6-3 王太子セルリアン
第六幕 王家の記憶ー前編ー
三章 王太子セルリアン
スカーレットは、兄の温かな抱擁の中で静かに涙を流していた。彼の意識は、兄の愛という光に導かれ、次の記憶へと辿り着く。
気づけば彼は、再び兄セルリアンの部屋に立っていた。しかし、そこにスカーレット自身の姿はなかった。彼はいま、セルリアンの視点からこの記憶を追体験しているのだ。視界は兄のものとなり、心は兄の胸奥に溶け込んでいくように共鳴していた。
セルリアンは弟の部屋を後にし、一人、自室の机に向かっていた。部屋は王太子の執務室も兼ね、帝国各地からの報告書や貴族の嘆願書が山のように積まれている。王の代理として国務を担うこともしばしばで、彼は毎夜のように灯火の下で書簡を裁いていた。
窓の外には、訓練場と広大な庭園が広がる。その場所は弟が好んで過ごす場所であった。セルリアンは疲れた時、ふと手を止めては窓外に目を遣った。そこには剣を振るう弟の影、炎を操る弟の姿。強さの裏に幼い日の無邪気さを重ね、彼は誇らしさと同時に温かな励ましを得るのだった。
その日もまた、机に伏した疲労を振り払うように窓を見やると、スカーレットが火炎魔法の練習に没頭していた。掌から放たれる炎は竜の形をなし、標的を鮮やかに焼き尽くす。その光景に目を細めながらも、セルリアンの胸裏にふと悪夢の残響が甦る。
『千年の孤独』
スノウが彼に見せた悪夢。それは三つの断片に分かれ、彼を蝕んでいた。
一つ目――真白な世界。まぶたを閉じても開いても同じ白、上下も時間もなく、息を吸おうにも肺に空気が入らぬ錯覚。声を上げても音は返らず、手を伸ばしても何にも触れられない。永遠に続く虚無の牢獄。皮膚は冷気に覆われ、鼓動は氷に閉ざされていく。思考すら凍りゆくその孤独のなかで、彼の内奥に眠る闇の魔力だけがじわじわと胎動を始めていた。
二つ目――おぞましい幻。まだ幼いスカーレットが、見えぬ刃に何度も裂かれ、声にならぬ悲鳴を上げる。助けを求め伸ばされた小さな手に応えようとしても、セルリアンの四肢は見えない鎖に縛られ、一歩も動けない。血の涙を流す弟は、死ぬことも許されず永遠に苦しみ続ける。その惨状を、彼はまばたきすらできず見続けるほかない。心が引き裂かれながらも、眼前の地獄から逃げられなかった。
三つ目――最も悍ましい夢。成長したスカーレットが、スノウの腕に囚われていた。白磁のような肌、雪のように色を失った髪。魂の灯は奪われ、ただ美しく冷たい人形と化した弟。その肩を抱きながら、スノウが嘲弄と甘美をないまぜにした声で囁く。
「彼はもう君のものじゃない。僕のものだ。見てごらん、この肌、この髪……どれほど美しいか。君の愛も忠誠も、すべて無意味だよ」
氷の指が頬を撫でるたび、スカーレットの温もりは薄れ、冷たい彫像へと変わっていく。セルリアンの叫びは届かず、胸を焼くのは無力と絶望のみだった。
夢はセルリアンの心を深く蝕んだ。いずれスノウが本当に弟を奪い去るのではないか、その恐怖は昼も夜も彼を苛む。思わず両手で顔を覆い、嗚咽がこぼれた。
「……スカリー……」
かすれた声で弟の名を呼び、涙を拭って再び窓の外を見た。そこには炎を操り、未来に向かって輝く弟の姿がある。その存在だけが、彼を正気の淵に繋ぎとめていた。
――この闇に呑まれるわけにはいかない。愛する弟を守るために。自らの魔を制御しなければならない。
「私が……この闇に飲み込まれる前に」
静かな決意を胸に刻み、セルリアンは机に向かう。王家に伝わる古の魔術書を開き、闇の力に抗する術を求めて頁を繰った。その眼差しは涙の奥でなお揺らぎながらも、確かな光を宿していた。
その時、執務室の扉が音もなく開いた。冷たい夜気と共に立っていたのは、深紅の衣をまとった古の魔女、ローズグレイだった。彼女の眼差しは、長い孤独を経てなお澄みわたり、セルリアンの心奥を見透かしているようだった。
彼の纏う気配から、絶望と決意、そして闇の胎動を正確に読み取っていたのだ。まるで、この瞬間を見計らって現れたかのように――。




