南回りルート その四
緑濃色の羽毛に包まれた翼を羽ばたかせ、風の獣は空高く飛び上がる。
矢が辛うじて届く高みから地上を睥睨したモンスターは、途切れ途切れの鳴き声を放った。
それは飛ぶこともできぬ哀れな生き物への哄笑にも思えた。
「もう、癪にさわるわね。何もできないと高をくくって」
「……うむ」
「……同感だ」
「実際、手も足も出てませんからね」
空中を高速で飛び回る獣には、従来の盾でしのいで動きを止めたところへ攻撃を加えるパターンが全く通用しない。
唯一、離れた場所から損傷を与えられる弓矢も、モンスターが放つ風圧で本体まで到達できていない有り様だ。
近距離の間合いしかない細剣では、さらに絶望的である。
それに対しこちらのダメージだが、圧倒的な重量の体当たりを一人で引き受けているゴダンは、すでに鎧のあちこちがへこみ限界は近い。
通り過ぎる度に飛ばしてくる棘状の羽根のせいで、双子たちの衣類も流血で染まりつつある。
耳障りな叫びを上げ続ける風の獣を忌々しい顔で見つめたタパは、闘気を込めた矢を続けざまに真上に放った。
それらを悠々と躱したモンスターは、再び急降下の姿勢に入る。
「では、そろそろ仕掛けますか」
「そうね、動きを止められる?」
「やってみましょう。その後はお願いしますね」
「……ならば」
「……我らも手を貸そう」
思いっきり息を吸い込んだゴダンは、全身から溢れ出しそうになっていた闘気をようやく解放した。
大きく一歩踏み出して、菱盾の下部の尖った先を地面へと突き立てる。
肩を入れ体重を預けながら、そのまま両足を前後に開いて低く構えた。
――<不動塊>。
たちまちのうちに盛り上がった地面が、茶角族の執事の両足と大地に刺さった盾の部分に集まりしっかりと覆う。
体が動かぬよう固定する<地楔>の上位にあたり、ゴダンのもっとも得意とする中枝スキルの武技だ。
大地を味方につけた盾士へ、その数倍の体積を誇る獣が押し迫る。
凄まじい勢いで突っ込んできた風の獣は、巨大な口嘴を盾に容赦なく叩きつけた。
これまでであれば、体格が激しく劣るゴダンは石ころのように転がっていただろう。
だが谷底に響き渡ったのは、岩塊に何かがぶつかったような重々しい音だった。
同時にクチバシが奇妙な角度へ折れ曲がった風の獣が、くぐもった鳴き声を上げる。
舞い上がった土埃が静まった後に現れたのは、微動だに揺るがない盾と完全に動きを止められてしまったモンスターの姿だった。
真正面から風の獣を受け止めてみせたゴダンだが、地面へ逃し切れなかった衝撃のせいで脛当てや脚甲が耐えきれずに弾け飛ぶ。
予想外の結果により地面に引きずり下ろされたモンスターだが、すぐに怒りで喉を鳴らしながら翼を羽ばたかせた。
しかしその空隙を見逃すほど、お人好しな双子ではない。
「……もう少し右。うむ、そこで良い」
いつの間にか左右の土壁には、数本の短剣が刺さっていた。
棘羽根を落とすために放ったと見せかけて、タリが密かに準備していたものだ。
短剣の柄につけられた小さな鈴たちが、風に煽られて澄んだ音を奏でる。
その音色の違いを聞き分けながら風使いが探り当てていたのは、風の獣が生み出す風圧の隙間であった。
渦巻状に発する風の中心には、目と呼ばれる穴が存在する。
的確にその穴を指し示す弟の言葉に従い、兄は先ほど上空に放っておいた矢を操ってみせる。
――<風月>。
くるりと円を描いて地面を目指す二本の矢は、地に引っ張られ最大限に威力を高めた。
風の鎧の間隙を縫った矢は、鮮やかに獣の両翼の付け根を貫く。
またも思いがけない苦痛に、モンスターは甲高い雄叫びを発した。
上体を起こし矮小な人間たちを狂気に満ちた眼で睨みつけながら、その首周りのたてがみをいっせいに逆立てる。
この距離から棘羽根が一時に放たれれば、全滅も容易くあり得る。
「大いなる地樹の支え手よ、授けたまえ。空、彷徨えるものに重き碇を――」
今度こそ飛び出しかけたガルウドだが、執事の唱える祈句に目を見開いた。
「――<磁岩盾>!」
詠唱が終わると同時に、ゴダンの斜め上の空間に茶色い土塊が突如、現れる。
魔力で生み出された囮に、撃ち出された棘羽根が軌道を変え次々と吸い込まれるように刺さっていく。
表面にぎっしりと羽根を生やした土の塊は、ボロボロと崩れ去って役目を終えた。
唖然としたまま動けないガルウドを前に、翠羽族の兄弟が最後の仕上げに取り掛かる。
「……よし、首のそばの風が緩んだぞ。左に指三本分だ。上方に指一本。そこだ、行け」
最大限に弓を振り絞っていたタパが、弟の誘導に従ってその指を離す。
静かな闘気に包まれた矢は、音もなく飛び去った。
――<風秘貫>。
風で覆い隠された矢は、音だけでなくその姿までもが空気に溶け込む。
気がつくと無音無影の矢は、風の獣の右の眼球を貫いていた。
一呼吸遅れて、鷲の頭を持つモンスターは耳をつんざくような咆哮を発する。
そこへずっと小声で祈句を呟いていたベッティーナが、ゆるりと細剣の先を向けた。
「我が身の松明より、解き放たれし火の粉よ。寄りて無辺の闇を穿て――<火条鞭>」
真紅の髪が燃え盛るように逆立ち、魔力が形となって剣尖からほとばしる。
一条の炎が、目印となった矢に向かって真っ直ぐに宙を走った。
タパが風圧の弱まった部分に作った穴を、赤い火線はなんなく通り抜ける。
そしてモンスターの顔面に届くや否や、爆発するように燃え上がって包み込んだ。
またたく間に頭部を猛火に焼かれ、呼吸を封じられた獣は激しく首を振り回した。
だが自らの起こす風が、よりいっそう炎上を加速させる。
壁にぶつかり何とか消そうと足掻くモンスターだが、炎は着実に再生の速度を上回り焼き尽くしていく。
とうとう断末魔の叫びを放つことなく、風の獣は横倒しになった。
その頭部はすでに炭化しており、放たれた炎の凄まじさを物語っていた。
「……燃やしすぎだぞ。なんともったいない」
「……皮が焼けると台無しだぞ」
いそいそと土をかけて残り火を消し始める双子に、ベッティーナは呆れたように視線を向けた。
その背後から近付いたガルウドが、言葉を絞り出すようにして話しかける。
「まさか……、双樹持ちとはな。しかも二人ともかよ」
「警告を遅らせてまで私たちの実力を確かめたかったようですけど、ご満足いただけて?」
「ああ、すまなかった。その点は謝罪する」
双樹持ちとは、その名の通り技能樹を二つ持つ人間のことだ。
通常は一本しか生えてこない技能樹だが、まれに臨死状態の際に新たな樹が発現する場合がある。
もっとも炎武樹なら炎精樹といった同系列となり、違う神から授かる例は今のところ確認されていない。
武技と魔技の両方を使いこなせるため、その強さは折り紙付きではあるが、成長に長い時間がかかるため一概に素晴らしいとも言い切れない。
しかしあらゆる状況への適応性の高さは他の追随を許さず、英傑にも双樹持ちはかなり含まれるほどだ。
「なるほど、どうりでスキルが少ねぇはずだ。どっちの樹を表に出すか自由に選べるって聞いたことがあるが、本当だったんだな」
「ええ、いちいち説明するのが面倒ですの」
とぼけたようなベッティーナの口ぶりに、ガルウドはほんの少しだけ目を細めた。
炎精樹の中枝スキルである<火条鞭>は、高温の炎を束ねた鞭を自在に操る魔技だ。
風の獣を一撃で仕留めてみせた火力からして、かなり鍛え上げているのは間違いない。
つまり、それほどの実力を最初から示していれば、もっと高ランクからスタートできたはずだ。
他にも高価な薬品を平気で使ったり、倒した獲物にあまり執着しないなど不審な点も多い。
訳ありの匂いを感じ取ったガルウドは、それ以上の追及はやめて曖昧な笑みを浮かべてみせた。
そんな二人の様子を離れて見守っていたゴダンは、静かに首を横に振って倒したばかりのモンスターの死骸へ歩み寄る。
「……ご苦労だったな、執事殿」
「……さて倒したは良いが、どうやって運ぶ?」
モンスターの体重は軽く見積もっても、ここに居る五人分を合わせたよりも重いだろう。
どう見ても、引っ張って行けるような代物ではない。
かといって解体するにも、場所が場所である。
この谷底はいつ何時、新たなモンスターが現れるか分からないので、ゆっくり作業するわけにもいかない。
「もうバレてしまってますし、私にお任せください。大いなる地樹の担い手よ、ここに集いて我を助けん。顕現せよ――<地精喚>」
詠唱の終わりとともにゴダンの足元から、次々と人の形に土が盛り上がっていく。
地面から現れたのは、土くれでできた四体の人形だった。
顔に当たる部分はのっぺりしており、身長も召喚主のへその辺りまでしかない。
だが太い手足と胴体のおかげか、モンスターの下に潜り込んだ土人形たちは無言で死骸をあっさり持ち上げてみせた。
「では行きましょうか、お嬢様」
盾を構え直した執事の言葉に、ベッティーナは小さく息を吐いた。
散々、真っ向から攻撃を受け止め続けた赤い鎧は歪にへこみ、足回りの防具も千切れ飛んで使い物にならない。
いつも通りの柔らかな笑みを浮かべるゴダンと、すっかり呆れきった表情のガルウドを何度か見比べた後、赤毛の女性はおもむろに口を開いた。
「その前にお二人に、確認したいことがあるの」
「何でございましょうか?」
「うん、まだ何かあるのか?」
チラリと空を見上げ太陽の位置を確かめたベッティーナは、顔を可愛くしかめながら疑問を投げつける。
「もしかして、道を間違ってないかしら? ずっと南の方角に進んでいる気がするのだけど……」