恋愛相談係をクビになった俺は、失恋した彼女と文化祭をやり直す(短編版)
「お前に相談すると恋が終わるんだよ」
「断られた直後に誘い直したら、向こうがまた断ることになるだろ」
昼休みの教室でそう答えると、友人は弁当の蓋を閉じた。まだ唐揚げが一つ残っていた。
向かいの椅子に座る友人はスマホを伏せた。その画面には『二人では出かけられません』という返事が届いていた。文化祭なら誘ってもいいかと聞かれたので、少なくとも今はやめておけと答えたところだ。
「もういい。桐谷には聞かない」
「分かった。でも、その返事は他のやつに見せるなよ」
「見せねえよ」
スマホをポケットに戻した友人は弁当の蓋を開け直し、残っていた唐揚げを食べた。放課後の相談は別のやつに聞くそうだ。
何度か待ったをかけているうちに、俺は恋愛相談係をクビになった。就任した覚えもないのに。
これで自分の漫画を読める。そう思って鞄に手を伸ばした直後、机に分厚いファイルが置かれた。
「相談係、空いた?」
羽鳥こよりが立っていた。
肩の下で切りそろえた髪と涼しげな目元のせいで、黙っていると近寄りがたい。けれどクラスの紹介ポスターに校長そっくりの暗号怪人を描いて、職員室まで説明に行ったことがある。顔だけで人柄を決めてはいけない見本だった。
「廃業した」
「ちょうどいい。恋愛相談じゃないから」
羽鳥は隣の空席を借りた。ファイルから出てきた校内図には、赤い線が複雑に走っている。
十日後の文化祭でうちのクラスがやる校内周遊謎解き。その企画書だ。
「振られた件は自分でどうにかする。文化祭のほうが、どうにもならない」
ファイルに伸ばしかけた手を止める。羽鳥が二日続けて準備を休んだ理由は知らなかった。
「……それ、俺に言ってよかったのか」
「言わないと今から話す言い訳が長くなる」
「じゃあ聞かなかったことにする」
「聞いてはおいて。慰める作業を省いてほしいだけ」
なるほど。それなら俺にもできそうだった。
ページをめくると六つのチェックポイントと担当人数が書いてあった。下駄箱前、中庭、渡り廊下。それぞれに仕掛けを置く予定らしい。
「これ、何人で動かすんだ?」
「交代込みで二十四人」
「ほぼ全員じゃないか。うちのクラスは文化祭に出勤するのか」
「今見るとちょっと大きい」
「ちょっと?」
「私の前で大きな声を出すと企画が萎縮する」
「萎縮させたいんだけど」
羽鳥はファイルに顎を隠した。端からのぞく耳が赤かった。
最初は三か所だったらしい。実行委員の先輩に面白そうだと褒められて追加し、もっと面白くしたくなってさらに追加した。制作方法は自分で詰めると言ったまま時間だけが過ぎた。
「それで先輩に告白して」
「うん」
「二日、何も見たくなくなった」
机の上で指先が紙の角を折りかけ、途中でやめた。
「今日来たら峰岸さんに、明日までに作れる案が出なかったら展示だけにしようって言われた。怒鳴られたほうが楽だった」
「峰岸が言ってるのは明日までに案を出せってことだろ。まずそこからじゃないか」
「……うん。反省だけしてても看板はできないか」
「でも、なんで俺に?」
「さっき、スマホを他の人に見せるなって言ってたから」
羽鳥はファイルの角を指で押さえた。
「失敗した話を面白がらない人がよかった。あと、できないことはできないって言ってほしかった」
「かなり言うぞ」
「少し小出しにして」
俺はファイルを最初まで戻した。古い手紙を探すという筋書きには、手描きの小さな郵便配達人が添えてあった。鞄から手紙をこぼしながら走っている。
「これ、教室だけでやれない?」
羽鳥の顔が上がった。
「校内の場所を探す問題だから」
「場所を探すところは変えるとして。この手紙を届ける話は残してさ」
「……机を配達先にすれば」
彼女は図面の余白に四角を描き始めた。俺の存在を忘れたような速さだったが、三つ目の四角で手を止めた。
「桐谷くん、明日も見てくれる?」
鞄の口から漫画の背表紙がのぞいていた。文化祭の装飾当番はもう終わっている。断っても誰にも怒られない。
ただ、紙の中の郵便配達人が少し気になった。
「四十五分なら」
「本当?」
「明日も来る。まず教室版を見せて」
羽鳥はファイルを抱え直した。そのとき初めて、目の下に薄く残った赤みに気づいた。
「ありがとう。……恋、終わらせる係じゃなかったね」
「それは就業規則に書いてない」
*
翌日の放課後、俺の机には小さな紙の郵便受けが置かれていた。
正面に『桐谷晴臣様専用』と書いてある。横のレバーを倒すと蓋が開いた。無駄に手触りがよかった。
「試作品?」
「連絡箱。桐谷くんの分」
「俺、引っ越してきた?」
羽鳥は二本のペットボトルを並べてから、折り畳んだ予定表を取り出した。文化祭前日まで、毎日俺の名前がある。平日は放課後。土日には午後の時間が割り振ってあった。
「明日も来るって言ってくれたから。一緒に最後までやってくれるつもりなのかと」
「明日が九回ある」
「土曜日は明日」
「そこを訂正されても困る」
羽鳥は予定表を見下ろした。書き込みは細かく、休憩時間まで色が塗り分けてある。
「……先に聞くべきだった」
「うん。火曜は無理だし、土曜も予定がある」
「デート?」
「歯医者」
「強敵だった」
何と戦っているんだ。
彼女は俺の名前を消し始めた。作り直すと言いかけたので止める。空いている日は四十五分なら手伝える。ただし説明も制作も全部俺がやるわけじゃない。
「それでよければ」
「よくなくても、もう来ることになってますとは言えないしね」
「そういうところは分かってて安心した」
羽鳥は消しゴムの屑を集めると、オレンジ色のボトルを俺に押した。
「これは? 飲める?」
「飲めるけど、毎回買わなくていいから」
「今日のだけ。オレンジでよかった?」
「よく知ってたな」
「昼休み、だいたいそれだから」
俺はボトルの蓋をひねった。羽鳥はもう試作品を並べていたが、こちらを見ずに付け足した。
「苦手なもの渡して来なくなられたら困るし」
危うく変な期待をするところだった。仕事相手への気遣いとしては至極まっとうだ。
机上の試作品は『迷子の手紙と小さな郵便局』という名前になっていた。四人までの一組が机を囲んで三つの謎を解き、最後に手紙を正しい家へ届ける。机上で完結するため同じセットを三つ作ればいい。
「これ、折っていい?」
地図の端に指をかけて聞くと羽鳥はうなずいた。紙を折ってみると離れて描かれていた道がつながり、その先に小さな家が現れた。
「おお」
声が出た瞬間、羽鳥が身を乗り出した。
「今の、よかった?」
「よかった。これ好きだ」
「もう一回やって」
「折るところ?」
「おお、のところ」
「感想を再演させるな」
羽鳥は口元を押さえたが、目まで笑っていた。俺は地図を開き直して、つながる前の道を指でたどった。
「ここ、ただの植え込みに見えたのにな」
「そう。折る前に道だって分かったら面白くないから」
「俺が引っかかるまで黙ってたわけか」
「すごく説明したかった」
我慢したことを褒めてほしそうな顔だった。もう一度折ってやると、今度は俺の手元ではなく顔を見ている。
分かっていても少し嬉しくなる仕掛けだった。俺が笑うと彼女も笑い、ようやく地図へ目を戻した。
喜んでいる羽鳥の手元に、まだ一枚紙が残っていた。教室から昇降口へ延びた矢印が目に入る。
「これも使うのか?」
「最後の手紙だけ、実行委員の受付に届けるのはどうかなって」
実行委員。昨日聞いた言葉で手が止まった。
「そこ、先輩がいる?」
羽鳥は紙を裏返した。机上の家と違い、矢印の先には何も描かれていなかった。
「交代制だから、いるとは限らないけど」
「受付の人に対応してもらう話は?」
「まだしてない。今までの周遊案でも、最後は私が立つ予定だったから」
「羽鳥が向こうに行ったら、こっちの係は一人減るぞ」
「分かってる」
返事が少し強かった。俺はペットボトルを机の隅へ寄せて、紙を置く場所を空けた。
羽鳥は伏せた紙から手を離さなかった。
「ここも消したら、先輩と話す用事がなくなる」
廊下を誰かが走っていった。足音が遠ざかってから、彼女は小さく笑った。
「……できないことはできないって言ってほしいとか、よく言えたね、私」
「残したい理由は聞いた。クラスに話すのは人手と場所のことだけでいい」
「言わないの?」
「俺に話したからって、みんなに話していいわけじゃないだろ」
羽鳥は顔を上げた。こちらを見ていたが、すぐに目元を指でこすった。
「ごめん。ちょっと待って」
「うん」
俺は問題用の封筒を数え直した。どれもまだ一枚ずつしかなく、数えるほどのものでもなかった。
「桐谷くん。先輩に来てもらいたいのは、駄目じゃないよね」
「来てほしいなら誘えばいい。来るかどうかは先輩が決めることだけど」
「文化祭の展示を見てください、って」
「それなら羽鳥が客を届けに行かなくて済む」
彼女は鼻をすすり、それから本当に少し笑った。
「配達するもの、間違えてた」
裏返した紙を取り、矢印を消しゴムで消していく。一度では消えきらず、もう一度こすった。
「教室だけにする。みんなにお願いする」
俺がうなずくと、羽鳥は机上の家を引き寄せた。
「その代わり、この家から最後に返事が出てきてほしい。届けた人が嬉しくなるやつ」
「作れるのか?」
「仕掛けは作れる。絵は頼む。あと屋根も、誰かに頼む」
一つずつ言い直すたびに彼女の指が動き、家の裏に細い隙間ができた。そこへ差し込んだ紙を引くと、窓の中から四角い顔が現れた。
「……それ、俺?」
「仮の住人」
「もう少し手紙を喜びそうな顔にして」
「注文が細かい!」
そう言いながら羽鳥は口元を描き直した。俺に見せる前に自分で引いてみて、肩を揺らしている。
「自分で笑うのか」
「まだ見ないで。今、調整中」
隠されると余計に見たくなった。さっきまで沈黙が怖かったのに、今は紙を引く番が回ってくるのを待っていた。
五時前には文化祭担当の峰岸と、制作を手伝う予定だった数人が集まった。羽鳥は立ち上がり、試作品の脇に手をそろえた。
「私が詳細を出さないまま待たせて、ごめんなさい。二日休んだのも連絡を返さなかったのも私が悪いです」
俺は机の端に寄った。ここで補足すると、俺が羽鳥をかばうための話になってしまう。
峰岸は腕を組んだまま企画書を見た。
「これなら間に合うの?」
「月曜日に別のクラスの人に試してもらって、問題を確定する。それまでは看板と家の外側をお願いしたい。周遊で申請してた場所を使わない連絡は私がする」
「また全部やり直すことにならない?」
羽鳥の指が机の縁をつかんだ。
「試してもらってから決める。私だけでは決めない」
峰岸は俺を見たが、質問は羽鳥に向けた。
「じゃあ、今やっていい?」
「うん。お願い」
最初の謎はすぐ解けた。二つ目で相談が始まり、三つ目の地図がつながったところで峰岸が「あ」と笑った。
「これなら作りたい。家の屋根、色変えていい?」
「配達先の文字が読めれば」
「私、家に余った色画用紙ある」
隣から別の声が上がった。羽鳥は慌ててメモを取り始める。
机の中央にあった試作品が、いつの間にかみんなの手元に分かれていた。
四十五分が来たので鞄を持つと、羽鳥がこちらを向いた。
「今日、帰るの早いね」
「契約どおりです」
「あ、そっか」
寂しそうに見えたのは気のせいだろう。代わりに峰岸が羽鳥の椅子を引き、看板の色を聞いていた。
俺がいなくても話は進む。その様子を確認してから教室を出た。
階段を下りている途中で、あの郵便受けを持って帰ればよかったと思った。
*
三日後の試遊で、郵便局は開業前に配達不能になった。
「ごめん。俺ら、こういうの向いてないかも」
別のクラスから来てもらった男子が鉛筆を置いた。二人とも地図を前に止まり、もう十五分ほど経っている。
羽鳥が説明しかけたところで俺は尋ねた。
「どこまでは分かった?」
「花が同じ場所にあるから、関係あると思ったんだけど」
「ここを重ねるのかなって。でも紙には書き込んでいいとしかなかったし」
なるほど。二人は折っていいか分からずにいた。
羽鳥は膝の上で手を握っていたが、最後まで聞いてから頭を下げた。
「そこ、説明が足りなかった。試してくれてありがとう」
二人が帰ると、彼女は紙に額がつくほど身をかがめた。
「最初に桐谷くんが解けたから、大丈夫だと思った」
「俺は先に折っていいか聞いたからな。峰岸たちは完成形を見ちゃってたし」
「……試す順番も間違えた」
羽鳥は起き上がって赤ペンを取った。問題文に『紙を折って』と書き足しかけ、ペン先が止まる。
「これを書いたら、ほとんど答えになる」
「書かないとずっと郵便局員が残業する」
「働き方に厳しい」
笑おうとした顔が途中で崩れた。俺は地図を畳まず、さっき二人が触っていた場所を指した。
「花を見つけたところまでは合ってたんだろ? そこから一段だけ教えられないかな」
「一段?」
「紙は折っても大丈夫とか。いきなり折り方まで言わずに」
羽鳥は問題文と地図を交互に見た。
「……ヒントを分ける。最初は紙の扱い。次に花。最後に重ね方」
「それなら係も説明しやすい」
「でも、手を挙げて聞くのって嫌な人もいるよね」
彼女の視線が俺の机の郵便受けで止まった。
次の瞬間には、それが机の中央へ引っ越していた。
「配達員への追加のお手紙にする」
羽鳥は封筒を三枚並べた。一通目は新人局員から、二通目は先輩局員から、三通目は局長から。必要なときに自分で開けられるようにする。
「ヒントを使ったら減点?」
「しない。届けられたら成功。……いや、減点しないって最初に書こう」
「局長から来たら、怒られると思わないか」
「じゃあ局長の犬から」
「犬が一番詳しいのかよ」
「毎朝この辺を散歩してるから」
「局長より道に詳しいんだな」
羽鳥は封筒に犬を描きかけ、急にペンを止めた。
「……じゃあ、最後だけ足跡がついてたら?」
「犬が歩いた場所が折る目印?」
「うん。文字は『わん』しか書いてないのに、ちゃんと役に立つ」
口元が緩んでいた。まだ紙には丸が二つあるだけなのに、もう客が驚くところまで見えているようだった。
「最後に肉球で承認印を押してくれ」
言ってから、俺は机の赤ペンに手を伸ばした。
「ここに。配達完了って」
「採用。肉球は桐谷くん担当」
「俺が描くのか?」
「今、描く気だったでしょ」
握っていたペンを見られた。俺は返事の代わりに紙の端へ丸を五つ描いたが、出来上がったものは花に近かった。
「これだと園芸部の印だね」
「犬が散歩中に踏んだ花です」
「設定で押し切らないで!」
羽鳥が横から小さな丸の位置を直した。それだけで肉球に見える。俺が感心すると彼女は得意そうに顎を上げた。
「こういうのは任せて」
「じゃあ次は骨の形の郵便受けを」
「犬には住所がないから駄目です」
二人で笑ってから俺は紙を引き寄せ、もう一度肉球を描いた。
羽鳥は犬に帽子をかぶせた。どことなく校長に似ていて、今度は俺のほうが先に吹き出した。
次の試遊では一年生の二人が二通目まで開け、九分ほどで手紙を届けた。最後の封筒も開けたがったので渡すと、一人が足跡をたどってから『わん』を読み上げた。もう一人が吹き出し、俺までつられて笑った。
羽鳥は見送ったあとも廊下のほうを向いていた。
「よかったな」
「うん。……よかった」
振り返った顔を見て、俺は何か言うつもりだったのを忘れた。
きれいな顔だというのは前から知っていた。けれど今まで見た中で一番好きだったのは、笑った拍子に片方だけ髪が頬にかかった、この顔だった。
「桐谷くん?」
「犬の手紙、俺にも一枚くれ」
「そこに感動してたの?」
否定するには少し遅かった。
*
その日の帰り、羽鳥と駅まで歩いた。
いつもなら四十五分で帰る俺が残っていたのは、二回目の試遊を見たかったからだ。羽鳥に頼まれたわけではない。帰り道でそれを説明すると、彼女はしばらく黙った。
「……私といるの、そんなに嫌じゃない?」
「嫌なら試遊が終わった時点で帰ってる」
「そう」
羽鳥は前を向き直った。次の角で行き過ぎかけ、俺が声をかけると慌てて戻ってきた。
「道、こっち」
「知ってる。ちょっと考えてた」
彼女の鞄から紙の端が出ていた。旧企画の校内図だった。
「それ、まだ持ってたんだ」
「使える絵があるから」
羽鳥は紙を押し込んでから付け足した。
「消したところまで残ってるから。全部なかったことには、まだしたくない」
夕方の道を自転車が通り、二人で端に寄った。羽鳥は髪を耳にかけたまま話し始めた。
先輩を好きになったのは去年の文化祭だったという。彼女が作ったクラス看板を、解体する前に撮影していいかと聞かれた。看板の端に隠した小さな絵まで見つけてくれた。
「作ったものをちゃんと見てもらえたのが嬉しかった。それで、今年も見てもらいたくなって」
「うん」
「でも断られたとき、勝手に期待してただけなんだって思ったら、あの看板まで恥ずかしくなった」
信号が赤になった。羽鳥は足元の白線を靴の先でなぞった。
「さっきの二人、楽しそうだったね」
「犬のファンが増えたな」
「私のファンであってほしい」
少し笑ってから、彼女は信号を見上げた。
「先輩に褒められたくて始めたけど。作るのが楽しかったのまで嘘にはしたくない」
俺はうなずいた。何か気の利いたことを言うより、そのまま聞いていたかった。
信号が変わって歩き出す。向こう側に着いたところで羽鳥がこちらを見た。
「桐谷くんは、なんであの人たちの相談に乗ってたの?」
「呼ばれたから」
「恋愛に詳しいの?」
「付き合ったことない」
羽鳥は立ち止まりかけた。
「そうなの?」
「だから送る前の文章見てとか、返事が来ないけど電話していいかとか。その程度だよ」
「それでも、呼ばれたら行くんだ」
それは少し答えづらかった。駅の看板を見ながら考えて、結局そのまま話した。
「用事があると誘いやすいだろ。俺も行きやすいし」
「用事が終わったら?」
「まあ、帰る」
友人たちと昼飯を食べるのは今も変わらない。ただ、二人で出かける相談に俺の席はなく、困ったときだけ三人目になった。それを寂しいと言うほど子供ではないつもりだった。
羽鳥は歩調を緩めた。
「一人で帰って、何するの?」
「駅前の灯台堂に寄る。漫画も置いてあるし」
「あの二階に喫茶店がある本屋?」
「そう。そこのオレンジソーダがうまい」
「徹底してる」
「オレンジと契約してるから」
羽鳥が吹き出した。俺は気をよくして、プリンも硬めでうまいと付け足した。
「好きなものの話だと普通にしゃべるんだね」
「普段もしゃべってるだろ」
「普段は私に質問してる」
そう言われると返せなかった。
駅の改札で別れる前に、羽鳥が振り返った。
「明日、火曜日だから来ないんだよね」
「そうだけど」
「分かった。じゃあ水曜日」
仕事の確認だけなのに、水曜日が少し先に思えた。
*
翌々日、教室に着くと俺の連絡箱が机に戻っていた。ヒント用は同じ型で作り直したらしい。俺の名前が残った箱を開けると、封筒が一通入っていた。
開くと、真ん中に大きく『休憩』と書かれた札が出てきた。
机の脇にはクッションが一つ。隣の机には漫画を立てるための小さな棚までできている。
「……ここだけ誰かの部屋になってない?」
「桐谷くん、作業のない日も来ていいよ」
羽鳥は小屋の屋根を切りながら言った。鋏は動いているが、端の切れ端が異様に細かった。
「この前、嫌じゃないって言ってたから。来る理由がないなら作ればいいと思って」
「クッションまで?」
「家に余ってた。これは貸し出し用」
「利用者は?」
「今のところ一人」
休憩札を裏返すと『漫画』『おしゃべり』『何もしない』に丸をつける欄があった。勤務表を注意したら福利厚生が充実してしまった。
「どれか選ぶのか」
「予定は勝手に決めない。選択肢だけ」
「帰宅がないけど」
鋏が止まった。
「……欄外に書ける」
それなら仕方ない。俺はペンを取って『おしゃべり』に丸をつけた。羽鳥が鋏を置く音がした。
「俺を休ませたいのか、帰したくないのか、どっちなんだ」
「休ませたい」
目が合った。少し待つと彼女の視線が机の上へ逃げた。
「……ここで」
俺は札を郵便受けに戻した。変な顔をしていないか確かめたかったが、窓には夕日しか映っていなかった。
「今日は俺も、これ貸そうと思って」
鞄から漫画を出す。羽鳥は表紙を見るなり手を伸ばした。
「読んでみたかったやつ!」
「結末は言うなよ。俺まだ途中だから」
「読んでる途中の本を持ってきたの?」
自分でも順序がおかしいとは思った。ただ、読み終わるまで待っていたら今日ここへ来る理由がなくなる。
「どのへんで気づくか、感想を聞きたくて」
「じゃあ先に桐谷くんが読んで。私、隣で屋根を切ってるから」
「仕事してる横で漫画はなあ」
羽鳥が郵便受けから休憩札を抜き取り、『漫画』にも大きく丸をつけた。
「認可します」
「審査が早い」
「待ってたから」
彼女は言い終えて口を閉じた。屋根の紙を持ち直し、今度はずいぶん慎重に切り始める。
俺はクッションを借りて座った。隣で鋏が動くたびに、読んでいた行を見失った。
四十五分後に俺が読めていたのは二十ページほどだったが、屋根は三軒分できていた。
「続き、明日もここで読む?」
「……家で読み終わらなかったら」
帰りの電車で本を開きかけて、閉じた。
人の相談に乗っていたころなら、用がないなら普通に誘えと言ったはずだ。あの席を使いたいだけだと伝えるのが、こんなに難しいとは知らなかった。
木曜日は残りのページを読み終えたところで本を渡した。翌日の放課後、羽鳥は本を返す前に途中のページを開いた。
「ここ、桐谷くん好きでしょ」
事件と関係ないところで、助手が探偵の弁当を食べてしまう場面だった。
「なんで分かった」
「この間の犬の話してたとき、こういう顔で笑ってたから」
指された助手は怒られる直前の顔をしていた。抗議しようとしたら、彼女の指が次のコマへ動く。探偵が困ったように笑うところだった。
「こっち」
「……そっちか」
「助手も少し似てる」
「付け足さなくていい」
羽鳥は笑ったが、本を閉じようとはしなかった。俺も隣の椅子を引いた。
「犯人、どこで分かった?」
「その前に、この弁当の話していい?」
推理の答え合わせは後回しになった。好きなところが同じだと分かるだけで、もう一度読みたくなるものらしい。
文化祭の準備はそこから順調に進んだ。
峰岸が各組の開始時間をずらす案を出し、受付の混雑を避けられるようになった。屋根の色は三セットで違い、局長の犬にはいつの間にか家族が増えていた。羽鳥は変更を全部止める代わりに、謎に関係する印だけを確認した。
前日の最終確認では、俺が説明を言い間違えても隣の係が助けてくれた。羽鳥はそれを見てから自分の説明書を閉じた。
「大丈夫そう」
その言葉を聞いて安心したはずなのに、明日のこの時間には全部終わるのかと思った。
*
文化祭当日の午前中、俺は郵便局の窓口係になった。
最初の客は親子連れだった。小学生くらいの男の子が封筒を一通開け、母親と相談しながら地図を折っていく。道がつながると椅子から腰が浮いた。
「ここだ!」
小さな家の郵便受けに手紙を入れる。後ろから引き出した返信には『届けてくれてありがとう』と書いてあり、羽鳥が作った家の住人が飛び出した。
男の子がもう一度開いたり閉じたりする。その様子を隣で見ていた羽鳥は、俺の袖をつまんで軽く引いた。
「見た?」
「見た」
「もう一回開けた」
「見えてるって」
嬉しいことを逐一共有しにくるので窓口業務に支障が出た。
昼前には実行委員の腕章をつけた先輩が来た。羽鳥が「来てくれた」とつぶやいて背筋を伸ばしたので、この人かと分かった。
あのあと展示に誘ったことは聞いていた。背の高い人だった。窓口へ近づく彼に向けて羽鳥が髪を耳にかけるのを見て、俺は片づける必要もない封筒へ手を伸ばした。
先輩は同じ委員の人と二人で参加し、一通目のヒントを使って解いた。
「面白かった。教室でやるって聞いたとき、どうなるかと思ったけど」
「みんなに手伝ってもらいました」
羽鳥はすぐ答えた。先輩は窓口に置かれた犬の封筒を見て笑った。
「これ、写真いい?」
「はい。問題が写らないようにお願いします」
去年と似たやり取りだと思った。
先輩がスマホを向ける。羽鳥は笑って犬の封筒を持ち上げた。俺は二人に背を向け、机の端に並んだ手紙をそろえた。全部同じ向きなのに、何をそろえているのだろう。
「その飛び出す仕掛けも自分で考えたの?」
「はい。裏から引くと窓が開いて……」
聞きたいような、聞きたくないような声が背中に届いた。頼むから楽しそうにするなと思いかけて、手を止める。
羽鳥がまた楽しく作れるようになればいいと思っていたはずだ。客が喜ぶたびに俺の袖を引いてくれることまで、いつの間に目当てになったのか。
入口で峰岸が新しい組を迎えた。羽鳥はそちらへ顔を向けたあと、先輩に小さく頭を下げた。
「すみません。次の受付、私なので」
「あ、うん。ありがとう。楽しかった」
「来てくれてありがとうございました」
羽鳥は犬の封筒を机へ戻し、入口へ向かった。峰岸から人数を聞いて席へ案内する。その間に先輩は同行者と廊下へ出ていった。
俺は手元の封筒に三通目を二枚入れたことに気づいた。局長の犬が過剰に出勤している。
「桐谷くん。それ、犬が多い」
「分かってる」
「新人さんの手紙は?」
「今入れる」
羽鳥は俺の手元をのぞいたあと、隣に立って残りの封筒を分け始めた。
「先輩、最後の仕掛けも褒めてくれた」
「……よかったな」
羽鳥はうなずいた。入口のほうへ一度目を向け、戻した手元で封筒の角をそろえる。それから俺の袖を軽く引いた。
「ねえ、この家の最初の顔、覚えてる?」
「俺がモデルだったやつ?」
「そう。窓から出てきた瞬間、桐谷くんが嫌そうな顔したから、そっちに似せて描き直そうかと思った」
「悪循環だろ」
彼女は窓から飛び出す住人を指で起こした。完成版の住人は郵便配達人に頭を下げている。
「あのとき、最初に笑ったの私だった」
「隠してただろ。調整中って」
「だって先に見られたら悔しい」
羽鳥は笑いながら俺の顔を確かめた。何か面白いことがあったとき、またこうして真っ先に話してほしかった。
俺も笑うと彼女は封筒を一枚こちらへ差し出した。
「はい。新人さん」
受け取った手紙を今度は間違えずに入れた。俺は試遊の結果を記録していた紙を見た。余白に自分で書いた『困ったら早めに聞く』があった。
今の相談は、誰にもできそうになかった。
昼の交代直前には、俺を相談係から外した友人も来た。相手は誘わず、同じ部活の男子と一緒だった。
遊び終わった彼は窓口に残り、声を低くした。
「この前の件、あのあと返事した。しつこく聞いてごめんって」
「うん」
「普通に話せてる。今も」
「ならよかった」
友人はうなずいてから、俺の名札に目を落とした。
「お前、今はここの相談係?」
「配達補助」
「桐谷くんは共同制作者です」
横から羽鳥が入ってきた。手には次の担当用の名札を持っている。
「ヒントの手紙、一緒に考えたから」
「そうなのか。あれ、よかった」
友人はそう言って手を上げた。俺も上げ返す。クビの取り消しを頼まれたわけではなかったし、俺から戻ろうとも思わなかった。
羽鳥は俺の名札を見て眉を寄せた。
「なんで配達補助って書いたの」
「余ってたから」
「あとで書き直す」
「今日しか使わないぞ」
「今日使うから」
その言い方が少し嬉しかった。
*
午後一時、次の担当が窓口に来た。
俺が道具の位置を説明しているうちに、羽鳥は峰岸と最後の確認を終えた。問題の紙も封筒も十分ある。混んだときの案内も任せられる。
「もう俺がいなくても大丈夫だな」
連絡箱に入れていたペンを鞄へ戻した。羽鳥は峰岸と笑いながら名札を外しかけている。
一緒に回らないか。その一言を、鞄のファスナーを閉めるまでに言おうと思った。閉め終わっても迷っていたら、彼女がこちらを向いた。
「じゃ、俺は適当に回ってくる」
「待って!」
羽鳥が俺の鞄を見ていた。
「一人で?」
「そのつもりだけど」
「私も一時から休憩」
もう用事はないのに、呼び止められたのが嬉しかった。俺は肩にかけたばかりの鞄を下ろした。
羽鳥は自分の名札を外した。
「最初の当番表だと時間がずれてたから、峰岸さんに相談して交代してもらった。最後の片づけは私が多めにやる」
「そこまでしなくても、言ってくれれば合わせたのに」
「うん。でも桐谷くん、私の都合に合わせるのはいつもやってるから」
廊下から焼きそばの呼び込みが聞こえた。次の組が教室に入り、羽鳥は窓口へ目を向けかけてから俺へ向き直った。
「一緒に回りたい。仕事が終わったから」
教室の中では局長の犬の手紙が開かれていた。窓口の係は俺たちを呼ばず、楽しそうに客の反応を見ている。
俺は鞄を肩にかけ直した。
「どこ行く?」
羽鳥は唇を結んだ。こらえきれなかったように頬が緩み、ポケットからパンフレットが出てきた。
「パンケーキ。まだ食べてなければ」
「食べてない」
「よかった。誘えなかったら一人で二枚食べるところだった」
「何で二枚なんだ」
「二枚分、楽しみにしてたから」
そんな言い方をされると、俺まで顔を隠すものが欲しくなる。
廊下へ出たところで羽鳥が隣に並んだ。人の流れに押されて肩が触れる。離れようとした俺より先に、彼女が半歩近づいてきた。
パンケーキの列で「二人です」と答えたら、店番に枚数を聞かれたんだと訂正された。羽鳥は注文を引き継いでくれたが、中庭のベンチに着いてもまだ口元を緩めていた。
「二人だったけどね」
「もう忘れろ」
「当分無理」
彼女が嬉しそうなので、それ以上は言えなかった。
羽鳥は一口食べてから鞄を開けた。
「来週の土曜日、空いてる?」
羽鳥の手が鞄の中で止まった。
「歯医者はないけど」
「うん。じゃあ、その……これを」
「お礼なら今日で十分だぞ」
「お礼じゃない!」
彼女は鞄から手を出した。何も持っていなかった。
「私が行きたいの。桐谷くんと」
紙皿を持つ俺の手まで止まる。羽鳥は開いたままの鞄を見て、膝の上に置き直した。
「……順番、間違えた」
「順番?」
「先にカードを渡す予定だった」
今度こそ出てきた封筒にはオレンジの絵があった。彼女は渡そうとして一度引っ込め、それから俺の膝へ置いた。
「もう言ったから、先に返事して」
耳まで赤かった。封筒の角は丸く切ってあり、絵には細かな影までついている。これを作っているあいだ、来週のことを考えていたのか。
俺は紙皿を隣に置いた。言い損ねたら、また用事を探すところから始めそうだった。
「行きたい。俺も、羽鳥と」
彼女は返事をしようと口を開き、そのまま閉じた。目が合うと膝へ視線を落とし、封筒の端を指で押さえた。
「……よかった」
俺は膝の上の封筒を持ち上げた。オレンジの絵を見て、さっき飲み込んだ店の名前がようやく口から出た。
「灯台堂?」
「まだ開けてない!」
「オレンジソーダを飲みに行くんだろ」
「そうだけど、そこは解いてほしかった」
羽鳥は封筒を指でつついた。声がいつもの調子に戻っていて、俺も笑えた。
封を開けてカードを取り出すと、三つの絵と文字を抜き出す指示が書かれていた。
言われたとおりに解いた答えは灯台堂だった。
「ちゃんと解いたぞ」
「うん」
「次は?」
羽鳥はカードをのぞき込んでから、小さく首を振った。
「ない」
「返事のあとは考えてなかった?」
「一緒に行くって言ってくれたら、何か言えると思ってた」
手元のカードを裏返し、何も書いていないのを見て笑う。その顔に俺もつられた。
「じゃあ、俺から一個」
「何?」
「木曜日、本を読み終わったとき、ちょっと困った。明日ここで読む理由がなくなったなって」
羽鳥が顔を上げた。
「休憩札、あったでしょ」
「本がないと、何しに来たか分かるだろ」
彼女は口元を押さえた。こらえようとしても頬が緩むので、こちらも目をそらせなくなった。
「また感想を再演させるなよ」
「まだ何も言ってない」
「そういう顔してる」
「……一回で覚えたから大丈夫」
今度は俺が黙る番だった。
羽鳥は封筒からもう一枚カードを取り出した。待ち合わせ時刻を書く欄だけが空いている。
「ここ、一緒に決めて。勝手に埋めるのはやめたから」
俺は笑って鞄からペンを出した。
「十一時は?」
「大丈夫」
「じゃあ駅前に」
時間を書いたカードを羽鳥に渡す。彼女は両手で受け取ってから、俺の持つペンを見た。
「名前も書いて」
「なくても誰との約束か分かるだろ」
「分かるけど、書いてほしい」
俺は自分の名前を書いた。羽鳥はその隣に自分の名前を足し、満足そうに封筒へしまった。
「ちなみに、当日の予定表は?」
何気なく聞くと彼女の手が止まった。鞄の口から色分けされた紙がわずかに見えている。
「……参考資料なら」
「何時まであるんだ」
「夕方」
俺が顔を見ると、羽鳥は紙を押し込んだ。
「希望は持ってていいでしょ」
確かに。それは俺にもあった。
「夕方までなら空いてる」
羽鳥は鞄の中から予定表を少しだけ引き出し、俺が笑うと同じように笑った。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




