3-7 動き出す狂愛
第三幕 天使の来訪
七章 動き出す狂愛
季節がひとつ移ろうまでの間、天使は宵闇の城に留まり、髑髏王と枇杷の姫の日常を観察していた。
彼らの親密なやりとりが、スノウに見せつけるために行われた一時のパフォーマンスだった可能性を見極めるために。むしろ、彼は、そうであればいいと期待していた。
だが、幾日経っても、スカーレットとジェイドの日々のルーティンは、変わらず毎日、当たり前のように繰り返された。ジェイドが作った朝食を食堂で共に食し、日中は彼女が庭の手入れをするさまをスカーレットが自室や回廊で眺め、時には彼女の隣に立って見守る。そして夜にはまた、ジェイドが拵えた料理で食事を共にする。食事の席では、ジェイドが今日あったことや感じたことを話し、スカーレットは視線で相槌を打ちながら聴いている。
そして、スノウは、ジェイドの話を聴くスカーレットの口元が、時々僅かに笑みを浮かべていることに気づいてしまった。きっと本人も気づいてはいないだろう。彼の無感情だった表情の変化に、スノウは大きな衝撃を受けた。
スノウは、今日も庭園で日常を過ごしている二人の姿を、滞在している部屋の窓からあらためて見下ろした。彼は、天使の代名詞である慈愛の笑みを浮かべながら、銀の瞳をほの暗く澱ませた。そこには、慈しみとは対極の憎しみに連なる複数の感情が、どす黒く渦巻いていた。
スノウにとって、スカーレットは「自ら孤独を選び、感情を捨て、闇に君臨した孤高の王」だ。それは、スノウが唯一無二の理解者として彼の傍にいるために、とても重要な物語だった。しかし、ジェイドは、その物語を無邪気に、そして残酷にも塗り替えてしまった。スカーレットの心が、ジェイドとの些細なやり取りに動かされている。彼女が与える日常の温もりが、彼の心を溶かし始めている。
感情を失ったはずの友人が、一人の娘の存在によって、これほどまでに変わってしまった。スノウはその事実を、決して受け入れることができなかった。
「これまで順調だったのに…。…これは、君の差し金かい?…セルリアン」
窓辺に佇んだまま、スノウは古い記憶に浮かんだ人物の名を零した。スカーレットと出会ったばかりの頃、いつも彼の傍らにあり、彼が敬愛していた青の王子。その存在が、かつて何度も自分の望みを阻んできた。
「本当に君はどこまでも邪魔をしてくるね…」
その低い呟きは、誰に届くこともなく、宵闇の風に溶けた。あの頃も、スノウが欲した緋色の心の一番は自分ではなく、常に青の王子に向けられていた。
天使の美しい顔に、一筋の影が落ちる。
今のスカーレットは、ジェイドという癒しによって、髑髏の王ではない何かになりつつある。これは闇にとっての「呪い」だ。僕が、彼を、彼女から解放してあげなければ。
庭園では、ジェイドが薔薇に水をやっていた。スカーレットは、彼女の傍らに静かに立ち、その様子を見守っている。その姿は、まるで彼女を守る騎士のようだ。
スノウは、ゆっくりと固い足音を響かせ、庭園に向かった。庭に出た彼の白いローブは宵闇の生ぬるい風になびき、その姿は、まさに慈愛に満ちた天使そのもの。彼の口元には、いつも通りの裏表の見えない滑らかな笑みが浮かんでいる。
「こんにちは、ジェイド。今日も庭の手入れに余念がないね。この城で花の香りを感じることができるなんて、本当に驚きだ! ところで、今から少し、君の時間を僕にくれないかい? スカルのことで君と二人で話したいことがあるんだ。僕とスカルの、とても大切な話なんだ」
スノウは、無邪気なそぶりでジェイドに近寄り、そう告げた。まるで子供の遊びに割り込む大人のような軽快さで、優しく、そして威圧的な響きをもって。
ジェイドは近づいてきたスノウを見上げると、びくりと体を強張らせた。彼の視線に、背筋が凍るような感覚を覚えたからだ。彼の笑顔には確かな敵意が感じられた。
ジェイドの緊張に呼応したように、スカーレットが二人の間に身を置いた。スカーレットは、ジェイドの肩を静かに引き寄せ、スノウの視線を遮断するように彼女を自分の背に隠し、スノウの方へ向き直った。スカーレットがスノウを見る眼は依然として無感情だったが、彼が纏う周囲の魔力が影の渦を巻いている。それは、スノウに対するスカーレットからの明確な警告だった。
スノウは、そんなスカーレットの行動を、悲しそうに見つめた。
「スカル…君は、本当に変わってしまったんだね…。あの娘が、君の心を、呪いと同じように蝕んでしまったようだ」
スノウは、悲嘆に暮れるかのように、そっと目を伏せた。
そして、その瞳を開いた刹那、彼の瞳は、冷徹なまでに凍てついた銀色の狂気を宿していた。彼の唇はいまだ完璧な笑みを保ったまま、しかしその声は、氷点下の空気を震わせるように鋭く冷たく、その場に響いた。
「大丈夫。待っていて、スカル。僕がまた、君を助けてあげるから。君を邪魔する『呪い』は、僕が解決してあげよう」
スノウはそう囁くと、最上の笑顔を二人に残し、大きな翼を広げてその場から飛び去った。彼の背中から降り注ぐ天の光の粒は、以前のような慈愛に満ちたものではなく、冷たく不穏な輝きを放っていた。
ジェイドは不安そうにスカーレットの背に置いた手を握りしめ、天使を視界から遠ざけた。
スカーレットは、天使が残した言葉にわずかな違和感を持ったが長考はせず、背を振り返ってジェイドを見下ろすと、強張る彼女の肩に手を置き、安心させるように自分のほうへ抱き寄せた。
スノウは自分の住処に戻ると、人々が祈りを捧げる神殿の天上にある、神が祈りを受け取る祭壇に腰をかけた。人々が真摯に願いを託す様子を足下の雲間に見ながら、祭壇に置かれた彫像の輪郭を指先でなぞり、恍惚と笑った。彫像には、かつて緋色の王子と謳われ多くの人に慕われていた人物を写し取ったかのような面影があった。
スノウの中で、スカーレットへの狂愛が純粋な悪意へと変化した。彼の天使の皮が、再び剥がれ落ちた瞬間だった。




