日常の影
神戸の街は、朝の光に濡れていた。ポートタワーの赤が、まだ眠気の覚めない空の下でぼんやりと浮かび上がる。
三宮で降り、通勤客の群れに混じりながら、高橋由梨は神戸シティ新報のビルへと急いでいた。
二十八歳、社会部記者。スーツのポケットには、締め切り間際に走り書きした取材メモと、昨夜飲みかけて忘れたペットボトルの水が雑然と突っ込まれている。
エントランスで顔見知りの先輩に軽く会釈を返すと、デスクに腰を下ろすや否やデスクトップの画面を点ける。
メールが十数件溜まっていたが、まず気になるのは速報欄。
「市議・長谷川の所在不明、警察は自宅からの失踪として捜索」
その一文に、由梨の眉が動いた。
背後から声が飛ぶ。
「由梨、長谷川の件、取材に行ってみろ」
デスクの声は、いつもより少しだけ重かった。
頷きながらも、心のどこかでざらついた感覚を覚える。最近、神戸市政を巡る妙な噂を耳にしていた。リニア建設予定地、県議と業者の癒着、そして不可解な人事……。その断片が、今回の失踪と結びつくような気がしてならなかった。
***
夕方。取材帰りだが現場から直帰する事にした。会社に連絡し、電車を乗り継ぎ、汐路市の自宅マンションへ向かう前に、彼女は自然と足を「おにぎり工房ひなた」へと向けていた。
小さな店だが、夕暮れどきには近所のサラリーマンや学生でにぎわう。温かい灯りに誘われるようにガラス戸を開けると、狭い店内には焼き魚の匂いと惣菜の混じった匂いが食欲をそそる。
外向きの3人掛けしかないイートインスペースには女子高生がおにぎりを食べながら雑談している。
「いらっしゃいませ」
カウンター奥から店主が笑顔を見せた。
きりっとした立ち居振る舞いに、由梨はいつも少し見とれてしまう。栄養士の資格パネルがレジ横に飾られていて、名前だけは知っている。
――日向真理子
「鮭と、若菜をお願いします」
「毎度おおきに! 今鮭焼いてるから、ちょっと待ってな」
真理子の関西弁の柔らかい調子は不思議な安心感を与えてくれる。
ふと横に目をやると、スーツ姿の長身の男性がレジで会計を済ませていた。
お堅いサラリーマンといった風体、整った背筋。恐らく引き締まった体をしている。
その横顔を、由梨は何度か見かけていた。
名前は知らない。
「……」
彼と店主が交わす視線は、どこか普通の客と店員のそれではないように思えた。軽い会話すらない。
だが沈黙がいつもの二人のルーティンワークのように感じられた。
――二人は知り合いなのかな・・・? そんな事私には関係ないけど・・・
――すごくお似合いだ・・・
男性が出ていき、由梨の番になる。
真理子「鮭と若菜で550円ですね」
由梨「じゃあ ペイペイで」
真理子「はーい」
真理子がスキャナーを持って待っているが、アプリが立ち上がらない。
真理子「ごめんな。ここちょっと電波入りにくい時あんねん。」微笑みながらフォローしてくれるが余計に焦る。―—先にアプリ立ち上げとけよっと 自分に突っ込む。
なんとか会計を済まし、おにぎりを受け取ると、心の奥底で、小さな針でチクリとされた痛みが走った。
――あの店主さんに勝てる要素が私にある?
――!? 何?この感覚 ひょっとしてヤキモチ・・・?