16-7 陽のたまり場
第十六幕 魅入の鳴鐘
七章 陽のたまり場
日が傾くと、中庭の石がゆっくり温度を手放す。けれど今日は、冷えすぎない。風の筋がよく通っている。魅入の鳴鐘は鳴らず、境界の襟元はきちんと正されたまま――いい一日だ。
翡翠の花は、夕方がいちばん息が整う。花弁は静かに閉じ、葉脈の奥だけがやさしく灯る。
ジェイドが水差しを傾け、王様がその隣に立つ。少し後ろでブラッドリィ、もっと高いところでレイブンが輪を描く。四つの拍が重なって、中庭にひとつの呼吸ができる。
「今日の咲き方、いいですね」
ジェイドが顔を上げる。
あたしは日向の斑から顔だけ出して、尻尾を小さく振った。
王様が小さく頷き、ジェイドを見て微笑む。ジェイドは耳まで赤くして、視線を花へ戻した。――うん、この感じ。ここが“ひだまり”になる音だ。
台所からは湯気の匂い、回廊では金具がひとつ鳴って止む。その短い音で、ブラッドリィがどこにいて何を直したかだいたい分かる。レイブンは一打ち羽ばたいてから高度を落とし、風の継ぎ目を撫で直した。城は、こういう小さな手入れの重なりであたたかくなる。
ジェイドの花壇は、今では小さな列になった。最初の一本――あの日、“歓迎の奇術”で咲いた花からの挿し木だ。根は浅くない。彼女の手が毎日そこへ呼吸を運ぶから。
あたしは花壇の縁を歩き、爪をしまって土の表面だけ軽く撫でる。湿り方はちょうどいい。夜露の前に、この温度を保てば、明日の朝も息が揃う。
日が落ちる。回廊の灯りがひとつ、またひとつ生まれる。
書斎の扉の下からは、細い光が長く伸びた。王様は、最近ずっと夜に調べ物をしている。紙の擦れる音、ページの返る速さ、呼吸の深さ――何かの結論へ、静かに向かっている音だ。
ジェイドは、その扉の前を通り過ぎる時、ほんの一瞬だけ足を止めた。問いかけたい気持ちが袖口にたまる。けれど、彼女はそれを胸の内にしまって、そっと通り過ぎる。
訊かないことも、見守ることのひとつ。
あたしはその背に並んで歩き、足音を半拍だけ遅らせる。大丈夫、という合図だ。
深いところでは、青もまた静かに息をしている。王家の闇の領域――深淵の庭の気配は冷たいが、刺さらない。今日はよく眠っている匂いがした。城の中の暖かい場所は、一日ごとに増える。あたしのお気に入りのぽかぽかスポットも、気づけば倍になった。
レイブンが低く降りてきて、梢に止まる。
「境界、異常なし」
「了解」
あたしは尻尾で一度だけ床をとん、と叩く。
ブラッドリィは工具袋を置き、仮面を外して棚の奥へ戻した。何も言わないけれど、扉の蝶番が今日はよく眠れそうだと教えてくれる。
ジェイドが水差しを片づけ、王様が一歩だけ遅れて回廊へ向かう。灯りが彼の横顔を撫で、影が長く伸びる。
この距離、この呼吸、この静けさ――あたしはこの平和が最高に気に入っている。
王様が何を決めるのか、まだ分からない。けれど、分かっていることがひとつある。
王様が歩みを決めた時、主も歩みを自分で選ぶ。
そして、あたしの役目は変わらない。
――ジェイドの幸せを守る。
境界を巡り、鳴らない鐘を必要なときだけ鳴らし、ひだまりを増やしていく。
明日もまた、ここで。
あたしは丸くなり、ひと鳴きぶんだけ喉を鳴らした。




