1.5 パスコミュニケーション
前半が終了し、ハーフタイムに入った。テレビ中継も一時中断となり、コマーシャルが流れている。
前半だけで、一得点一アシストを記録した小春。全得点に貢献し、好機には必ずボールに絡む、フォワードのお手本とでも言えるような素晴らしい前半の動きであった。浦和自体も2-0の開幕戦好発進だ。
桜は近くにあったサッカー誌を見ながら畳に寝転んでいる。咲季は隣で腹筋を始めていた。
「歩くん、こっちに来なさい。ほら昼間言ってただろう、久しぶりに足見るって」
重樹はポンっと畳を叩き、隣に来るように示す。
歩は重樹の隣に座ると、足を伸ばす。その足を重樹は膝からふくらはぎ、脛そしてアキレス腱へと、ゆっくりと指で押していく。
重樹は深く鼻を鳴らした。
「ほーう」
「どうかした?」
「いや、歩くんはまだサッカー続けてるの?」
「いえドイツでは特に。体育の授業くらいっす」
その言葉に咲季の体はピクリと反応するが、歩はその様子に気付きはしなかった。
「リハビリはドイツ人に手伝ってもらったの?」
重樹の手は止まらず、口と手が同時に動いた。
「ドイツ人じゃないよ。確かスペイン人の先生だったかな」
「なるほどね」
(日本人離れした柔軟で上質な筋肉。体の内側にしっかりと筋肉が通っている感じだね。それこそスペイン人みたいな体つきだ。膝の完治どころか、更に良くなって帰ってきてるじゃないか)
歩は幼い頃、特にサッカーをまだしていた頃はよく茂樹に足をマッサージしてもらっていた。茂樹はスポーツトレーナーという職業柄、スポーツ整体には詳しい。彼はJ1の川崎フロントスでコンディショニングコーチとして務めている。
重樹は黙々とマッサージを続けた。それはまるで珍しいものを観察しているようにも見えた。
「そんなに俺の脚面白い?」
「けっこうねー、はいこれでおしまい」
重樹は足を掌で叩いた。これはマッサージが終わるといつもやる彼の癖だ。歩は足を触ってみる。血の巡りが良くなり、足が少し軽くなった気がした。
「もうしっかり完治してるね、よかったよかった。当時はどうなるか不安だったからね」
歩は小学校六年生の時に左前十字靭帯を損傷してしまった。それもかなり酷く、後一歩で断裂していた程であった。もう完治はしているが、今でもあの時の痛みを思い出すたびに、膝が疼く。
「おじさんはまだ川崎でコーチしてるの?」
「もちろん」
「こんなにマッサージ上手いんだから、そろそろ自分の店でも持てばいいのに」
「ははは、まあ今の仕事は給料がいいからね。それに選手の活躍を身近で見られて、その手伝いもできるんだ。こんなピッタリの仕事は他にないさ」
それからすぐ後半戦が始まった。強豪には強豪の意地というものがあった。昨シーズン二位の実力を持つ本テレ・ガルーザは途中同点まで追いつく。だが試合終了間際、小春のフリーキックが決定的な得点となり、3-2で浦和が初戦を制した。
試合観戦は体力を使うものだと、歩は昔から実感していた。それはスタジアムでもテレビ中継でも同じだった。魂を削りながら躍動し、競い合う選手たち。観客はそれに圧倒されながら、ゴール一つ一つに一喜一憂する。歩は試合観戦を終えるといつも、心地の良い疲労感に襲われるのだ。
中継は浦和監督のインタビューを映していた。
『後半の失速などをみると、このままでは優勝は厳しいと思いますが、まずは初戦取れてよかったです。これを次への改善に繋げます』
それだけ言い残すと、香苗は画面から姿を消した。端的で短いコメントだった。
「おばさん結構きっぱり言うねぇ」と歩は眉を寄せる。
「このせいでメディアからはコメントが短いだのつまらないだの言われてんのよ」
桜はそんなことを言いながら立ち上がり、軽く伸びをした。そして、「じゃ私サッカーノート書いて寝るからお先」と言い残すと二階へ上がってしまった。
「まだ九時過ぎなのに桜はもう寝るんだ」
「たしか明日は遠征で早いとか言ってたよ」
「おじさんも明日遠征?」
「いーや、俺は練習だけだから朝出勤夕方帰宅」
そういうと重樹は立ち上がり、台所に行った。
歩は横目で咲季のほうを見た。不意に目が合う。
咲季はそれに気付くとすぐに顔を背けた。歩には彼女が何に対して不快に思っているのか全く分からなかった。ただ声のかけ辛い状況だけが靄のように二人を取り巻く。
台所から三人分のお茶を入れた重樹が戻ってくる。机にそれらを置くと、自分の分を手に取り一口だけ口に含んだ。
「やっぱり三年もいれば、ドイツ語はペラペラなの?」と重樹は何気なく聞く。
歩は返事に困る。
「実はそんなに進歩してないんだよね。中学は日本人学校だったし、リハビリの先生とは互いに英語で喋っていたし。あ、だから英語は日常会話程度なら喋れるようになったかも」
ヨーロッパは共通言語の浸透が日本よりも数段進んでいた。イギリス人ではなくても英語が喋れる人は多く、ドイツの地でも、スペインと日本のように違う二つの国籍が集えば、共通言語でコミュニケーションを図ろうとする意識が高い。
ドイツ滞在中の話や小学校時代の思い出話など、歩と重樹の間で盛り上がった。
咲季はその隣で静かに筋トレをしている。
「なんで歩くんはサッカー止めたんだい?」
「特に理由はないけど、一年間は怪我でボール蹴られる状態じゃなかったからね。その後は……、なんでだろ?」
歩は自分でもその理由は分からなかった。ただ気が付けばサッカーというものから離れてしまっていた。
「今日久しぶりに小春さんの活躍ぶり見て、少しボール蹴りたくなったかな」
「なら今から少しボール蹴ってきたら? 昔みたいに庭で咲季とさ」
「こんな時間から? それに咲季は……」
歩は咲季の顔色を伺った。咲季は筋トレを止めると一瞬動かなくなり、だが、
「いいよ、蹴ろう。ボール取ってくる」
そういうとボールを取りに自分の部屋へ上がっていった。
歩は縁側で咲季が降りてくるのを待っていた。そこに咲季が顔を出す。脇にボールを抱えている。
二人は裸足になり、庭の芝生に素足を付けた。整えられたピッチの柔らかい芝生とは違い、乱雑に伸びた芝が足の裏を刺した。夜で辺りは暗かったが、縁側を通じて部屋から漏れてくる光で、ボールを見ることはできた。
最後にこの庭でボールを蹴ったのは小学校の頃だった。当時もこうして裸足でボールを蹴っていた。あの頃から比べると、庭が狭く感じた。その感覚の分だけ二人とも成長したのかもしれない。
「咲季とボール蹴るの三年振りだな」
歩は目の前にあったボールを咲季に向かって蹴り出した。それを咲季はふわりとトラップする。
「浮き球禁止だからね。覚えてるでしょ」
「もちろん。たしか二人でボレーキックの練習してた時に、ボールが茶の間に入って、花瓶を割ったんだっけか」
「そうそう、それ以来庭での浮き球禁止令が出たのよね。あの時はお父さんに凄く怒られたわ」
歩と咲季の間をボールが行き来する。ボールと足が当たる音、ボールが芝を掻き分ける音、それらの音が混ざり合って、夜の空に流れる。
パス交換のおかげか、咲季も口を利いてくれるようにはなった。サッカーは良いコミュニケーションツールかもしれないと、歩はそんなことを想起させる。以前もよくこうしてボールを蹴りながら喋っていた。
「なんでサッカー止めたの?」
咲季のパスが微妙に強くなった気がした。
「さっきも言っただろ、大した理由はないよ」と歩はパスを返した。
「じゃあ約束は?」
「――約束?」
思わず歩はトラップを大きく逸らしてしまった。ボールが庭の茂みに入る。「すまん」と一言かけると、歩はボールを取りにいった。
ボールを取りながら、歩は咲季との約束を思い出そうとしていた。しかし、思い当たることはなかった。
「約束ってなんだよ」
咲季は返事を返そうとしない。ボールの行き交う音がより鮮明に聞こえる。途端パスが届いてないような錯覚を歩は覚えた。
咲季は足を止めた。その足元でボールが無造作に転がる。
「明日試合があるの」と真っ直ぐな瞳が歩を捉えた。続けて、「昼から学校のグラウンドであるんだけど、それに私も呼ばれてるの」
「まだ入学もしてないのにか。すごいな」
「その試合を歩に見て欲しい」
すると、咲季は歩の胸元目がけてボールを蹴り上げた。歩は慌てて胸でそれをコントロールする。
「絶対に来ること。いい」
咲季はそう言い残すと、綺麗な髪を夜風になびかせ、部屋へ戻ってしまった。庭に一人取り残された歩は、目先にあるボールをふと見た。
「浮き球禁止だろ、あのやろ」
久しぶりのパス交換は少し苦いコミュニケーションに終わった。