7-4 千年の渇き
第七幕 王家の記憶ー後編ー
四章 千年の渇き
夜半、王宮の庭園に人影が二つ。
スノウに誘われてやって来たスカーレットは、昼間の出来事が頭を離れず、胸の内にざらつきを抱えていた。
「スノウ様……どうして、私を呼んだのですか」
声を抑えつつ問いかける。
「昼間のあれは……ただの気まぐれ、ですよね?」
スノウは薄く笑んだ。月光を受けて、白金の髪が冷ややかに光を返す。
「気まぐれ、か。君はそう思いたいんだろうね」
「……?」
銀の瞳が射抜くように覗き込み、囁きは甘やかで、けれどぞっとするほど冷たかった。
「本当は、ずっと君を求めていたんだよ。セルリアンではなく……君を」
その言葉と同時に、庭園の景色がぐらりと揺らいだ。
月も花も石畳も、すべてが影に溶け、輪郭を失っていく。
「っ……!」
スカーレットの背筋に冷たい悪寒が走る。
月の光が翳った。
庭園に広がるはずの夜の景色は、いつの間にか闇に呑まれ、草花も石畳も深淵に崩れ落ちる。ここはもはや王都の庭園ではなかった。スノウの「孤独」が編み出す異界、千年の闇が形を持つ領域だった。
その中心に、スノウの腕に囚われたままのスカーレットがいた。
肩を押さえ込まれ、抵抗しようにも力が抜けていく。冷たい指が頬をなぞり、顎を掬う。次の瞬間、押し当てられる唇。熱と冷たさの入り混じる侵略的な口づけに、視界がぐらりと揺れる。
「……やめ……っ」
か細い声は闇に吸い込まれる。けれどスノウの囁きは、ひどく甘美で心を惑わせた。
「君は、ずっと誰かに守られてばかりだろう。けれど僕なら、君を守るだけじゃない。君を満たす」
胸の奥を突かれ、スカーレットの心臓が乱打する。冷たいのに、熱い。怖いのに、甘い。
——このまま委ねてしまえば、楽になれるかもしれない。
ほんの刹那、そんな考えがよぎった。だがすぐに、兄の姿が脳裏に差し込む。凍える孤独から何度も救ってくれた温もり。必死に縋ろうとするが、闇が絡みつき、思考はまた沈んでいく。
「スカリー……いい響きだ。セルリアンにだけ許された呼び名だと分かっているのに、僕はあえて呼ぶんだよ。だって、君を彼よりも近くで、誰よりも深く知りたいから」
スカーレットの胸を冷たい手が這う。衣の上から押し当てられた掌が体温を奪い、背筋が粟立つ。
額や頬への口づけはひどく優しい。けれど首筋に触れた瞬間だけは容赦なく冷たく、氷の針で刻みつけられるように痛かった。
「ひっ……」
短い喘ぎが零れる。
——だめだ。兄上以外に、こんな呼び方をさせたくない。
必死に思考を繋ぎ止めようとする。闇に飲まれそうになりながらも、胸の奥にある兄の面影を必死に掴む。
声にならなくてもいい。届かなくてもいい。ただ一心に願う。
——兄上。僕を見つけて。どうか、助けて。
しかし足元から闇が這い上がり、意志すら絡め取っていく。心臓の鼓動が遠ざかる。温かさは失われ、代わりに広がるのは底知れぬ孤独。
「スカリー…君の笑顔を、僕に向けておくれよ……」
その甘美な囁きに、瞼は重く、意識が霞む。
——堕ちる。闇に呑まれる。もう戻れない。
その刹那。
凍てつく破砕音が闇を裂いた。
氷の刃が音もなく走り、スノウの腕と唇を断ち切るように冷気が迸る。異界の景色が白く凍り、影の庭園は瞬く間に凍結していった。
スノウがスカーレットを抱き込む力が緩み、意識が一気に現実に引き戻される。
その胸に流れ込む温もり。——兄の気配だった。
振り向いた先、氷の輝きを背負って立つセルリアンの姿があった。瞳は氷刃のように冷え、けれど弟を抱き寄せる腕だけは強くも優しい。
スカーレットの瞳に光が戻る。ルビーのように輝く双眸に兄の姿だけが映り込むと、安堵とともに、スカーレットの瞳から涙が零れた。
堰を切ったように、声もなくぼろぼろと涙が溢れる。必死に堪えてきた恐怖も孤独も、兄の腕の中で一気に崩れ落ちていく。
その震える姿を見た瞬間、セルリアンの瞳に怒りが走った。
抱き締める腕はさらに強くなり、声は氷よりも冷たく響く。
「……よくも」
その一言は、異界の空気ごと震わせる静かな怒声だった。
セルリアンの周囲に、無数の氷結が花開く。
スノウが愉悦を浮かべた笑みを張りつけたまま、二人の王子を隔てる決戦の幕が、いま開こうとしていた。




