GrimReaper - wish
どうにも集まらない。
通帳の数字は、寂しい桁数だった。タンスの奥をひっくり返しても、ゴミと防虫剤の匂いしかない。銀行、職場、同僚、親戚、昔からの友だち。誰もが首を振っていた。
「三千万」
大金が必要だった。なけなしの金で宝くじを買うか、競馬につぎ込むか。ギャンブルとは縁のない生活をしてきた。買い方もよくわからない。ビギナーズラックに期待するほど、馬鹿でもない。
サラ金、闇金などもってのほかだった。取り締まる側の人間がそれに手を出したら、人生が終わる。組織へのダメージにもなりかねない。
「三千万……か」
あと十年、いや数年でもあれば、出世して給料もいくらかよくなっていただろう。貯蓄もできていたはずである。だが、彼は就職して一年足らずだった。貯金は言うに及ばず、退職金もわずかな足しにしかならない。
「こんなことなら、親父が生きていることにすればよかったな」
半年前に最後の肉親は他界していた。あたりまえのように葬儀を行い、死亡届を出した。ちまたで話題になっている年金詐欺はすでに手遅れだった。そもそも一年やそこらで貯まる額でもない。
彼は最愛の妻の名を口にしてみた。
今し方見舞いに行ってきたばかりだ。彼女は白いベッドの上だった。血の繋がりがない妻だけが、彼の唯一の家族だった。彼女もまた、彼だけが家族だ。
「どうすればいい」
強盗、詐欺、誘拐。犯罪の種類は数あれど、警察官である自分が手を染めることは絶対にない。
彼は願わずにはいられなかった。
自分が犯罪者であったならば、と。そうすれば、たやすく金を稼げたかもしれない。人を人と思わず、自分勝手な理由で奪い取る。他人が不幸になることに構わず、ただ人の富を搾取する。捕まったら適当な言い訳で反省する振りをすれば、幾度となくやり直しが可能なのだ。
できはしない。
できるわけがない。
それが自分だ。
「あなたの魂はおいくらですか」
不意に声をかけられた。気づくと官舎の近くの公園だった。病院からの帰り道、考え事をしながらここまで来ていたらしい。歩きで数時間の距離だ。夜はすっかり更けていた。
「どちら様ですか?」
スーツ姿の男が黙礼した。細い縁の眼鏡の奥で、切れ長の目が見つめていた。
「私はこういうものです」
差し出された名刺に、アルファベットが一行書かれていた。
「死神です」
死神と名乗った男が再度頭を下げた。
「はあ」
頭の弱いヤツかもしれない。保護する必要があるかどうか、様子を窺った。
「必要ありません。仕事熱心なのは結構ですが、今はあなた自身のことを考えるべきでしょう」
「なんだって」
心を読まれた? そんな馬鹿なことがあるか。
「お金が必要とのことですが」
何故、知っている。
「取引、というと聞こえが悪いのでしょうが」
死神は眼鏡を押し上げた。
「あなたとは、取引ができます。もちろん、対価はお支払い願いますが」
取引。金。三千万。治療費。
「本当か!」
本能が告げた。
やめろ、と。
「もちろんです。ただし、支払いは必要です」
「構わない。この身でなんとかなるなら、なんでもやる」
すがりついた。妻を助けることができるのならば、なんでもよかった。犯罪だけは、人を悲しませることだけは、やれない。それ以外のことなら、できる。
「そうか! 気づかなかった」
この身体なのだ。腎臓、肺などの臓器だ。それならば、人が不幸にならない。むしろ、移植された人間は幸福になるはずだ。
「三千万円分、受け取れ」
「わかりました。三千万円で取引成立です」
死神は眼鏡を取り、胸ポケットにしまった。
「事後処理はお任せ下さい」
両の肩をつかまれた。身体が動かなくなる。すさまじい力だった。
「頼む――」
妻を助けてくれ。
それが最後の言葉だった。
死神が男の唇に触れた。男は痙攣して力を失う。死神が唇を離すと、白い蛇のようなものが繋がっていた。それを引きずり出すように吸った。やがて、尻尾が現れ、吸い込まれていった。
「支払いを確認しました」
死神は男を横たえ、眼鏡をかけ直した。
「手術は、成功ですよ」
看護士が震える声で囁いた。
目を開けると、白い天井だった。
そこにいるはずの夫がいなかった。仕事が忙しいのだろうと、ぼやけた頭で考えた。もう少しすれば、会いに来てくれるだろう。
「ゆっくり休んでくださいね」
何故だか、不安を感じた。看護士の声が沈んでいたのが気になった。
暗い部屋で、彼は妻が起きるのを待っていた。臓器はひとつも欠けていない。
司法解剖は、家族の了承を得てからが望ましかった。
失われたのは、ただひとつの魂。