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施餓鬼会  作者: 霜月透子
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昭和五十五年八月十五日

「さっちゃん、今日もお母さんのお手伝いかい? えらいねぇ」


 磐田さんが小さな手に図書室の鍵をそっと乗せると、パタパタと足音が遠ざかって行った。


 もう母親と過ごすより、友達とのおしゃべりの方が楽しいのだろう。娘の成長を嬉しく思うと同時に一抹の寂しさが巣食う。

 あの子が私を必要としなくなったら、私は誰にも必要とされない存在になってしまう。

 既に和憲さんの心を求める気にはなれない。でもあの子が成人するまでは我慢しなくては。幸いにして生活費だけはきちんと入れてくれるから、家政婦の仕事だと思ってこなしていればきっと大丈夫。

 あの子がいる限り、私は大丈夫。


 突如サイレンが鳴り響いた。


 甲子園の試合開始の合図かと思ったが、用務員室のラジオは黙りこくっている。


「正午だな」


 磐田さんが呟く。


 ああ、終戦記念日か。

 八月十五日正午といえば玉音放送が行われた時間。前に住んでいたところでは鳴らされなかったサイレンを、この街では学校や役所などが一斉に鳴らす。

 神妙な面持ちで手を合わせる磐田さんを見て、私もそれに倣う。


 私は戦争を経験していないけれども、終戦後の混乱期は多少知っている。

 お米は配給制だった。でも配給で貰えるお米はわずかで、みんな高いお金を払って闇米を買っていた。うちにも定期的にお米屋さんが来た。どこか田舎の方から船で渡って来ていたのだと思う。近所に新聞社に勤めるお金持ちのおうちがあって、そこにお米を売りに来ているらしかった。その売れ残りを顔見知りにだけこっそり売りに来るのだ。だからいつも玄関でも勝手口でもなく、縁側に回っていた。

 そんな主食を買うのさえままならない時代だった。


 けれどもそのことを特に辛いと思ったことはない。一部のお金持ちのおうち以外はみんな揃って貧乏だったから。両親が揃っているだけでも恵まれている方だった。


 薄眼を開けてみると、磐田さんはまだ手を合わせていた。私もまた目を閉じる。

 なにに祈っているのかわからない。米兵が当たり前のように町内をジープで走っていたあの時代は遠く過ぎ去っている。

 かまぼこ兵舎があった土地は大きな公園となり、脱脂粉乳の給食は牛乳に変わっている。咲が生まれた数年後に沖縄が返還され、もう戦後とは言えない時代になっている。服だって仕立て直しの更生服やお下がりじゃなくて、新品の既製品を着せてあげられる。咲は今日もお気に入りの白いワンピースを着てご機嫌だった。


「今日のさっちゃんは随分と懐かしい服を着ていたねぇ」


 磐田さんはいつの間にか黙祷を終えていた。


「懐かしい服、ですか?」

「ほら、あの赤いワンピース。松尾さんの子供時代の服かい? 物持ちがいいねぇ。感心感心。最近の若いもんはすぐ新しいものを――」

「ちょっと……赤いワンピースはうちの子じゃ……」

「え、だってほら、黄色いヒヨコだかアヒルだか縫い付けてある……」


 ああ、なんだ。やだわ、磐田さんったら、勘違いしているんだわ。


「それは、さち子ちゃんですよ」

「おお、だから、さっちゃんだろ? わかってるさ。今日も親子で仲良く手を繋いで来たじゃないか」


「……?!」


 さっちゃん?


 磐田さんが言っているさっちゃんって誰?


 私は今まで誰の母親をやっていたの? 


 私の娘。咲。咲。咲。


 私は図書室に向かって走り出した。

 ペタンペタンとまぬけな音を立てるスリッパがもどかしく、走りざまに後ろに蹴り上げて裸足で走る。

 日の当たらない廊下はひやりと冷たく、暑さに淀んだ血がみるみる澄んでいく気がする。


「あ。お母さんだ」


 私の足音を聞きつけ、図書室のドアが内側から開けられる。赤いワンピースが抱きついてくる。


「なにしてたの? おそかったね」


 白いワンピースの娘の姿を探す。窓際の書架の前に座り込んで次々と本を手に取っては棚に戻し、手に取っては棚に戻しと繰り返している。興味のある本は読み終わってしまい、次のお目当てを物色中なのだろう。


「さきっ!」


 両足に抱きつかれて動けないまま、ドア枠に手をかけ、精一杯の前傾姿勢で娘の名を呼ぶ。


「さきっ! 返事をしなさいっ!」

「どぉしたの? 顔、こわいよ?」


 足と腰にしがみついたまま、のんきに私を見上げてくる。


 なんて馴れ馴れしいの。私としたことが。この子と我が子を間違えるなんて。いったいいつから? 信じられない。間違えようがない。この子は私の子じゃない。


 咲は一冊の本を選び取り、閲覧席の椅子を引いた。


「ねぇってば~」


 なおも甘えてくる足元の子を抱き上げる。なにを思ったかきゃっきゃと嬉しそうに声をあげている。


 なによ、ちょっとおかしいんじゃないの、この子。


 親もどうかしている。いつも同じ服を着させて。しかもこんな古臭い服。髪型だって、なにこれ。今どき刈り上げの女の子なんていじめて下さいっていっているようなもんじゃないの。


 この子はなにかおかしい。なんで今まで気付かなかったのだろう。早くこの子を咲と引き離さなければ。


 抱きかかえて廊下を走る。痩せっぽちのせいか、ものすごく軽い。


 小脇に抱えて鉄のドアを大きく外に開く。


 途端にミンミン蝉と油蝉の声が重なり合い、それはまるで焦熱地獄の阿鼻叫喚を思わせその不快さに頭皮からつま先に至るまで鳥肌が立つ。ぞわぞわした痺れが目や耳や鼻や口などあらゆる穴という穴から体内へと潜り込む感覚は虫がざらつく足で這い回る感触にも似て裸足で踏みしめる地面はコンクリートから土に変わりその湿り気はじとりと肌に沁み込んで体内の得体の知れぬ無数の虫たちの食餌となり次第に変化する姿態はくねくねと艶めかしくもあり私の肢体臓腑をむしゃりむしゃりと食い荒らす。そして――


 ――やがて、食い尽くす。


「ねぇ、なにするの?」


 腕の中で怯えで震えた声がする。ああ虫唾が走る。


「なにする? こっちの台詞だわ。あんたこそなんでそんなに馴れ馴れしいのよ。気持ち悪いわ。うちの子でもないのに」


「……なんで、そんなこと言うの?」


 しおらしさを装うことで気を惹けると思ったら大間違いよ。そんなのは幼いうちだけ。若いうちだけ。見慣れてしまえば飽きられるのよ。


 ジリッと焦げる音がしそうな熱さが腕を掠めていく。揺蕩(たゆた)う熱に浮かされて、こんなはずじゃなかったと繰り返す。こんなはずじゃこんなはずじゃこんなはずじゃ――。


 声を発しなくなった腕の中の子を見れば、古臭い薄汚れた赤いワンピースを身に(まと)うセルロイドの人形。


 ふっ。ばかみたい。人形じゃないの。こんなのを大切なものと取り違えるなんて。暑さにやられておかしくなっているんだわ。


 こんなものさっさと捨ててしまえばいいのよ。すっきりさっぱりきれいに。

 そうよ、もうすぐ和憲さんが出張から帰ってくるじゃないの。急いで身の周りは整えておかなくては。


 またもやジリッと焦げる音がしそうな熱さが腕を掠めていく。


 見れば焼却炉が燃えている。四角い小さな蓋は開け放たれ、メラメラと朱に揺らめく炎の熱が私の腕の表面を撫でている。


 さあよこせ。


 そうね、燃やしてしまいましょう。


 私はセルロイドの人形を焼却炉に放り込んだ。


 一気に無数の朱の触手が赤いワンピースに伸びてきて、ブワッと一声吠えて全身を包み込む。セルロイドがどろりと熱に溶けて表情が動いたようにも見える。口がパカッと開く。




「ママ……」




 ――え?




 世界がぐるりと裏返った。灼熱の夏は忽ち極寒の地の底に。







 白いワンピースの娘が走ってくる。


「このワンピース似合う? とっかえっこしてみたのよ?」


 この子は……誰?




「ねぇ、お母さん」




 焼却炉でぱちりとなにかが爆ぜた。



 硫黄を思わせる甘い腐臭に似た風が生温く漂っている。









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