脅し
翌朝、神戸シティ新報の編集部はざわついていた。
「長谷川市議、まだ見つからんのか?」
「家族は“自殺じゃない”って強く言ってるらしいぞ」
「でも警察は……どうも“自殺の線”でまとめたいようやな」
「なんでもう死んだ事になってんの?」
記者たちの声が飛び交う中、由梨の机にも取材指示のメモが置かれていた。――「長谷川市議失踪。家族・関係者取材」。
由梨は深く息を吐き、ノートとレコーダーを鞄に詰め込んだ。
最初に足を運んだのは、長谷川市議の自宅だった。
山手にある高い塀で囲まれた豪邸だ。
玄関先で呼び鈴を鳴らした瞬間、裏手から妙な声が聞こえてきた。
「はい皆さん、今から“問題議員の豪邸”に突撃します! もしや失踪したフリ? それとも――」
振り返ると、派手なジャケットにマイクを持った髪をピンクに染めた男と、スマホを掲げたスタッフが数人。
有名な“突撃系”ユーチューバーだった。カメラはすでに回っていて、チャットのコメントが次々に流れているのが見える。
《おい入れ!》
《嫁に聞き出せ!》
《どうせ裏金だろw》
「やめてください!」
由梨は思わず声を張り上げた。だが男は無視し、インターホン越しに夫人へ大声を浴びせた。
「ご主人の失踪、裏金が原因って本当ですかあ?」
中から飛び出してきた夫人は、憔悴しきった顔で両手を広げた。
「お願いです、帰ってください!」
画面にノーメークで髪の毛を振り乱して叫ぶ女性がアップで映し出される。
《めちゃババアで 草》
《不倫!?ww》
チャットが次々に流れる。
「生配信中なんです! これが国民の知る権利なんで!」と叫ぶユーチューバーを、由梨は腕を掴んで引き離した。
「権利を語る前に、人の心を踏みにじるな!」
ちょっとした騒ぎに近隣住民も出てきて騒ぎになり、警察警察!と住民が騒ぎ立て
結局ユーチューバーは渋々退散していった。
残された夫人は肩を震わせ、目に涙を溜めていた。
リビングに通されると、机の上には開きっぱなしのノートPC。
匿名掲示板やSNSに溢れる誹謗中傷の文字列。
《裏金議員》
《自殺して当然》
《家族ぐるみで汚職》
夫人は震える手でノートPCを閉じた。
「……子どもまで学校で“金まみれ”って言われて、泣いて帰ってきたんです。けど、主人が自分で命を絶つなんて絶対ありえません。どこかできっと帰る機会をうかがってるんだと思います」
彼女の目は涙に濡れながらも、芯のある強い光を宿していた。
「警察は“自殺の線が濃厚”なんて言うんです。でも……私は、誰かに追い込まれているとしか思えないんです。まだ主人が見つかってさえいないのに。断定的に言われました。」
由梨は唇を噛みながらノートに走り書きをした。だが、その時ふと、長谷川について以前聞いた話を思い出す。
――長谷川市議はかつて、街頭演説中に暴漢に襲われたことがあった。
刃物を突きつけられながらも、逆にその腕をねじ上げて取り押さえ、最後には「暴力は許さへん」と言って聴衆の拍手を浴びたという。
神戸大震災の時には自ら先頭に立って瓦礫を掘り返し、誰よりも泥だらけになって救助にあたった。
また、自分の間違いは素直に認め、いち早く謝罪をする柔軟性も持ち合わせている。
そんな人物が――本当に自ら命を絶つのだろうか?
由梨の胸には疑念が膨らんでいった。
帰路、同僚記者からのLINE通知が届いた。
「高橋、見たか? 暴露チャンネルの動画」
スマホで検索すると、すぐにヒットした。
《長谷川議員 裏金の証拠!?》
《次に消えるのは誰だ?》
映像はあまりに鮮明で、議員と建設業者が密談している様子が流れている。しかし口の動きと話の内容が合ってない。動画は明らかな加工が施されていた。
◆
夜、取材を終えた由梨は汐路港駅に降り立った。駅構内は蛍光灯の白い光に満ち、コンビニのネオンとタクシーのテールランプで一見、安心できるような雰囲気に包まれていた。
しかし、駅を出てロータリーを横切り、路地へ一歩足を踏み入れると空気が変わる。街灯はところどころ切れており、オレンジ色の電球が弱々しく照らすだけ。潮の匂いを含んだ風が吹き抜け、ほぼ暗闇で人気はほとんどなかった。
ふと背後に影が伸びた。振り返ると、三人の男が無言で歩いてくる。キャップやパーカーで顔は見えず、その歩調には足音が無く静かで気味が悪い。
次の瞬間、腕を掴まれ、路地裏へと引きずり込まれた。
声を上げようとした瞬間――。
暗がりから飛び出した影が一人の男を蹴り飛ばした。不意をつかれた男は家の塀に顔面から激突し倒れ込んだ。
重い肉のぶつかる音。続けざまに、鋭い拳がもう一人を壁際へ叩きつける。
最後の一人がナイフを振り上げたが、その手首を掴まれ、無理やりねじ伏せられた。
刹那の出来事。
無言の暴漢三人は、あっという間に力でねじ伏せられ、二人は呻き声を上げながら逃走した。残った一人は地面に押さえつけられ、動けない。
由梨は呆然と立ち尽くした。
暗闇に潜むその人物の顔は見えなかった。だが――。
「早く、この場から離れて」
低く落ち着いた声が響いた。
はっと我に返り、由梨は震える足で路地を駆け出した。
自宅マンションに戻り、鍵を回す。
!? 鍵が開いてる・・・? 出勤前は閉めたはず・・・
冷たい汗が背筋を流れ落ちる。
恐る恐る中に入ると、部屋は滅茶苦茶に荒らされていた。机の引き出しは引き抜かれ、書類は床に散乱、本棚からは資料が引きちぎられたように消えている。
「……なんで……」
膝が震え、息が荒くなる。
咄嗟にスマートフォンを取り出し、110番に通報した。
次に編集長にも連絡を入れた。
警察が来るまでの間、部屋の真ん中に呆然と座り込みながら、さっきの一件のほんのりとした柑橘系の残り香を思い出していた。