14-7 暁と共に眠れ
第十四幕 暁と共に眠れ
七章 暁と共に眠れ
結界の内側で、風が止んだ。
止んだのは一拍だけ。その静けさが、終わりの合図だった。
私とスノウの間に、もう言葉はない。あるのは呼吸と、刃の向きだけ。
黒銀の翼は、まだ大きい。
傷だらけで欠けているのに、それでも彼は翼を広げる。祈りの形はもうなく、呪いの形にも定まらない。
ただ「欲しい」の芯だけが、最後の力になって彼を支えている。
私は剣を立てた。
緋と闇の芯に、兄上から受け取った氷の静けさが深く通う。刃が小さく鳴り、胸の火が温度を固める。
背の呼吸は変わらない――その重みを、私はもう疑わない。
外では、朝が進む。
ブラッドリィは柱に手を当て、結界を支える。見えない壁の向こうでジェイドが掌を重ね、ミィは腕の中で身を丸め、レイブンが風で守る。
誰も見えない。声も届かない。けれど、待つ者の呼吸は、たしかに背に重なる。
「終わりにしよう」
低く告げると、スノウは欠けた翼をきしませ、私だけを見る。
その目の奥に、一瞬だけ水面の揺らぎ――白い石、噴水、「げんきだして」。
だが次の瞬間、黒銀が覆い、すべてを飲み込む。
彼が踏み出す。刃が立つ。
黒銀の羽根が骨ごと鳴り、一直線に私の胸を狙った。重い。速い。迷いがない。
私は剣をかぶせ、正面から受ける。衝突。世界が低く唸り、色硝子が震え、床の文様が波打つ。
腕が痺れ、足が石を掴む。緋が押し、闇が抱き、氷が締める。衝撃は逃がさず、芯へ通して刃に変える。
「君は――」
スノウの喉が震える。
「君は、僕と同じ場所に立ってくれない」
私は返事をしない。半歩送って角度を変え、刃の面で鎌を外へ滑らせた。
空気の厚みがずれ、黒銀の線は脇を抜けて結界へ砕ける。
私は踏み込む。今度は私から。
肩の高さから斜めに下ろし、すぐに返して逆袈裟。緋の線が重なり、闇が揺れを止め、氷の縁が震えを抑える。
黒銀の羽根が大きく裂け、乾いた赤が砂のように舞う。スノウの息が乱れる。
それでも彼は翼を打つ。
「君は僕のもの……」
掠れた声は、祈りでも呪いでもなく、ただの願いに近かった。
「違う」
私は首を振り、その後は沈黙を選ぶ。もう、言葉で変わる段は過ぎた。
嵐は戻らない。
黒銀の風は一本の柱へ縮み、最後の力を束ねて迫る。天井から床までを繋ぐ圧の直線――押す、砕く、踏み潰す、それだけの力。
私は正面から進む。剣を低く構え、柄を両手で握り、呼吸をひとつ。
背に兄上が深く重なる。
「重荷を、私も持つ」
――声ではない、確かな意志。
私は頷かず、呼吸で答えた。
踏み込み。
刃の芯に、緋と闇と氷が揃う。熱は暴れず、影は沈み込まず、冷たさは凍らせない。
三つは一本に束ねられ、濁らず、澄んだまま伸びる。
最後の一閃が、閃いた。
刃は柱の中心へまっすぐ入り、黒銀の重さを内側から切りほどく。遅れて、世界が鳴る。
天井の影が割れ、床の影がはねる。
黒銀の柱は羽根へ戻り、羽根は欠片へ砕け、欠片は光の粉になる。
粉は霧となり、静かに散っていく。
残っていた黒銀の残骸も、同じ光に包まれ、ほどけながら消えた。
結界の中の夜が、ひと息で薄くなる。
暁の線が、上から下へ一本、まっすぐ降りてくる。
燃えたのではない。焼き払ったのでもない。
――清められていく。
黒と銀は色を失い、透明になり、空気へ混ざって消える。
私は追い打ちをかけない。
刃をわずかに下げ、彼の目を見た。
彼は胸元に触れ、指先で空を掴むしぐさをした。弱い笑みが喉でほどける。
「……見つけた」
掠れた声が続く。
「やっと、重なったよ。昔、白い石の、噴水の庭で、赤い、髪の、子が……」
目がゆっくり開き、私を捉える。
遠い記憶がよぎる。
無邪気な笑顔。短い言葉。小さな手。彼が受け取っていた「一度だけ」の光。
暁の光が彼の頬を撫で、その輪郭を薄くする。
黒銀の残り火は、もう刃ではない。
「君と同じ幸せに……立ちたかったな……」
怒りも呪いも混ざらない。あるのは、届かなかった願いと、短い悔いだけ。
光が、声ごとやさしくさらっていく。
翼が消え、腕が消え、胸が溶け、顔の輪郭が淡くなる。
最後に残ったのは、瞳の底のかすかな光。
それも暁の中へほどけていった。
音が戻る。
高い窓を朝の風が通り、色硝子にやわらかな光が差す。
床の文様が深く息をする。
私は剣を見下ろし、柄から手を離した。
刃は澄んでいる。震えていない。
鞘に収める。金属が短く鳴り、静けさが広がった。
背で、兄上の気配がわずかに薄くなる。
去るのではない。重なりを浅くし、私に体重を返す。
「頑張ったな」――声にならない声が、胸の奥で温度になる。
私は足もとに視線を落とし、深く息を吐いた。
肺の底まで空気が入って、ゆっくり抜けていく。
喉は熱く、同時に冷たい。けれど、苦しくはない。
結界がほどけはじめる。
柱からブラッドリィの手が離れ、見えない面が薄くなり、光の膜は空気へ溶ける。
扉が開く前に、外の気配はもう中へ入っていた。
パンの匂い。湯の音。どこかの家の笑い声。
――そして、軽い足音。
「スカーレット様!」
ジェイドの声が弾む。
結界が消えると、彼女は駆け寄り、途中で速度を落として立ち止まった。
私の顔を見て、無理に笑わず、まっすぐ頷く。
ミィが腕から飛び降り、足もとに身体を擦りつける。
レイブンが梁から降り、ひと声だけ短く鳴く。
ブラッドリィは少し離れた柱の前で膝をつき、頭を垂れた。
誰も、言いすぎない。その沈黙が、ありがたい。
私は柱の前のブラッドリィへ歩み寄り、肩にそっと手を置いた。
彼が顔を上げ、視線が合う。
頷き一つ。呼吸の拍が重なる。
私はジェイドの肩に手を置き、ミィの頭を撫で、レイブンへ視線を送る。
「戻った」
それだけで十分だった。ジェイドの目尻に涙が浮かび、ミィが喉を鳴らし、レイブンが翼をひと振りして空気を整える。
ブラッドリィは静かに立ち上がり、結界の名残を確かめてから短く告げる。
「異常なし」
大聖堂の扉が開き、朝が流れ込む。
帝都の空は薄紅に染まり、黒い雲はどこにもない。屋根に湯気が立ち、通りの先で誰かが布を干し、遠くで子どもが笑う。
死の雪の結晶は、もう落ちてこない。
地に残っていたわずかな残骸も、朝の光に触れて静かに消えた。
私はもう一度、深く息を吐く。
肩から力が抜ける。膝はつかない。立ったまま、胸の内側に静かな空洞ができる。
そこへ兄上の呼吸が薄く満ち、朝の光と同じ速さで巡りつづけた。
暁と共に眠りについた天使の名を、私は呼ばない。
呼べば、何かが戻ってきてしまいそうで。
だが、忘れない。
黒銀の冷たさも、最後の言葉も、――遥か昔の、純粋な姿も。
忘れないまま、生きる。
それが、ここで剣を収めた私の責務だ。
「帰ろう」
私は皆に向かって言う。
ジェイドが頷き、ブラッドリィが一歩後ろにつき、レイブンが先に風を探り、ミィが跳ねる。
大聖堂を出る前に一度だけ振り返る。
床の文様は落ち着き、色硝子は静かに光を返す。
戦いの痕は、どこにもない。――ただ、朝があるだけだ。
私は背を向け、扉を抜けた。
暁は、もう朝になりかけている。
冷たい空気を胸に入れ、目を細め、ひとつ深い吐息を落とす。
そして歩き出した。
日常の営みの音の中へ。今日という日へ。私たちの、続きへ。




