7-6 死の雪
第七幕 王家の記憶ー後編ー
六章 死の雪
氷華繚欄が放たれ、スノウの全身は絶対零度の氷塊に閉ざされた。
戦いは終わった――誰もがそう信じかけた。
セルリアンもまた、剣を支えに深い息を吐き出す。限界を超えた魔力、痺れるような疲労。それでも胸を満たしていたのは、弟を守り抜いたという確かな安堵だった。
ようやく終わったのだ、と。
だが――その安堵は、刹那にして打ち砕かれる。
氷塊の奥で、かすかに鼓動が響いていた。
スノウの心臓はまだ動いていたのだ。
それを揺り起こしていたのは、ただ一つ。セルリアンへの、燃え尽きぬ憎悪。
「……セルリアン……! この程度で、僕を……倒せると思ったのか……!」
氷を隔ててなお、怨嗟の声が響く。
その魂は狂気に蝕まれ、かつて「天使」と称された力は、憎悪に歪められていく。
氷の外へ散らばっていた羽根が、ぞわりと震えた。
スノウの念に引かれ、白き羽根は空中で集い合い、ひとひら、またひとひらと漆黒へと染まっていく。
やがて、闇の結晶となった雪片が、静かに舞い落ち始めた。
――死の雪。
それは触れた命を蝕み、十日ののちに必ず死をもたらす、神域の呪い。
外傷も毒も痕跡を残さず、ただ病死としか見えない。いかなる魔術・魔法をもってしても癒すことはできない。
スノウは己の命を削り、なおも死の雪を紡ぎ出す。空に舞い上がる黒雪は増え続け、王都を覆い尽くそうとしていた。
同時に、彼は空間を裂き、異界の門を開いた。
――ずるり、と。
王都の地に、無数の魔物が溢れ出す。
屋根を砕き、門を打ち破り、石畳を突き上げて現れる異形たち。
各所で悲鳴が上がり、王都は瞬く間に混沌へと沈んでいった。
セルリアン、ブラッドリィ、スカーレット――それぞれが散り散りとなり、果ての見えぬ群れに立ち向かうことを余儀なくされた。
◆
王都の東門。
そこに立つセルリアンの前に、黒々とした群れが押し寄せていた。
魔剣を構え、彼は氷結の術を解き放つ。轟音とともに極寒の風が吹き荒れ、突進してきた魔物たちは瞬く間に凍りつき、氷の彫像と化した。
だが砕けた氷像の向こうから、次の群れが容赦なく溢れ出す。
「……くそっ……!」
苛立ちの声が喉の奥から漏れる。
城下町の石畳の向こうでは、避難しきれなかった人々が悲鳴をあげ、四散していた。幼子を抱えた母親が転び、そこへ魔物が跳びかかる。セルリアンは即座に剣を振り抜き、氷の槍で魔物を貫いた。母子は泣き叫びながら逃げ去る――その背後にも、すでに別の魔物が迫っていた。
いくら凍らせても、焼き払っても、数は減らない。むしろ湧き出す速度のほうが早いのだ。
砕けた屍は霧のように消え、間もなく同じ影が再び形を成して立ち塞がる。
セルリアンは奥歯を噛み締め、魔剣に闇の力をまとわせる。漆黒の奔流が刃に収束し、振り下ろした一閃は、魔物の群れを粉々に打ち砕いた。地を震わせる衝撃。だが波のように次の群れが押し寄せ、彼の前進を阻む。
終わりが見えない。
市民の泣き声と断末魔が、風に混じって響き渡る。
セルリアンは息を荒げながらも、決して退かぬ。弟のもとへ辿り着くために。
そのためだけに、彼は群れの中へ斬り込んでいった。
◆
王都の中央広場では、ブラッドリィが王都騎士団を率いて魔物と激闘を繰り広げていた。
騎士たちは必死に剣を振るうも、次々と押し寄せる魔物の数は減る気配を見せない。
「――南側を固めろ! 市民を優先して退避させろ!」
ブラッドリィの鋭い声が、戦場の喧騒を切り裂く。
指示を受けた騎士たちは混乱を抑え、隊列を立て直して動き出した。
彼自身も魔術を放ち、炎と雷を交錯させて魔物の群れを薙ぎ払う。だが額には、珍しく疲労の色が濃く浮かんでいた。
「……これでは、きりがない……!」
冷静な分析の奥底に焦燥を隠しきれず、低く呟く。
このままでは王都が押し潰されると悟った瞬間、彼は覚悟を決めた。
「全員、下がれ――っ!」
ブラッドリィは自らの魔力を極限まで引き上げ、両手を広げる。
広場を覆うほどの術式が瞬時に展開し、氷と炎と雷の奔流が嵐のごとく炸裂した。
一瞬で数百の魔物が灰となって消え去る。
だがその反動で、ブラッドリィは片膝をついた。
なおも剣を構え続ける姿に、周囲の騎士たちは震えるような敬意を覚えていた。
◆
その頃、スカーレットは城の庭園にいた。
王都に魔物が現れたとの報を受け、兄と友のもとへ急ごうと城門へ向かっていた矢先――。
空間が裂けた。
目の前の空が縦にひび割れ、暗黒の穴が広がる。その裂け目から、腐臭とともに無数の魔物が這い出してきた。牙を剥き、地を震わせ、庭園の緑を踏み荒らしながら。
スカーレットは思わず息を呑み、足を止める。
腰の火炎剣を抜き放ち、紅蓮の光をまとわせる。闇と炎を併せ持つその魔力は、彼にしか纏えぬ神聖な輝きを放った。
次の瞬間、火炎が唸りを上げ、斬撃となって魔物の群れを薙ぎ払う。黒い影が焼かれ、崩れ落ちていく。
だが――数が減らない。
斬っても斬っても、魔物は穴から次々と溢れ出す。剣を振るうたび、熱い息が漏れ、体の奥に疲労が蓄積していった。
「……はぁ、っ……くそ……!」
苦悶の声を漏らしながらも、彼は剣を握り直す。肩で荒く呼吸し、足取りも重い。それでも一歩も退かぬよう、必死に踏みとどまっていた。
その姿を――遠くから冷ややかに見つめる眼があった。
氷結の中に囚われたスノウ。彼は眷属の魔物を通してスカーレットの孤立を知ると、薄く笑みを刻んだ。
狙いはただ一つ。
死の雪を浴びせ、スカーレットを天の加護によって蘇らせ、己の手の内に堕とすこと。
「……さあ、スカーレット。僕のものになれ」
その呟きとともに、庭園の上空に黒い煌めきが生まれる。羽根から削り取った魂と魔力で練り上げた、死の雪。
光を帯びた結晶が、神聖な祝福のように、静かに空から舞い落ちてきた。
「……雪……?」
剣を振るい続けていたスカーレットは、不意に足を止める。
見上げた先で、視界に散る漆黒の結晶に目を奪われ、心を覆う疲労が和らいでいくような錯覚に包まれた。
その雪が死をもたらす呪いだと、彼が気づけるはずもなかった。
祝福にも似た光景の中、死の雪は静かに、確実に、スカーレットを包み込もうとしていた。
◆
セルリアンは、魔物の群れをようやく突破した。
衣は裂け、額には汗が滲んでいる。疲労の影が濃く顔に刻まれていたが――ただ一つ、弟スカーレットのもとへ急がねばという思いだけが、彼の足を前へと突き動かしていた。
その時だった。
はるか庭園の上空に、黒く輝く雪が舞い降り始めた。闇に沈むはずの黒が、光を帯びて祝福のように見える――だが、その正体をセルリアンは知っていた。
息が詰まる。見間違えるはずがない。
「……死の雪……!」
その名を叫ぶと同時に、セルリアンの顔から血の気が引いていく。
死の雪――天使の羽から削り取られた禁忌の産物。神の領域に属するその結晶は、触れた者の生命を奪い、やがて死をもたらす。王家に伝わる叡智を継ぐ彼だからこそ、その真の恐ろしさを知っていた。
「……スカリーッ!」
喉を裂くような叫び声が、庭園を目指して響いた。
セルリアンは迷わず、氷の空間魔法を発動する。身体が一瞬で粒子へと砕け、氷の煌めきとなって風に散る。
死の雪が弟に――。
恐怖に震える心を押し殺し、庭園に立つ弟がまだ無事であること唯一つを強く祈った。




