1.2 桜と再会
帰路の途中、車はコンビニの前で止まった。男性は缶コーヒーが欲しいと急遽コンビニへ入っていった。歩は特に必要なものはなかったが、ただでさえ痛む尻を硬いシートに沈ましておくのは辛かったので、車から降りて外の空気を吸うことにした。
行く先々、日本人で溢れかえっている。やはりなれない光景だった。巨大なドイツ人に慣れきってしまっていた歩にとって、日本人は小さく見えた。しかし、そんなことを言うとまたあの男性に突っ込まれそうなので、決して口に出したりはしない。
歩は立ち止まると踵をゆっくり上げて、またゆっくり下ろすという動作が癖になっていた。リハビリをしていた頃、よくやっていた体操の一つだった。
ミュンヘンに居た三年間、歩は特にこれといったスポーツはしていなかった。だが一年以上もの長いリハビリが功を奏したのか、油とビールの国ドイツでも太りはしなかった。
コンビニの前にある桜の木が春風に揺れる。ドイツは日本みたいに桜の木がどこにでもあるわけではなかった。ミュンヘンで通っていた中学校の校庭では何本か植えられていたが、このように当たり前の光景で桜を見るのは久しぶりだった。
歩は徐にポケットから携帯を取り出した。ドイツから持ってきた安っぽい携帯だ。今はもう解約したため、当たり前だが圏外となっており、電話やメールの機能は使えない。メニュー画面からカメラを開くと、その桜の木を写真に収めた。
(懐かしいね。やっぱり日本人だな、俺)
本当に懐かしい日本のごく一般的な風景だった。帰ってきたのだと実感する。
桜の花びらが積もるアスファルトの先に、ジャージ姿の女がやって来るのが見えた。一歩足を踏み出すたびに後ろに結ばれたそのポニーテールが揺れる。肩からエナメルバックを掛け、ジャージには胸元に「藤中女子」と書かれている。
歩とその女の目が不意に合った。
「歩?」
歩はその女を誰か認識するのに時間が掛かった。最後にあったのは三年前だった。あの頃から比べると、女性らしさが増していた。
「おー、咲季か!? 久しぶりだな」
咲季と呼ばれた女は黙っている。その顔はどこか不機嫌そうだ。
「今から練習? 藤中ってことは、もう高校の練習に参加してんのか」
「――なんで」
咲季の声は震えていた。
「なんで、歩は藤中に受験したの?」
「なんでって特に理由はないけど。学力や通学手段と相談した結果だよ」
「でも、それじゃあ……」
「どうしたの?」
「もういい」
そういうと女は歩いて行ってしまった。歩はその背中を見つめる。その背中はどこか寂しそうに映った。
缶コーヒーを買った男性がコンビニから出てきた。
「歩くん、ほらこれ」
男性は買ってきたカルピスを歩に投げた。歩が一番好きだった飲み物だ。ミュンヘンでは手に入らなかった。
「おじさん、今さっき咲季が通ったよ」
「咲季はたしか今日練習だったかな」
「ああ、練習のジャージ着てたよ。あいつもう高校の練習に参加してるんだ」
「受験が受かった時にはもう参加してたかなー」
ふうんと歩は鼻で合図をした。ペットボトルに口を付けた。懐かしい甘い味が喉に流れ込んでくる。
「さあそれじゃあ行こうか」と男性は缶コーヒーを空けながら言う。
二人はもう一度車に乗る。男性がエンジンをかけると、ブルルと鈍い音を立てて車は走り出した。
歩は咲季の顔を思い返していた。最後に顔を合わしたのは小学校六年の頃だった。あれから随分大人っぽくなったと思った。あの時はもっと髪も短かったし、男っぽかった。歩自身も男友達と接するように仲良くしていた。
(なにか怒らせるようなことしたかな?)
思い当たる節がない。後で聞こうと歩は思った。