通知と温度
スマホが震えるたび、私は少しだけ息を止める癖がついた。
期待している自分がばれたくなくて、画面を見る前に一度、心の温度を下げる。
午後六時。
原宿と渋谷のあいだにある小さなカフェで、私はノートパソコンを閉じた。
「今日も残業?」
向かいの席でコーヒーを飲んでいた彼、一ノ瀬 颯真が、何気なく聞いてくる。
「ううん、今日はちゃんと終わった。珍しく」
「奇跡だね」
そう言って笑う彼の目は、いつも少し眠たそうだ。
大学時代からの友人で、今は同じ業界。
私はWebライター、彼はデザイナー。
仕事の相談を理由に、こうして週に一、二回は顔を合わせている。
――それが、ただの「友達」なのかどうか。
最近、私は自分で自分に説明できなくなっていた。
彼のスマホがテーブルの上で光る。
通知画面に映った名前を、私は見ないふりをした。
「彼女?」
「ん?」
「今の通知」
「ああ。元、かな」
軽く言う。
でもその一言が、胸の奥に小さな棘を残した。
私たちは恋愛の話をしない。
正確には、しないようにしている。
踏み込めば何かが壊れる気がして。
踏み込まなければ、何も変わらないと分かっていて。
「美緒はさ」
彼がふいに、私の名前を呼ぶ。
「もしさ、今付き合うなら、どんな人がいい?」
心臓が、耳の裏で鳴った。
「……急に何」
「デザイン詰まってて。現実逃避」
「それ最悪の使い方じゃん」
笑いながらも、私は答えを探していた。
正解じゃなくていい。
でも、嘘は言いたくなかった。
「ちゃんと話を聞いてくれる人」
「ふうん」
「で、否定しない人」
「それだけ?」
「それが一番難しいんだよ」
彼は少し考えてから、コーヒーを一口飲んだ。
「じゃあ、俺は条件クリアしてる?」
あまりにも自然な言い方で。
冗談なのか、本気なのか分からなくて。
私は言葉に詰まった。
「……どうだろ」
「即答じゃないんだ」
「そういうのはさ」
私は視線を逸らす。
「簡単に決めたくない」
沈黙が落ちる。
気まずさではなく、触れたら熱そうな沈黙。
彼はスマホを裏返して、テーブルに置いた。
「俺は」
少しだけ、声のトーンが低くなる。
「美緒が好きだよ」
時間が止まった気がした。
カフェのBGMも、周囲の話し声も、全部遠くなる。
「ずっと言わなかったのは」
彼は続ける。
「今の関係が楽だったから。壊したくなかった」
私の胸に、じんわりと熱が広がる。
「でもさ」
彼は困ったように笑った。
「元カノから連絡来るたびに、美緒が気づいてないふりするの、正直しんどい」
――見られてた。
私が何も言わず、何も求めないふりをしていたこと。
「だから、今言う」
彼はまっすぐ私を見る。
「答えは急がなくていい。ただ、知っててほしい」
胸がいっぱいで、言葉が出てこない。
代わりに、スマホが震えた。
彼からのLINE。
《好きだよ。面と向かって言うと噛みそうだから》
思わず、笑ってしまった。
「……ずるい」
「どこが」
「タイミングも言い方も」
「デザイナーだから」
「関係ないでしょ」
私は深呼吸して、彼を見る。
「私もね」
一拍置く。
「颯真が好き」
それだけで、十分だった。
彼は目を見開いて、それからゆっくり笑った。
子どもみたいな、安心した顔。
「じゃあ」
「うん」
「通知音より」
彼は少し照れながら言う。
「近くで鳴る心臓、信じてもいい?」
私は頷いた。
スマホを伏せて、テーブルの上で彼の手に触れる。
世界は何も変わらない。
仕事も、街も、カフェのBGMも。
でも確かに、
私たちはもう、友達じゃなかった。




