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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

意気地 ― 犬ころ浪人始末 ―

作者: ラカニト




 ※注意


 食事時に読まないで下さいませ。


 後半に汚い表現が少しございます。


 前半だけなら大丈夫。





 





 真夏のお天道様と申しますのは大変暑うございます。笠を被るなり駕籠に乗るなりいたしませんと、それはもう大変なことになってしまいます。

 大道で商いをしております者達も、被り物をしなければ音を上げてしまう日が続いておりました。


 霊験あらたかなお稲荷様の前は、いつも参詣人で賑わっております。

 そこへと通じる並木道をぶらぶらと歩いて行く者達がおりました。


「ねえ旦那、助けておくんなせえ」


「わからん。頷くわけには行かぬ」


 ひとりは着流し姿の町人で、もうひとりは浪人といった風体でございます。

 木陰を縫うようにして歩いておりますけれど、二人とも既に額に汗をかいております。


「闇討ちならおぬしの手下の者で充分だろうが」


「相手は二本差しなんでございやす。旦那にはそいつを黙らして貰うだけで結構なんですよう」


 着流し姿の男が必死に浪人を口説いているようでございます。

 浪人の答えが芳しくないもので、男は余計に汗をかいているようでございました。


「だからそんな痩せ浪人に縋る必要なんてないって言ってんだろう?」


 不意に木陰から現れた女が声を張り上げます。女は大道芸を生業にしているようで、小柄な体に軽業師らしき出で立ちをしておりました。

 髪を一本に結んで垂らし、とんぼ返りを決めれば映える装いでございます。


「お志摩はそう言うけどさあ、万にひとつも斬り合いになっちまったらまずいんだよう」


 今度はふくれっ面を見せる女に対し、汗水たらして説明を始めます。


「だったらなおさら、痩せ浪人なんぞに頼む気が知れないねえ」


 お志摩と呼ばれた女は不満そうな表情を隠さず、啖呵を切りつつ横目で浪人を睨みつけました。




 我関せずといった様子で涼しい顔をしております浪人、名前を犬子辰之進と申します。もちろん偽名でございます。

 ふた月ほど前に小唄の師匠に拾われ、その後色々とございました。

 今は師匠の情夫として師匠の家に転がり込んでおります。野良犬のように拾われたので、犬子と名乗り始めた次第でございます。


「その子猿の申す通りではないか」


「なんだとぉ、この痩せ犬がっ! もういっぺん言ってみろってんだ」


 お志摩は犬子浪人の挑発に簡単に乗ってしまいます。なりは小柄ですが中身は充分大人でございます。

 そのはずなのですが、どうも犬子浪人とは相性が悪いようで、懐手の衿を掴んで食ってかかります。まさに犬猿の仲といったところでございましょうか。


「お志摩っ、落ち着いてっ、落ち着いておくれよう」


 汗水たらして割って入る着流し姿の町人、名前を仁吉と申します。

 この辺り一帯を縄張りとする香具師の元締めの、懐刀といった塩梅の配下でございます。

 犬子浪人とは師匠を巡るごたごたの渦中に顔見知りとなりました。それ以来、犬子浪人を仲間に引き込もうと、悪戦苦闘を続けているのでございました。


 三人はもつれ合うようにしながら稲荷前の茶店へと入って行きます。

 仁吉はこの辺りの顔でございますので、目配せするだけで話は通じます。茶店の隅に場所を確保すると、葦簾の陰でようやくひと息入れることができました。


「お志摩は旦那が本気出したところを見てないから、きちんと分かっていないんだよ」


「分かるも糞もないだろう? 二本差しって奴ぁおんなじ生き物なんだよ。向かい合えば刀を抜かずに済むわけがない」


 仁吉はお志摩の剣幕にいい加減うんざりとしております。




 さて、このお志摩。仁吉の差配で大道芸を生業とする一方、仁吉の仕事も手伝っております。探りから荒事まで何でもこなし、手下の中ではかなりの腕利き。

 荒事と申しましても、さほど剣呑なことをするわけではございません。脅し、意趣返しの類いでございます。

 時には男をたらし込むような役目もいたします。なりは小さくとも立派な女でございました。

 歳は数えで十九だそうで、子供扱いされては噴き上がるのも致し方ございません。


 お志摩に一方的に噛み付かれております犬子浪人は、涼しい顔で茶など啜っております。

 この男は争い事に興味があるやら無いのやら、お志摩と仁吉のやり取りを面白そうに眺めておりました。


「小唄の師匠の件だって、端っからあたしが仕掛けてりゃ万全だったんだ。仁吉の差配が足りなかったんだよ?」


 お志摩の鼻息は荒くなるばかりでございます。

 仁吉はしかめっつらをして天を仰いでおりました。


「ならば果たし合うてみるか?」


 にやりと笑った犬子浪人、さらにお志摩を挑発いたします。


「なんだとぉ? やってやろうじゃないか。あたしが勝ったら四つん這いで三べん回って鳴くんだよっ!」


 お志摩はすっくと立ち上がり、顎を突き出し見得を切ります。

 仁吉はがっくり俯くと、我が手で顔を覆ってしまいました。



 さてさて此処は、荒れ寺の境内でございます。あちらこちらに草が伸びたりしております。

 お志摩の得物は棒手裏剣でございます。やたらに太い鉄釘のような、角型の棒でございますな。

 女の手の平に馴染む物ですので小さい物ではございますが、急所に当たればただでは済みません。


 障害物が多いとお志摩が一方的に有利となりますので、開けた場所を選んだ次第でございます。




 至近距離でひと太刀浴びせられる間合いに入れば犬子浪人の勝ち。手裏剣を三本当てれば、その場所を問わずお志摩の勝ち。

 ちなみに手裏剣が尽きた場合は勝負無しでございます。

 普通に考えてお志摩のほうが有利ではございますが、はたして結果はどうなりますやら?


 犬子浪人は端から刀を抜いております。仁吉の合図とともに猛然と駆け出しました。

 お志摩のほうも慌てず騒がず、棒手裏剣を放って行きます。一本目を避ける方向を見越して、連続で二本目を放つような撃ち方でございました。

 ですがそういう攻撃は先刻ご承知。犬子浪人はジグザグに稲妻模様を描くような走り方で、紙ひと重でかわしながら迫って行きます。

 時には刀が火花を散らし、鋭い音を立てておりました。


 これはまずいとお志摩のほうも、後ろへとんぼを打って逃げます。しかしこれは失策でした。

 真っすぐ距離を詰めた犬子浪人は、一気の踏み込みで渾身の突きを放ちます。

 お志摩の放った手裏剣が犬子浪人の左肩へと刺さったとき、お志摩の左肩の一寸上の空間を浪人の刀が貫き通しておりました。


「毒でも仕込んであれば、相打ちであったな」


 犬子浪人はそう言うと、にやりと笑って刀を収め、静かに踵を返しました。


「くっ……煮るなり焼くなり好きにしろっ!」


 お志摩はその場にあぐらをかいて、真っ赤な顔で吠えております。


「子猿を嬲って何が楽しい」


 犬子浪人の声は思いの外冷たいものでした。


「あたしは子供じゃないっ、良く見やがれっ!」


 お志摩は猛然と立ち上がると衿を抜き、左右に大きく開いて見せます。

 さらしでしっかりと巻いてありますが、背丈に似合わない大きな胸乳がございました。




 犬子浪人は一瞬ちらりと振り向きましたが、鼻で笑うとひと言呟きます。


「お里の足下にも及ばぬな」


 お里というのは犬子浪人の情婦である小唄の師匠の名前でございます。そのまま仁吉のほうへと歩いて行きます。

 はらはらしながら勝負を見守っていた仁吉は、さらしを手に犬子浪人へと駆け寄りました。左肩の手裏剣を抜くと、傷の手当てを始めます。


 さて、惨めなのは敗れたお志摩でございます。

 勝負は完全にお志摩の負け。相手はきちんと急所を狙い、さらにわざと狙いを外す余裕さえありました。

 その上、自分は取るに足らない存在だと愚弄され、おまけに他の女と比較されて鼻で笑われたのでございます。


「ちくしょうっ!」


 渾身の叫び声も、ねぐらへと帰る烏の鳴き声に、馬鹿にされるだけでございました。



 あくる日、再び稲荷前の茶店の奥で三人は膝を突き合わせております。

 と申しましても、お志摩はひと言も言葉を発しません。目の下にひどい隈をつくり、どんよりと曇った表情をしております。

 思いの外重症なようで、仁吉は内心がっくりと肩を落としておりました。


「ともかく箱根の関を抜けるまでの勝負なんでございやす」


 気を取り直して話を続ける仁吉でございます。


「遠州へ入られちまうと、ちいとばっか厄介な話になっちまうんでさあ」


「されど真っ昼間に仕掛けるわけにも行くまいよ」


 今日は真面目に話を合わせている犬子浪人でした。


「そこんとこは人を使って一か八か追い立てやす」


 きりりと表情を引き締めると、なかなかの色男ぶりな仁吉でございました。




 そもそも彼らは何を話しているかと申しますと――。


 ある長屋に大工の夫婦者がおりました。女房は着物の仕立てや直しをいたしまして、家計を支えるしっかり者でございます。

 大工は酒癖が悪うございました。さらに怒ると頭に血が上るたちでございます。それ以外は仕事の腕も確かな、親方にも可愛がられている大工でございました。


 ある日のことでございます。直しの終わったお着物を届けに行っているはずの女房が、いつまで経っても戻って参りません。大工はおろおろとしておりました。

 日も暮れてようやく帰って参りますと、どうも様子がおかしい。問い詰めますが泣き伏すだけで何も答えません。押したり引いたりしている内に夜も更けてしまいます。

 明け方にようやくぽつりぽつりと語りますことには、駕籠に乗せられ運ばれた届け先のお店の寮で、そこの若旦那と手代らしき使用人に手籠めにされ、さんざん嬲り者にされたとのことでございます。


 頭にかあっと血が上った大工は、長屋の連中が皆で引き留めるのを強引に振り切ります。そして問題のお店へと駆け付けると、店先で大声を出してわめき立てたのでございます。

 決して店の品物に手をかけるようなことはいたしません。しかし仰天したのはお店の主や奉公人達でございました。

 なんとか大工を落ち着かせようとなだめますが、火に油を注ぐばかり。やじ馬も人だかりになり始めた頃、地回りの親分さんの登場となりました。




 この大工、親分さんの言うことも聞きません。仕方なく引っ括って番屋へと引っ立てることになります。

 引っ立てられる間も事の仔細をわめき続けております。やじ馬共も事情を理解し、うなずき合いつつひそひそと噂話をしておりました。

 お店の主の面子は丸つぶれ、お店の評判も地に落ちてしまいます。さらに大事な跡取り息子が獄門にかけられるかも知れません。


 大工は羽織り十手の旦那の調べにも同じ事を申し立てます。こと此処に到ると内々に処理するわけにも参らなくなりました。

 お店へと出向き、主を呼び付けると口書きを取り始めます。

 主の申しますことには、倅は小田原の知り合いへの用事で出掛けている。寮になんぞ居るはずがない。飛脚に手紙を持たせて呼び戻しました。そんな話でございました。


 さて、お上の調べはとんとんと進みます。確かに寮はもぬけの殻。しかしそれだけでは足りません。

 一方で若旦那から着物の直しを承った呉服屋は、直しが上がる日を後から聞かれて教えておりました。これはひょっとすると……という話も出てしまいます。

 少ない人数で手分けをして、駕籠屋を片っ端から当たります。


 ところが此処からが手妻のようなありさまでございました。

 大工の女房は確かに迎えの駕籠に乗ったと申します。女房がここではないかと言った駕籠屋は全て首を横へ振ります。他の駕籠屋も全て同じ結果でした。

 駕籠かき共にも確かめましたが、そんな寮へと行った者はおりません。

 大工の女房を乗せた駕籠はとうとう見つかりませんでした。




 さてこうなりますと、てんびん秤はぐぐっと反対側へと傾きます。

 そうこうしている内に若旦那とお供の手代が戻って参りました。神妙に番屋へと出向いて参ります。

 若旦那と手代の話はお店の主の口書きと変わりません。大工の女房は確かにこの二人だったと申しますが、風向きはすっかり変わっておりました。


 お上の調べは東海道まで足を延ばします。若旦那が泊まったという宿の宿帳を改め、行きは徒歩でしたが帰りは駕籠に乗りましたので、駕籠屋へ聞いて廻ります。

 若旦那の話は一応の裏が取れたのでございます。こうなると大工の訴えは絵空事と消えてしまいます。

 お上の裁きは、作り事で世間を騒がせ不届き千万というものでした。大工の夫婦にとっては泣きっ面に蜂となりました。


 お店の主は、大工の女房が悪者に騙され酷い目にあったのは確かなのだから、どうか寛大なるご処置をと申し立てます。しかし大工は敲きにかけられることとなってしまいました。

 大工は歯を食いしばって打たれます。その目は恨みにぎらぎらと光っておりました。

 さらに大家と町名主にも管理不行き届きのお小言がありました。とんだとばっちりでございます。


 長屋の連中は納得しておりません。駕籠に乗って出掛ける女房を見た者も居るのですから当たり前。お上のお調べは片手落ちだと怨嗟の声が上がります。

 大工の親方も怒りに湯気を立てております。正直者であることだけは保証できるのでございます。

 大家と町名主も片手落ちだと嘆くことしきり。大きな声では申しませんが、皆さんお上の裁きに不満たらたらでございます。




 女房に直しを頼んでいた呉服屋は、申し訳ないやら我が店へと飛び火しないか心配で、主が寝込んでしまいます。

 こうなるとやじ馬共が騒ぎ出します。若旦那の旧悪が次々と掘り起こされてしまいました。

 芸者を呼んで裸に剥こうとして頬を張られたとか、吉原で馴染みの花魁を他の客にとられ、代わりについた相方に酒をひっかけ、たたき出されたとか。

 とうとう手妻始末として読み売りまで売り出される始末。


 こうなってしまいますと、若旦那を店に置いておくこともできなくなります。袖の下でお上の裁きを曲げたと、もっぱらの評判となってしまったのですから。

 上方のつき合いのあるお店へと修業に出すという名目で、実質的な処払いの厄介払いとなりました。


 さて、此処で仁吉のところへと依頼が舞い込みました。起こりがどなたかは口が裂けても申しませんが、誰が頼んでもおかしくない依頼でございます。

 若旦那に赤っ恥をかかせて貰いたいという依頼でございました。命をとったり傷つけたりは必要ございません。二度と忘れられない思いをさせればよいのでございます。



「何故駕籠かきが見つからぬのか、仁吉はわかっておるのだろう?」


 犬子浪人は静かに仁吉を問い質します。


「ええと……そりゃあまあ……」


 仁吉の答えは歯切れが悪うございました。


「なればこの仕事をすれば、いずれ跳ね返ることも構わぬのだな?」


「あっしにも意地ってもんがございやす」


 今度は即答した仁吉でした。


「明日まで待て」


 犬子浪人はそう言い残すと、席を立って茶店を出て行ったのでございます。




 真夏の朝は早うございます。小唄の師匠の家では、まだ床の中でいちゃついておりました。


「お前さぁん……ん……もうっ」


 小唄の師匠のお里さんは犬子浪人にぞっこんでございます。この人が操を立てると口にするなんて、お天道様が西から昇るようなものでございます。

 決して色好みというわけではなく、誰も本気で相手にしないという意味でございます。


「おおい、辰さん居るかあ?」


 どなたか来たようでございます。


「こんな早くに『居るかあ』もないもんだよ」


 お里さんはぶつぶつこぼしながら、長襦袢を引っかけて出て行きます。


「お前さぁん、佐助さんだよお」


「おう」


 犬子浪人もお里さんの長襦袢を引っかけて起き出しました。



「辰さんおはようさん。鱸を買ってきたよ」


 着流し姿の町人が歯を見せて笑っております。すでに魚を捌いているところでございました。


「そんなたけえ魚いらねえよ。うちは鰺の干物で充分足りてるぞ?」


 犬子浪人はしかめっつらで応えます。


「まあ、刺身で一杯いこうや」


 町人は笑顔で受け流してしまいます。この佐助という町人は、お里さんの旦那様が使っている小者でございます。正確には元旦那様でございますが。

 以前は旦那様とお里さんの繋ぎ役をしておりました。今は旦那様と犬子浪人の繋ぎ役で、浪人の数少ない友達でございます。

 三人は朝っぱらから鱸の刺身を囲んで酒盛りを始めました。




 実は佐助もかなりの色男でございます。年格好、背格好とも仁吉とどっこいでございます。

 同じ色男ではございますが、面立ちや立ち居振る舞いは正反対とでも申しましょうか。仁吉は明るくお茶目で自信満々に見えます。佐助は物静かで笑顔が映える、落ち着いて優しげな男でございます。

 佐助は仕事柄、庶民の遊びは全て遊び尽くしているくらいの遊び人でございます。実は仁吉のほうが真面目な男なのでございます。

 そういえば、犬子浪人もたいして歳はかわりません。しかし色男ではございませんでしょうな。いつも眉間にしわを寄せ、難しい顔をしているような男ですので。

 三者三様でございます。しかし犬子浪人に惚れるのは、お里さんくらいのものでございましょう。


「頼まれてた話だけど、やはり食いついてた。お店に食いついてるんじゃなくて、若旦那に食いついてる」


「そうか。仁吉んとこと比べてどうだ?」


「縄張りは大きくないし金づるの上得意もいない。後ろに変なのもついてないから、今の処は仁吉さんのほうが上だな」


 二人は刺身で酒を酌み交わしながら真面目な話をしております。

 お里さんはそんな話には興味を示さず、脂の乗った鱸の刺身に舌鼓を打っておりました。


「御隠居様はいらっしゃるか?」


「うん。今日はお約束はないな。暇だと思う」


「ならお前と一緒に行くとするか」


 どうやら次の動きへと移るようでございます。佐助は調べものが得意なので、材料は出揃ったというところでしょうか。




 さて、場所は変わりましてさる大店の寮のひとつでございます。

 名前を言うのも憚られる大店でございますが、この寮で隠居暮らしをなさっているのが、お里さんの前の旦那様でございます。

 お里さんが犬子浪人に操を立てると言い出しまして、旦那様はそれを認めておやりになりました。お里さんはお暇を頂戴しましたが、その代わりに犬子浪人をお雇いになるという酔狂なお方でございます。


 雇うと言っても特に具体的な仕事はございません。身の回りのことや世情の調べは、佐助を始めとして何人かの小者がしてのけます。遠出をするときに警護の必要があれば、というくらいでしょうか。

 むしろ犬子浪人の後ろ盾になってやったようでございます。まあ、犬っころをお飼いになったつもりかも知れませんが。


 今は縁側でお茶と甘い物を頂きながら、犬子浪人と話しておられます。


「斯様な次第にござる。助太刀を求められておりまする」


 犬子浪人は仁吉の件を全て説明いたしました。


「お前さまはどう考えなさる」


 老人は聞き役になるようでございます。


「若旦那は親父殿の目の黒い内はお店の務めは許されぬでござろう。商人としては立ち行かぬも同じ。手代とて番頭に成る目は薄うござる。親父殿の卒中でも待たぬ限り、仕置きは続くものと思われまする」


 浪人は淡々と答えます。


「皆が不幸になり申した。これ以上のことは無用に思われまする」


 犬子浪人は仁吉の仕事に懐疑的な考えを持っているようでございます。




 老人は頷きながら聞いておりました。


「なぜお里は操を立てるなどと言い出したのか、分かりますかな?」


「は?」


 突然横道へと逸れたので浪人は目を白黒させております。


「お前さまの意地を見たからでしょう。あれの目の前で真っすぐに大見得を切ってみせた。その意気に惚れたんでしょうな」


「人には意地も必要と申されますか?」


「それはお前さまが一番ご存じでしょう。ほっほっほっ」


 老人は自分の孫でも見るような優しげな眼差しで、楽しそうに笑っておられます。


「お前さまの思うように動いてみなされ。あまりお里に心配をかけぬようにな。年増の恋情を見せつけられるのは、なかなかに心の臓に悪いものです。ほっほっほっ」


 老人の言葉を聞いて思うところもあったのでしょう。犬子浪人は口をへの字に結んでおりました。



「助太刀いたす」


 件の茶店で仁吉達と落ち合うと、犬子浪人は宣言いたしました。


「ただし危なくならぬ限り刀は抜かぬ。良いな?」


「もちろんで。ありがとうございやす」


 仁吉の顔はぱあっと明るくなりました。しかしお志摩のほうは相変わらずおとなしくしております。

 犬子浪人は人差し指と親指で、座っているお志摩の顎を摘んでくいっと顔を上げさせました。


「腑抜けは要らぬ。意気地の無い者は布団でも被っておるのだな」


 相変わらずの毒舌でございます。お志摩は目をぱちぱちとさせた後、顔を真っ赤にして犬子浪人の指を払いのけました。しかしなぜか目を逸らして横を向いてしまいます。


「……やるよ。やってやるよ。軽業お志摩の腕を見せてやる」


 ぼそっとつぶやくお志摩でございました。




 夜も更けた東海道の街道を、提灯をさげた駕籠が進んで行きます。前と後ろにひとりずつ、合計二人の二本差しが護衛についておりました。

 普通こんな夜中に街道を行くものではございません。よほど急ぎか理由があるかのどちらかでございます。この駕籠はその両方でございました。


 行く手に道が二つに分かれる分岐が見えたところで、直進方向にぽっ、ぽっと炎が点ります。それは脇の林の中から次々と現れるように見えました。


「くそっ、待ち伏せか。脇道を行けっ、わしが抑える」


 先頭を行く二本差しはそう言うと、真っすぐ走り出します。駕籠ともうひとりは分岐した脇道へと入って行きました。

 ひたすら駆けていた二本差しは、炎の少し手前ではたと止まります。


「うぬ。謀られたか」


 そこには人などおりませんでした。宙に吊された篝火が燃えているだけでございます。

 慌てて踵を返す二本差しの背後から、するすると黒い影が近づいて行きます。棒で殴られた二本差しはぼこっと鈍い音を立て、そのまま崩れ落ちて地面に突っ伏しました。

 林の中からさらに人影が出て来ると、二本差しの大小を奪い縛り上げてしまいます。彼らは二本差しを林の中へと連れ去ると何処かへと消えました。


 一方、こちらは脇道を行く駕籠でございます。予定よりも大回りになりますが、明け方に木戸が開くまでの間は時間がございます。逃げ切ればこちらの勝ちでございました。




 突然、提灯の灯火が何かに吹き飛ばされてしまいます。駕籠かき達は悲鳴を上げて足を止めてしまいました。それまで周りを見回しつつ進んでいた二本差しは、突然の明かりの消失にうろたえております。

 背後からするすると近づいた黒い影の持つ棒で、またしても二本差しは殴り倒されてしまいます。

 同時に林の中から湧いて出た連中に、哀れな駕籠かき達も殴り倒されてしまいました。

 残された駕籠は微動だにしません。きっと突然の異変に怯えているのでしょう。


 二本差し達を林の中へと始末している間に、黒い影はゆっくりと駕籠へと近づいて行きます。


「駕籠からおりなされ」


 闇の中に声が響きます。ごそごそ出てきたのは町人らしき人影でした。がたがたと震えております。


「命までは取らん。身ぐるみ置いて行きなされ」


 冷たい声が響きます。



 ややあって、素っ裸に剥かれた町人が背中を小突かれながら、畑の脇を歩いております。下帯まで奪われたので文字通りの素っ裸でございます。

 行く手から物凄い悪臭が漂って参ります。畑へと撒く肥やしを溜めている穴がございました。季節は真夏ですので鼻が曲がりそうになります。


 黒い覆面で頭全体を覆った男は、奪った財布の中身を全て肥やしの中へと落としました。金銀銭といったお宝が沈んでしまいます。


「おぬしの大事にしているお宝はこの中よ。己が手でさらいなされ」


「もう勘弁しておくれよ。このとおりだから」


 町人はその場に土下座して涙ながらに赦しを請うたのでございます。




 覆面の男は腰の脇差しを抜くと、町人の髷を掴んで元結のところで切り落としました。


「ひいっ」


 町人は悲鳴を上げて身をよじります。髷が崩れてざんばら髪になってしまいました。


「やめてと願うて止めて貰えるとは限らぬよ」


 男の声は冷たいものでした。


「お宝を持たぬおぬしは、どなたにも相手にされぬ。さあ、さらいなされ」


 その後のことは書かぬが鼻に良いと存じます。



 深夜の街道を犬子浪人とお志摩が早足で歩いております。

 仁吉の手下達は篝火の後始末をすると、駕籠をばらばらに壊してひと足先に江戸へと向かいました。仕事を済ませた証拠に、若旦那の着ていた物を全て持ち帰りました。

 犬子浪人とお志摩が最後でございます。二人は距離を稼ぐために先を急いでおりました。


 お志摩は今回は地味な色合いの女武芸者のような服装をしております。一本に結んで垂らした髪の毛が揺れておりました。

 腕に抱えた大小の刀を一本ずつ犬子浪人へと手渡して行きます。浪人は受け取った刀を抜くと、抜き身を水田の中へと放り込んでしまいます。


「あんた、お侍なのにいいのかい?」


 お志摩は心配そうな声で尋ねます。

 犬子浪人は少し息を切らしながら返事をします。


「さむらいは刀を抜いてやる為に居るわけではない。……ある物を遣うだけのこと。……あ奴らがさむらいなら何とかする」


 浪人は口をへの字に結んで鞘を放りました。



 二人はその後も休まず歩き、途中で駕籠を使ったりして江戸へと急ぎました。頑張れば品川宿まではたどり着けそうでしたが、川崎宿で早めに宿で休むことにいたします。

 床の上でごろごろしている犬子浪人の部屋に、お志摩がいきなり入って参りました。




 お志摩は洗い髪に長襦袢という女らしい装いで、犬子浪人も驚いて身を起こしてしまったのでございます。


「如何した」


 お志摩は問いを無視して浪人のすぐそばに座ります。もちろん正座でございます。

 思い詰めたような表情で、瞳はうるうると潤んでおりました。


「腑抜けはいらないって言ったよね? 意気地の無いやつはいらないって言ったでしょう?」


 お志摩は訴えるようにそう言うと、犬子浪人の懐にがばっと抱き着きます。


「あんた、なんで女房持ちなんだよう……」


 そう言うと、頬を押しつけぽろぽろと涙をこぼしました。

 お志摩の襦袢は衿元が崩れて抜けております。合わせ目から豊かな胸乳が姿をのぞかせておりました。


 これには犬子浪人も仰天してしまいます。お志摩に慕われている可能性など、考えたこともございませんでした。

 お里さんとは内縁関係で妻にしたわけではございません。しかし操を立ててくれた女を裏切ることなど、思ってもみなかったのでございます。


「お志摩っ、落ち着けっ、話しは聞いてやるからっ、なっ?」


 落ち着いたほうがいいのは犬子浪人のほうでございます。


「あんたに惚れちまったんだようっ!」


 お志摩はそう叫ぶと、実力行使とばかりに浪人を押し倒しました。

 体の上に乗られてしまった犬子浪人は、目を見開いて焦っております。


「あたしの口を吸っておくれようっ。こないだみたいに見つめておくれっ……軽業お志摩はあんたのものだよっ」


 お志摩さん、頑張って勇気をだして意気地をみせたのでございましょう。夜の果たし合いの結果は如何に?




 あくる日、無事に江戸まで帰り着きました。仁吉に会って若旦那の髷を渡し、礼金よりもお里さんへの手土産をねだります。

 纏わり付くお志摩を引っぺがして、ようやくお里さんの家まで戻った犬子浪人でございました。


「帰ったぞ」


 疲れた声で帰宅のご挨拶をひと声。


「お帰んなさい、お前さん」


 にこにこ微笑みながら出迎えたお里さんでしたが、その目がすうっと細められます。

 手土産を受け取り浪人の手を引いて座敷へと上がります。


「ちょいと此処へ座っとくれよ」


 自分の横のお座布をぽんっと叩きます。

 犬子浪人はやれやれどっこいしょっとあぐらをかきました。


「ねえ、お前さん。仕事でお江戸の外へ行くのは仕方ないさ。でも外で浮気してくるってのはどういう料簡だい?」


 お里さんのまなじりは吊り上がっております。


「ごっ、誤解だ。お里」


 浪人の顔も声も引き攣っております。


「あたしにはちゃあんと判るんですよっ!」


 ものすごい剣幕で顔を寄せます。でも、どうして何かあったと判るんでございましょう?

 実は、犬子浪人の首筋にお志摩の口吸いの跡が紅く残っておりました。手鏡なんぞ見ない浪人は気づいておりません。


「あたしゃねえ、つまみ食いが悪いって言ってんじゃないんだ。旅先でこそこそ隠れて浮気すんのが許せないの。お分かりかえ?」


「いや、仕方なかったのだ。押し倒されてしま――」


「そんなことあるわけないでしょうっ!」


 今度はお里さんに胸倉を掴まれ、押し倒されてしまった犬子浪人でございます。


 二人は縺れ合って口喧嘩しておりますが、そのうちいちゃつき始めるのは確かなこと。

 犬子浪人は連チャンでお疲れ様でございます。されど犬も食わない夫婦喧嘩を、犬っころがしてしまったのですから、仕方がありません。

 喧嘩するほど仲がよいとも申しますから、ねえ?


 犬ころ浪人、意気地の巻、これにて終了でございます。





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