代わり映えしない日々
「十五……十四……十三……十二……十一……十、おっ」
卵の殻を割ったような感触に気づき、トールは森スライムに差し込んでいたナイフをゆっくり引き抜いた。
溶解性の体液に浸かっていた刃先は、変色し大きな歪みが生じている。
時間内に止めを刺せた好運に感謝しながら、軽く振るって剣先の粘つく液体を綺麗に飛ばす。
そして握ったナイフに意識を集中させながら、トールは心の中で唱えた。
――<復元>。
念じた瞬間、すでにことは終わっていた。
先ほどまでの酷い状態は跡形もなく消え去り、そこにあったのは前と寸分変わらぬナイフの姿だった。
魔力低下からくる喪失感に細く息を吐きながら、トールはナイフを素早く鞘に戻し、腰帯に挟んでいた縦長の巻き貝を手にした。
木の幹にへばりついていたスライムは、核を潰されたせいでドロリと滴り落ち始めている。
その茶色の体液に巻き貝の口をあてがい、流し込むようにして回収していく。
瘴気が凝り固まって生まれる不定形の怪物である森スライムは、死ぬとその体液から溶解性が失われて安全になる。
粘りのある体液は、熱を加えると強力な接着剤や補強材になるため様々な用途があった。
なので買取価格は細巻き貝一本分で銅貨五枚と、意外と割高だ。
高いのは他にも理由があって、集めたがる人間がほぼいないというのも大きい。
泥の塊そっくりな森スライムは木の幹にへばりついて、ウニョウニョしながらその木を枯らしてしまうだけのモンスターだ。
近付いても襲ってこないうえ、退治しようと試みても反撃もしてこない。
そう聞くと容易い相手に思えるが、問題は倒し方である。
まずスライムの体表面の膜は意外と弾力性があり、鋭い刃物でなければ貫通できない。
そして、その茶色い体液内に潜む弱点の核を探すには、ひたすらシチュー鍋のごとく刃先でかき回すしかないのだ。
で、その間に森スライムはお返しとばかりに、体内に入ってきた異物を溶かし続けると。
そんな訳で高価な武器と引き替えにするのは、あまりに釣り合わないモンスターゆえ、人気がないのも仕方がないことであった。
当然ながらトールの愛用している解体用ナイフも、スライムに触れれば無事では済まない。
だが彼には、それをチャラにできる"技能"があったのだ。
エターノアと呼ばれるこの地は、創世の神々と滅世の神々の二極が争いあっている。
人々は創世神の側であり、日夜襲ってくる滅世神の下僕たちと戦う宿命を背負っていた。
もっとも非力な人間たちでは、破壊の化身である恐ろしいモンスターに敵うはずもない。
だが創世の神々は、自らが創り出した子どもたちを見捨てるような真似はしなかった。
慈悲深い神たちは、モンスターと戦う術を下界の人間たちに授けたのだ。
それが技能樹である。
すべての人間の魂には生まれつき技能樹が生えており、その枝に宿るスキルによって様々な奇跡を起こすことができる。
一度授かった樹は生涯枯れることはなく、新しい樹に生え変わるといったこともない。
そしてトールの技能樹は名の知れた六大神の系統ではなく、無名の神からの授かり物であった。
樹から伸びていた枝は一本だけ。
それが<復元>の名を持つスキルだった。
鑑定をした司祭の老人は、珍しい固有技能だと驚きたいへん喜んでくれた。
周囲の人々も技能名からして、何でも元に戻せるスキルに違いないと大騒ぎしたものだ。
だがそれもトールが成長とともに魔力が増え、実際にスキルが使えるようになるまでであった。
<復元>は大量の魔力を必要とするくせに、その効果はあまりにもお粗末だったのだ。
スキルは手が触れた物だけに有効で、命を持つ存在は対象外。
そして復元できる状態は、わずか十秒前に戻せるだけと。
挙げ句に使用可能回数は、一時間に一度のみであった。
ちょっとした怪我も治せない。
目の前で壊れた物くらいしか、役に立たない。
そもそも神々が与えた戦うためのスキルには、大きな制約があった。
使用できる対象が滅世神の差し向けるモンスターか、それに関わる人や物だけだと定められていたのだ。
結局、トールが思いついた<復元>の使い道は、こうやってスライムに溶かされた武器を元に戻すくらいだった。
縦巻き貝三本分の体液を集めたトールは、片手で器用に木栓を強く押し込んで漏れがないのを確認してから背負い袋にしまった。
森スライムが張り付いていた幹の部分は、樹皮が溶かされ大きなくぼみになっていた。
もう少し遅ければ、この木は駄目になっていただろう。
一仕事やり終えたトールは、木漏れ日を透かして時刻を確かめる。
かすかに赤みを帯びた日差しは、もう間もなく日が落ちることを示していた。
引き上げ時だと判断して、木立を抜けて林道へ戻る。
この小鬼の森は長い年月をかけて多くの人が関わってきたため、しっかり整備された道が出来上がっている。
得物を木剣に持ち替えたトールは、辺りを警戒しながら足早に歩き始めた。
森の中を三十分ほど歩を進めると、木々の向こうに石造りの灰色の壁が見えてくる。
トールたち冒険者が暮らす境界の街ダダンだ。
石壁の正面に大きな門があり、その横には赤茶色の革鎧姿の門衛が二人。
しかし鉄の枠のついた頑丈な木の扉は左右に開け放たれ、門を守る男たちも壁にもたれたままでやる気の欠片もない。
だらけきった態度の門衛たちは、近付いてくるトールに気付き談笑をやめた。
「よう、おっさん。今日の泥集めは終わったのか?」
「おい、よせよ」
懐に片手を入れたままの若い男がからかいを込めた口調で話しかけたのを、もう一人の年嵩の男が止める。
トールは小さく頷き返すと、通行証となる冒険者札を首元から持ちあげてみせた。
手のひらほどのプレートの緑色の縁取りは、緑樫と呼ばれる最下級の証だ。
元冒険者である初老の門衛は、四十近い男が持つ緑色のプレートを憐れむ目で見ながら門の中へ顎をしゃくった。
さっさと通れという仕草だ。
門を抜けるトールの背中に、またも若い男の言葉が投げつけられる。
「いい歳して、いつまでスライムの相手なんかしてんだ。こんな遅い時間までよ」
「いい加減にしろって、カルルス。言葉を選べ!」
「おっさんもさっさと引退しろよ。門番稼業は気楽でいいぜ」
紫色の目をした若い男のアドバイスに、トールは振り向きもせず片手を上げて応えた。
Gランクの冒険者が引退したところで、再就職先なぞ簡単に見つかるはずもない。
せいぜい日雇いの肉体労働ぐらいだが、トールの問題を抱えた体ではそう長くは続かないだろう。
それは互いによく分かっている事実であった。
門を抜けた先は広場となっていた。
とうに日は沈み、魔石灯が薄ぼんやりと石造りの街並みを照らし出す。
帰り路を急ぐ人の波に逆らいながら、トールは正面に見える冒険者局の建物へ向かった。
正面入口ではなく、右手に回り込み討伐査定用の窓口へ到着する。
すでに似たような格好の冒険者たちが、仕留めた獲物の証を手に長めの列を作っていた。
ガヤガヤと喋る若者の群れに、トールは静かに紛れ込む。
少しずつ進む列についていくと、遅れてきた誰かがトールを追い越して前の若者たちに話しかけた。
どうやら同じパーティの連中のようだ。
二、三の言葉を交わした若者は、そのまま列に加わってしまった。
もっとも狩りの精算はパーティ全員で行うのが基本なので、これは別に咎められるほどの行為ではない。
途中参加した若者は、挨拶でもしようと思ったのか背後へ振り向いた。
そして真後ろに並んでいたトールと、その首のGランクのプレートに気づいて目を丸くする。
横に居た連れの女性の注意を引きながら、遠慮もなくトールの方を指差して耳元に何かささやいた。
その会話を耳にした手前の若者たちも、首を回して中年冒険者の姿を確認する。
あちこち汚れ傷ついた彼らの装備に比べ、トールの革の上衣は使い込んではあったがモンスターと争ったような形跡はどこにもない。
その意味を勝手に察した若者たちは、口々に蔑む声を上げた。
「マジでああは、なりたくねーよな」
「いつまで、しがみつくつもりなんだろうな、討伐料泥棒様は」
「俺なら恥ずかしくて、とっくに引退してるぜ」
聞こえてくる声に対し、トールは無表情のまま見返した。
その目には羞恥や不快を示す感情は、いっさい浮かんでいない。
ただそこにあったのは、厳しい風雪にさらされてきた男の眼差しだった。
トールの視線に気づいた若者たちは、顔を見合わせて押し黙る。
それから無理やり話題を変えるように、今日の戦果について楽しげに話し始めた。
しばらく待つと、トールの順番がまわってきた。
緑色の制服を着た受付の窓口嬢は見慣れぬ女性であったが、トールはいつも通り背負い袋を開いて細巻き貝を一本ずつ確認しながら取り出す。
その様子とトールの後ろに伸びる列を交互に見ながら、やや吊目の受付嬢は苛立つようにカウンターを長い爪で叩く。
最後に尖った角を一本添えたところで、受付の女性は不満げに下唇を突き出しながら貝殻の一つを無造作に手にとった。
「これ、なに?」
首元の緑色の縁取りのプレートを一瞥した受付嬢は、トールに語尾をやや上げて威圧するように尋ねてくる。
冒険者局の職員は、高ランクの元冒険者が大半だ。
そして残りは、その世襲や縁故採用で占められている。
そういった特権に与った人間ほど、得てして現場で働く人間を見下しがちになる。
「場所、間違ってない? ここ討伐査定の窓口なんだけど」
スライムは討伐した証拠となる部位がないために、体液の入った細巻き貝三本分で一匹倒した証となる。
もっともこの街でスライムを狩ってるのはトールぐらいしかおらず、この窓口の担当が初めてらしき女性が疑問を呈するのも無理はなかった。
「変な物とか入れてないでしょうね?」
受付嬢はトールの説明を待たずに、いきなり貝殻の栓を抜いてしまった。
止める間もなく傾いた細巻き貝の口から、茶色の粘液が溢れ出す。
滴り落ちたそれは、置いてあった書類の束の上を粘つきながら広がった。
その様子に受付嬢は、貝殻の容器を手放し大きな悲鳴を上げる。
「キャア! なによ、これ!」
「おい、どうした?」
「お前、なにやったんだ?!」
後ろに並んでいた男たちが、女性の叫びに気づき詰め寄ってくる。
とっさに肩めがけて伸ばされた男の腕を、トールはわずかな空隙を作って躱す。
さらに腰元に飛びかかってきた男を、一歩引いて鮮やかにやり過ごした。
避けられた男たちはカウンターにもろにぶつかり、苦痛の呻きを漏らしながらうずくまる。
警備員を呼べと誰かが叫び、騒然となりかける中、唐突に割り込んできたのは慌てた女性の声であった。
「ちょっとちょっと、いったい、なにがあったの?」
「あ、エンナ先輩!」
奥から現れたのは、ぽっちゃりとした体型の女性だった。
美人とは言えないが、愛嬌のある顔立ちをしている。
エンナと呼ばれた女性は騒ぎの元となった細巻き貝の容器と、受付嬢の顔を交互に見て、即座に状況を理解したようだ。
あきれたように、肩をすくめてみせる。
「また、やらかしたの? マリカちゃん。あ、トールさん、いつもありがとうございます」
「えっ、だって……これ」
「スライムの粘液は扱いに注意しなさいって、ちゃんと教えたでしょ」
「いいえ、聞いてません」
「まーた、それ。ここは私がやるから、奥で始末書、書いてきて」
「えっ、私は悪くありませんよ!」
「いいから、もう行った行った。ちょっとした行き違いがあったみたいです。お騒がせして、ごめんなさいね」
顔馴染みの受付嬢は不満顔のマリカを追い払い、まだ痛みに顔をしかめている男どもに謝罪して事態をあっさり収拾する。
トールに黙礼したエンナは、まず被害の拡大を防ぐべく封の開いた細巻き貝を拾い上げようとした。
それを遮るようにトールの手が伸び、先にこぼれた液体に触れる。
次の瞬間、ぶちまけられたスライムの体液は跡形もなく消え失せていた。
何事もなかったかのように液体が貝殻に収まっている状態に、エンナは唖然とした表情になる。
が、またも何が起こったかをすぐに理解して、トールに満面の笑みを浮かべてみせた。
てきぱきと持ち込まれた品物を数え、査定書にトールの名と金額の明細を書き込みポンとハンコを押す。
「はい、確認させていただきました。しめて角モグラ一匹と森スライム五匹の討伐、それと粘液十五本ですね。どうぞお受け取りください」
差し出された会計皿に乗っていたのは銅貨九十五枚。
日雇い労働者の日給が銅貨二百枚ほどなので、割りに合ってるとはいい難い。
だがトールは無言で受け取って、腰帯に吊るした小袋に報酬をしまった。
「ありがとうございました。あの子にはよく言い聞かせておきますから、許してあげてくださいね」
エンナ嬢のとりなす言葉に対し、トールは顎を軽く掻いてみせた。
査定窓口を後にしたトールは、次に冒険者局に併設された買い取り所へ向かう。
買い取り所は討伐されたモンスターの死骸を買い取って、解体し卸売する場所だ。
中に入ると独特の臭いがムッと鼻につく。
広い所内には解体用の机が並び、前掛けを血で汚した職員たちが切り分け作業にいそしんでいた。
そのうちの一人、額から角を生やし小柄でガッシリとした男性が、トールに気付きカウンターに近寄ってくる。
「いらっしゃいませ、トールさん」
顔見知りの職員に頷きながら、トールは腰に下げていた角を切り取り済みの角モグラの死骸を手渡す。
角モグラとは、瘴気に侵されて怪物化したモグラである。
鼻先が角のように堅く尖り、体も中型の犬ほどの大きさまで変異して、獲物を感知すると地面の下からいきなり襲いかかる習性を持つ。
そう聞くとなんだか強そうではあるが、見習い向けの小鬼の森ではスライムに次ぐ扱いだったりする。
「相変わらず綺麗に仕留めてますね。これなら皮もきれいに剥げますから、本当に助かりますよ」
通常、モンスターは武技や魔技のスキルによって倒されるため、焼け焦げたり派手に切り裂かれた死骸となる。
だがトールの持ってきたモグラは顔面のみに殴打痕が集中しており、非常に損傷の少ない状態であった。
「いつも通りでよろしいですか?」
無言で顎の下を掻くトールに、職員は梱包用の葉で包んだ解体済みの角モグラの肉を手渡した。
背負い袋にしまったのを見届けてから、銅貨三枚を差し出す。
角モグラ一体の買い取り額は銅貨五枚だが、肉や皮を分けて買い取ってもらうのも可能であった。
「あと、いつものオマケです」
職員がカウンターにこっそり置いた葉包みへトールが右手を伸ばした時、不意に誰かの声がかかる。
「それはいったい、なんだね? サルゴン君!」
「主任!」
「一部の職員が買い取った品を不正に横流ししていると報告があったが、君がまさかそんな恥知らずな真似をするとはな」
声を荒らげて近づいてきたのは、皆と同じ白い前掛けを着た赤毛で色黒の男だった。
もっとも男の衣服は、汚れ一つ見当たらなかったが。
横から包みを奪い取った男に、サルゴンは慌てて内訳を語る。
「誤解です、主任。それ、廃棄予定の部分なんです」
「なぜ、そんな物を渡す? くだらないウソをついても為にならんぞ」
「ト、トールさんからご希望があったので」
疑いの眼差しを向けながら、主任と呼ばれた男はカウンターの上に包みを広げた。
中から出てきたのは職員の言葉通り、食用に適さない角モグラの骨と臓物であった。
険しい顔をしながら包みの中身とトールの顔を交互に見比べていた赤毛の男は、首元の緑色のプレートに気づいて不意に納得がいったのか嘲るような表情に変わった。
「ああ、そうか。お前、泥漁りとか言われてる奴だな。なるほど、食い詰めて乞食に成り下がったというわけか」
すっかり興味をなくしたのか、男はおもむろに懐から煙管を取り出して火を着けた。
わざとらしく煙を吐き出しながら、トールを無視して職員へ声を掛ける。
「ま、今回はくれてやろう。捨てる手間が省けるしな。だがな、サルゴン君。品位を持たない人間を、相手にしててはキリがないぞ。もう、こういうことは、これっきりにしたまえ」
「……わかりました」
気がすすまない顔で返事をしながら、サルゴンはこっそりと目配せをした。
その意味に気づいたトールは、葉包みを無言で持ち上げる。
「そもそもだな、誇りを失った輩などに生きる価値なぞない。そう思わんかね?」
「はい、ごもっともです、主任」
買い取り所から退出したトールは、背負い袋を担ぎ直して大きく息を吐いた。
そしてようやく帰路に向けて歩き出す。
背後からはまだ、赤毛の男のかん高い声がかすかに聞こえてきていた。