に荷物を運搬するのには不向きなこと。
飛竜の大きさにもよるが、一頭乗りならば頭部の騎乗師一名と腹部の五名が定員の限界であるらしい。
無理をすればさらに荷物も積めるのだが、重量を超過すると極端に速度と飛行距離が落ちてしまう。
そして最後の問題は、当たり前だが非常に高価であることだ。
馬車でさえ金貨数十枚なのだ。
それよりも便利で貴重な飛竜となれば、白金貨でやり取りされるレベルとなってしまう。
まず個人での所有は難しく、だいたいは風神ロヘの交易神殿からの貸し出しである。
なぜ交易神殿かというと、飛竜を操る騎乗師はその飛行を補佐できる風使いにしかなれない職業だからだ。
今も頭部の後ろの鞍の上で、<風速陣>を発動中だったりする。
操縦するのに専門職が必要なうえ、飛竜は一回の食事で数頭の家畜を平らげるので食費も馬鹿にならない。
もっとも食いだめできたり、モンスターも好物なのでそこら辺はマシであるようだが。
とにかく高価な維持費もあって、一般人が近づける機会などあるはずがないのだ。
なぜ、それにトールが乗っているのかというと――。
「ふん、いい歳してこの程度でオタオタする奴なんかで、本当に大丈夫なの?」
いきなり否定的な言葉をぶつけてきたのは、後部席に座っていた小柄な少女であった。
青みを帯びた長い黒髪は緩やかなウェーブがかかっており、強い風の中でも柔らかく揺れている。
勝ち気そうな大きな瞳に、ツンと上を向いた鼻と形の良い口元。
きつい口調とは裏腹な、息を呑むような美少女である。
「まぁまぁ、みんな最初は変わんないですよ、ラムちゃん」
穏やかな声で美少女をなだめたのは、その隣に腰掛けていた女性だ。
こちらは対象的に大柄である。おそらくトールと同程度の背丈であろう。
他の見た目やまとう雰囲気も、少女と女性は対のように違っていた。
焦茶色の髪は短く、親指の長さほどしかない。
目尻が下がり気味の薄茶色の瞳は、のん気な印象を与える。
高い鼻筋にやや弛みのある唇も、整ってはいるが美人と言うより愛らしい感じだ。
しかし続く言葉は、その期待をあっさりと裏切る。
「それに貧乏な人はこれに乗るのもきっと最後の機会ですし、ちょっとくらいは大目に見てあげるのが大人ってもんですよ」
「だったら、仕方ないわね」
毒のある言葉を吐いてみせた蒼鱗族の少女は、ラムメルラ。
"白金の焔"の治癒や回復を一手に引き受ける水使いである。
その隣の茶角族の女性は、クガセ。
こちらも"白金の焔"所属で、おもに戦闘や移動の補助がメインの土使いだ。
この二人にニネッサとトール、後一人を加えた五人が今回のパーティメンバーである。
新入りへの洗礼のような嫌味を新鮮に感じながら、トールは軽く頷いて視線をわざとらしく船首へと向けた。
その意味を即座に察したのか、ラムメルラは少し頬を赤くし、クガセは呆れたようにため息を吐いた。
トールの視線の先に居たのは、今にも落ちそうなくらい身を乗り出してはしゃぐ彼らのリーダーの姿であった。
真っ赤な長髪をなびかせた"白金の焔"の隊長、ストラッチアだ。
お気に入りの眼帯を押し上げて、風に逆らうように両眼を見開いている。
「ハハハ、見ろ、トール。人がまるでノミのようだぞ!」
「いい加減にして下さい、王子」
「恥ずかしいよ、もう」
「そのはしゃっぎぷりは、割引しても大目に見るのは厳しいですよ」
「む、なぜに非難の声が。我はただ友の緊張をほぐそうと……」
「そんなこと言って、前もうっかり落ちて迷惑かけたじゃないですか」
「過去の誤ちに囚われて、先へ進むことを躊躇うのは、愚か者の振る舞いでしかないぞ。なぁ?」
「いや、俺に振るなよ。さすがに落ちるのは迷惑過ぎるだろ」
「ふん、お前も愚者の一員ということか。ほら、見えてきたぞ」
そう言いながら、ストラッチアはまっすぐに前方へ指を持ち上げた。
その腕の指し示す先には、なだらかな丘陵が果てしなく広がっている。
緩やかに隆起する丘の狭間に、一点だけ黒い塊のようなものが浮かんで見えた。
振り返った赤毛の男は、嬉しそうに唇の両端を持ち上げながら宣言する。
「あれが今回の制覇すべき場所、ボッサリアの迷宮街だ」




