3-2 天使の来訪
第三幕 天使の来訪
二章 天使の来訪
宵闇の城での日々は、静かに、しかし確かに変化を重ねていた。
ジェイドは毎日のように庭の手入れに精を出し、固く荒れた土を少しずつ耕し、そこに若芽を植えた。彼女の癒しの魔力が滲み出すように伝わると、痩せた土壌にも瑞々しい息吹が宿り、長らく色を失っていた庭園は、少しずつだが色彩を取り戻していった。最初は僅かな草花にすぎなかったものが、やがて小さな群生となり、朝露を纏って輝く姿を見せ始める。
城内も同じように変わり始めていた。質素で冷たかった食卓には、ジェイドが工夫した温かな料理が並び、スカーレットの居室には香草の香りがほのかに漂うようになった。無機質だった空間は、知らず知らずのうちに、どこか人の住処らしい温もりを帯びてゆく。
その変化を、スカーレットは直接言葉にすることはなかった。しかし、彼が時折ジェイドの差し出す皿を無言で受け取り、食事を残さず口に運ぶこと。彼女が手入れした花を無表情のまま目で追うこと。その些細な仕草の一つひとつが、ジェイドには何よりの応えであり、確かな手応えだった。
ある日の午後。薄曇りの空の下、ジェイドは庭園の奥で新しい花壇の土を耕していた。額に汗をにじませ、土の感触を掌で確かめながら黙々と作業を進める。すると、傍らで丸くなっていたミィが、不意に耳をぴんと立て、低い唸り声を漏らした。毛並みがざわりと逆立ち、警戒の色が全身に走る。
「どうしたの、ミィ?」
ジェイドは手を止め、膝をついたまま問いかける。
ミィは答えるように喉を鳴らすが、視線は一心に森の奥深くを射抜いていた。前足をかすかに伸ばし、まるで「来るぞ」と告げるかのように地面を押さえつけている。その気配は、ロウクワット一族の時のような剥き出しの敵意ではない。もっと曖昧で、しかし根源的に危険なものを察しているのだと、ジェイドは直感した。
その瞬間――森の奥から、柔らかくも眩い光が差し込んできた。
それは太陽の光ではなかった。黄昏の空気を押し分け、異質な存在そのものが発光しているかのような光。しかも、ただ清らかなだけではない。底知れぬ深淵を隠し持ち、どこまでも純粋であるがゆえに、逆に恐ろしさを孕んだ光だった。
ジェイドは思わず後ずさる。
やがて、その光の中から、一つの人影が現れた。
白いローブを纏い、背に大きな翼を広げた男。雪のごとく白い髪、研ぎ澄まされた銀色の瞳。その顔には慈愛の笑みが浮かび、その立ち姿は見る者の心を強制的に浄化するような圧を持っていた。まさに「天使」と呼ぶにふさわしい、完璧な存在。
門前に佇むだけで、荒れ果てた城の空気が一瞬にして清められたように感じられる。
だがジェイドは、その完璧さの奥に微かな違和感を覚えた。
光の魔力は強大で清らかだ。けれども、その奥に潜むものは何だろう。決して邪悪ではない。だが、説明のつかない不穏さ――純白の布にわずかに滲んだ影のような気配。ロウクワット一族の傲慢な悪意よりも、もっと掴みどころのない「異質さ」。
「おお、やっと見つけた。最果ての髑髏の城に咲いたという、光の花……。なるほど、これは美しい」
天使は、まっすぐにジェイドを見据えた。
その銀の瞳に射抜かれると、体の奥まで見透かされるようで、ジェイドは息を呑む。足が地面に縫い止められたように動かない。
その時、城の奥から静かな足音が響いた。スカーレットだ。
彼は変わらぬ無表情のまま姿を現し、その肩には黒いレイブンが羽を休めている。空気を震わせる光に動じる様子もなく、ただ無言で天使を見据えた。
「……スノウ」
スカーレットがその名を口にした。抑揚のない声。それはただ、そこに立つ存在を認識したという事実だけを告げる響きだった。
「スカル! やあ、久しぶりだね。十年ぶりかな? 元気にしていたかい、親友!」
天使――スノウは満面の笑みを浮かべると、翼を揺らしながら駆け寄ってきた。その声音には疑いようのない親愛が込められている。だが、スカーレットの反応は冷ややかだった。
スノウは抱きしめようと両腕を広げ、スカーレットの肩に手を回そうとした。しかし、その過剰な親しげな仕草を、スカーレットは淡々と避け、軽く身をかわした。
銀の瞳と紅の瞳が交錯する。だがスカーレットの眼差しには何の感情も宿っていない。ただ冷たい水面のように静かで、何も映さない。
ジェイドはその光景を目の当たりにし、息を詰めた。
目の前の天使はスカーレットを「親友」と呼び、迷いなく慕っているように見える。だが当のスカーレットは、微塵も心を動かされていない。拒絶とすら呼べるその態度。そこに温かな交流の影はどこにもなかった。
スノウは、拒まれたにもかかわらず顔色一つ変えず、むしろ楽しげに笑みを深めた。そして、当然のように城門を跨ぎ、奥へと進んでいく。その歩みは柔らかだが、瞳の奥には氷刃のように鋭い光がちらついた。
慈愛に満ちた天使の仮面の奥で、何か別の感情がひそやかに蠢いていることを、ジェイドは確かに感じ取った。




