6-見知らぬ場所
――水面
一瞬の忘我ののち、俺は池の水面に顔を出した。
やれやれ、危なかったぜ。なんとか巻き込まれずにすんだな。
人が集まってくる前に……
「ン?」
異変を感じた。
何だこりゃ? 足がつく。……というか、腰ぐらいまでの水位しかない。この池、こんなに浅かったっけか? それに足元は泥でなく、平板な石が敷き詰めてある様だ。それに六月頭にしては、ずいぶん水が冷たいな。井戸水みたいだ。
一体どういう事だ?
周囲を見回す。
目の前にはコンクリの護岸ではなく石の縁石がある。それに池も小さい。見る限り、12畳ほどの大きさか。遥かに大きかったハズだが……。
周囲には、木の柵と、植え込み。そして東屋らしきもの。そして、何らかの彫像。俺がいるのは背中側なのでよくわからないが、長い髪が見えるところからしてどうやら女の彫像の様だ。
「何だ? ここは……」
先刻飛び込んだ池には、こんなモノはなかった。周囲の情景も、全く違う。
一体何が起きている? それに池に落ちたはずの1BOXカーはどうなったんだ?
訳が分からない。途方に暮れ、空を見上げた。
と、満月が俺を見下ろしていた。
ン? いつの間に晴れたんだ? ついさっきは落雷すらあったんだがな。
それにしても、ずいぶん月が高いところにあるな。月が中天にかかるまでにはまだ3時間ぐらいはあるはずだ。いや、それよりも高いな。メキシコで見たのと同じぐらいの高さかもな。
……ああ、そういえば聞いたことがある。頭に強い衝撃を受けた場合、一時的に記憶を失う事もあるそうな。俺達格闘家の中にも、頭部を強打したために記憶が飛んだヤツがいるって話だしな。
多分波に飲み込まれた時に頭を打ち、何らかの理由で今その記憶が……
いや違う。服が池に飛び込んだ時のままだ。リュックもある。肩や脇腹の怪我も、痛みは治まりつつあるものの、残念ながら健在だ。
ってコトは、あれからそんなに時間が経ってないってコトだよな。
スマホは……壊れてないな。防水機能付きので良かった。で、時間は……やっぱりか。あれから時間は経ってはいないみたいだ。
あとは、ここがどこかという事だが、地図は……『GPS信号が見つからない』と出た。それに圏外になってるか。う〜む、やっぱり壊れてるのか? まぁ、時計はちゃんと動いてる様だが……。
とりあえず、誰か……
と、背後で水音と共に人の気配がした。
あの連中か? それとも……
振り返る。
池の中央、彫像の向こうに人影が見えた。
気配を殺し、近付く。
「……!」
見えたのは、白いゆったりとした服を着ている栗色の長い髪の女。
腰の辺りまで水に浸かり、像に対して何かを祈っている様にも見える。
……どういう事だ? ここは宗教施設?
ここを照らしているのは、電灯ではなく松明のような揺らめく灯りだしな。
とはいえ、仏教の寺でもキリスト教の教会でもない。そういえば、向こうに見える建物は、中央アジアやペルシャあたりの寺院にも見えなくもない。
まさか、イスラム教? いや、偶像崇拝してるところからして違うよな。
それとも新興宗教か?
う〜ん、宗派はわからんが、おそらく在日外国人向けの宗教施設ってところか? あの女からして、日本人ではなさそうだしな。
にしても、あのあたりにこんな大規模な宗教施設なんてあったっけか?
などと考えていると、女は顔を上げた。
そして何かを探す様に周囲を見回している。
マズいな。
そっと離れようとし……
「〜〜〜〜!」
女の声。何を言っているのかは分からないが、俺に向かって呼びかけたのは明白だ。
見つかった⁉︎
恐る恐る背後を振り返る。
と、先刻の女が俺を見つめていた。
十代後半から二十歳あたりだろうか? あどけなさを残した、やや彫りの深い整った顔立ちだ。どことなく近寄りがたい雰囲気がある。身体はゆったりとした服を着ているため為はっきりとは分からないが、それでも女らしい凹凸のある肢体である事が見て取れる。まるで彫像の女神のようにも思える。
しかしその目は……真っ赤に充血していた。
泣いていたのだろうか? 一体どうしたというのだろうか。
いや、それどころじゃないな。俺は何とかして弁解し、この場を逃れなければ。
せっかく連中から逃れたのに、不法侵入者として逮捕されたんじゃ死んでも死に切れん。
「すまない、俺は……」
弁明しようとし……
先刻の言葉が日本語ではなかった事を思い出した。その容姿から考えるに、おそらく外国人旅行者だろう。しかし、どこの国の言葉かは分からなかった。日本語、英語、スペイン語は話せるが、それ以外となると……
「ア……コンニチハ?」
片言の日本語。
「こんにちは。いや、今はこんばんはか」
俺の言葉に、彼女は微かな笑みを浮かべた。
そして口中で何やらつぶやき、片手を妙な形――強いて言えば仏像の手のような形か――にする仕草を見せた。
ん? 何を?
と、その直後、彼女の指先に微かな光が灯った。
そして、
『“念話”』
頭の中に、“声”が響く。
「な……何だ⁉︎」
『“念話”という呪文を使って話しかけています。異郷の方、あなたは“ニホン”という国から来られたのですか?』
じゅ……呪文⁉︎ どうなってるんだ? 何が起きた⁉︎
『異郷の方。ここは、あなたのいた“チキュウ”とは異なる世界です。ここでは、“チキュウ”には無い魔法が存在する世界なのです』
「異世界、という事か」
地球とは異なる世界。あまりに荒唐無稽な話だが、この“念話”やらの事を考えるに、信じざるをえまい。
それにしても、何故“日本”や“地球”を知っているんだ?
『それは……かつて“チキュウ”からやってきた人がおられるのです。あの方も……』
「なるほどな。俺は日本人だよ。ところで、あの方って……」
『あの方は……』
彼女が口を開く。
が、そこで彼女の顔が歪んだ。
その瞳からは大粒の涙が溢れる。
「お、おい……」
どう声をかけたものか。
“あの方”とやらは、この女と相当親しい間柄だったのか? そしてこの涙は一体?
だが彼女はすぐに涙を拭うと顔を上げた。
『だ……大丈夫です。そ、それより貴方、お怪我をされていますね?』
「あ、ああ……」
『では……“治癒”』
彼女の指先から、また淡い光が溢れる。と、それは俺の肩や脇腹へと流れ込んでくる。
「な、何が⁉︎ ……おっ?」
傷の痛みが引いていく。見ると、傷口がふさがっていた。疼きは残っているものの、動くのに支障はなさそうだ。これが魔法の力ってヤツか?
『ええ。今は“儀式”で力を使ってしまったのでそれぐらいしか出来ず、申し訳ありません。もうしばらくこの泉に浸かっていれば、少しずつ傷は癒されていくはずでず』
「いや……それでもありがたい。にしても、“儀式”とは?」
『それは……』
彼女が口を開いた直後、
「〜〜〜〜!」
彼女とは別の女の声が、俺の耳朶を打った。
そちらを見ると、数人の女たちがめいめいに武器を持って駆け寄ってくる。剣やら槍やら……。銃はないようだな。にしても、ずいぶん物騒な。そういう武器が健在の世界なのか?
そして彼女達の目には、明らかな殺気が宿っていた。
間違いなくターゲットは……俺。
「げっ……」
いかん。逃げねば。
『あの、チキュウの方!』
先刻の女の声。
彼女は後から来た女達にも何やら叫んでいる。だが、殺気立った女達の耳には届いていない様だ。
そうか。あの近寄りがたい雰囲気……。おそらく彼女は要人なのだろう。その彼女の沐浴中に乱入してしまった男。どう考えても曲者だな。
彼女にはもっと話を聞きたかったが、今はとりあえず退散だ。
俺は右も左もわからぬまま走り出した。