1-6 癒す温もり
宵闇の城の門前で夜を明かしたジェイドは、朝の光が差し込むと同時に、ゆっくりと立ち上がった。体は冷え切り、疲労困憊だったが、彼女の瞳には微塵も後悔の色はなかった。愛猫のミィが心配そうに足元をすり寄る。
「大丈夫よ、ミィ。私たちは、ここにいるべきなの」
ジェイドは門に手を触れた。冷たく、固い石の感触が、彼女の決意を一層強くする。城の主が、彼女を中に招き入れることはなかった。しかし、彼女を追い出すこともしなかった。その事実こそが、ジェイドにとっての希望だった。
その日、ジェイドは門の傍らで、枯れた草木を拾い集め始めた。そして、小さな焚き火を起こし、持っていたわずかな干し肉を温めた。香ばしい匂いが、静まり返った森の中に微かに漂う。
城の奥、スカーレットは自身の部屋の窓から、庭園の先に広がる森を眺めていた。彼の視線の先には、門の前に立つジェイドの姿があった。彼女が焚き火を起こし、わずかな食事をとっている様子が、彼の目にはっきりと映った。
「まだいるのか、あの娘は」
レイブンがスカーレットの肩で小さく鳴いた。
「しつこいにも程があるな。諦めてどこかへ行くかと思っていたが」
スカーレットは、返事をしなかった。彼の心は、相変わらず感情の動きを見せない。しかし、昨夜から続くジェイドの存在が、彼の意識の片隅を占め続けていた。彼女がそこにいるという事実が、彼の平坦な日々にかすかな波紋を投げかけていた。
その日の午後、ジェイドは城の庭園へと足を踏み入れた。門は固く閉ざされたままだったが、彼女は庭園のどこかに、小さな隙間があることに気づいていた。彼女の翡翠色の瞳は、光の微細な変化を捉え、風の流れを感じ取る。それは、魔力としてまだ覚醒していない、彼女自身の生まれ持った特別な感覚だった。
枯れた花々が広がる庭園は、まるで生きることを諦めたかのようだった。しかし、ジェイドはそこに、かつてこの場所が持っていたであろう美しさを感じ取った。
「なんて、悲しい場所なの…」
ジェイドは、膝をついた。そして、枯れた土にそっと触れる。彼女の指先から、微かな光が放たれ、枯れた大地にじんわりと染み渡っていく。それは、彼女自身も自覚していない、秘められた癒しの力だった。彼女はただ、この悲しい場所を、少しでも慰めたいと願っただけだった。
城の回廊を歩いていたスカーレットは、ふと、庭園から漂う微かな温かい気配に気づいた。それは、彼の影の魔力とは全く異なる、純粋な光の気配だった。彼は導かれるように庭園へと向かう。
そこで彼が見たのは、枯れた花々に囲まれ、土に触れて佇むジェイドの姿だった。彼女の指先からは、微かな光が溢れ、その光に触れた枯れた草木が、ほんのわずかだが、生命の息吹を取り戻しているようにも見えた。
スカーレットの心に、激しい動揺が走った。彼の周りのものは、すべてが朽ち、生命力を失っていくのが常だった。それなのに、この娘は、たった一人で、枯れた庭園に微かな生命の光を灯している。
「…何をしている」
スカーレットの声に、ジェイドはびくりと肩を震わせ、振り返った。彼女の顔には、土が付着し、汗が滲んでいたが、その瞳は輝いていた。
「この庭が、あまりにも悲しそうだったので…少しでも、元気づけてあげたかったのです」
ジェイドは、はにかむように言った。彼女の言葉は、スカーレットの心を直接揺さぶった。悲しい? この庭が? 彼は、永い間、何も感じずに生きてきた。美しいものも、醜いものも、彼の心には何の感情も呼び起こさなかった。しかし、この娘は、枯れた庭園にすら「悲しみ」を感じるというのか。
スカーレットは、ジェイドの隣に歩み寄った。そして、彼女が触れていた土に、そっと手を伸ばす。彼の影の魔力が、光の魔力の残滓に触れ、微かにざわめいた。それは、拒絶ではなく、むしろ引き寄せられるような感覚だった。
「…愚かなことだ」
スカーレットは、そう呟いた。しかし、彼の声には、先ほどまでの冷たさはなく、微かな困惑が混じっていた。
ジェイドは、スカーレットの隣に座り込むと、彼の顔をじっと見つめた。
「愚かだとしても、私はそうしたいのです。あなたが、どれほどこの場所を空虚だと感じていても、私はこの庭に、あなたの心に、温かさを届けたい」
彼女の言葉が、スカーレットの心の奥底にある凍りついた氷塊に、小さな亀裂を入れた。それは、兄セルリアンの温かさとも違う、まるで新雪のように純粋で、触れると溶けてしまいそうな、優しい温かさだった。永い時の中で、彼が忘れていた「癒し」という感情が、微かに蘇り始めた瞬間だった。